自民党は、今国会での「性的指向および性同一性に関する国民の理解増進に関する法律」、通称「LGBT理解増進法案」の成立を目指しています。これに対し、「理解増進」ではなく、「差別禁止」を求める声がLGBT当事者から上がっています。この件を見ていて、私が考えたことを書いていきます。
LGBTの存在の透明化
LGBTの話題になったとき、信じられない発言を聞いたことは、今でも忘れません。
「LGBTの人なんて、そうそういないよね」
前職で、LGBTに関するニュースが話題になったときでした。LGBTであることを理由に差別的取り扱いをしてはいけないという大前提を共有しながらも、ある人が言いました。
「LGBTの人なんて、周りにはそうそういないよね」
私がその人に心を閉ざしたきっかけは、確実にその一言だったと思います。LGBT当事者はたしかに大変でかわいそうだけれど、今一つ身近に感じられない。身近にいないから。そう続いた言葉が、とても腹立たしかったことを覚えています。
LGBT当事者はあなたの隣にもいるかもしれない。この場にいて、あなたの発言を聞いているかもしれない。そして、その人はもう二度と、あなたにセクシュアリティについて口にしない、ましてや相談なんて、と決意したかもしれない。
少なくとも、私はそうでした。その職場では、「セクシュアリティについて明かさない」と決めました。恋愛に興味のない、読書好きの人としてその場にいようと決めたのです。
決して、悪い職場ではなかった
前職は、決して悪い職場ではありませんでした。急用で私が休むときも、他の人が休むときも、最初に出てくる言葉は「お大事にね」「大丈夫?」であって、「あの件、あなたがいないと困るんだけど」ではありませんでした。「今緊急のもの教えてね。やっておくから」と自然に出てくるようなところでした。
セクハラやパワハラなども私の知る限りではなく、働きやすい職場でした。前職において労働環境そのものがつらかったことはほとんどありません。しかし、LGBT当事者がその場にいないものとして話を進めるといった事態が、そんな雰囲気のいい職場でも、起きてしまったし、今も起きているでしょう。
何も言わなかった「私」
「LGBTの人は身近にいないだろう」なんて発言自体が暴力的だと、私はその場で口にしませんでした。ポジションが上の人の言葉ということもあったのですが、それよりも、そういった発言に「違うと思います」ということ自体が、私自身に対する「LGBT当事者なのではないか」という疑念を生むことを恐れたのです。
「LGBTの人は身近にいない」と言えてしまう人々に対し、「私がLGBTである」と伝わってしまうかもしれないと思ったら、それは恐怖でした。明日辞めてくれと言われるとまでは思っていません。差別的取り扱いを受けるだろうとも思いませんでした。しかし、私が「そう」だと知ったら、確実に私を取り巻く目は変わるでしょう。それが、怖くてたまらなかったのです。
LGBTの知識よりも大切にしてほしいこと
私は、LGBTに関するすべてを、世の中のひと全員に理解してもらうのは無理だと考えています。
18の性別を説明できますか
さかんに、LGBTへの理解増進という言葉が叫ばれるようになってきました。今回の自民党による法案も、その一つでしょう。しかし、「理解を増進」という動きには、私は疑問があります。
Xジェンダーでアセクシュアルと自認している私ですら、例えばタイにおける「18の性別」を説明することは難しいです。男女二元論に抗いたいとは思っても、どうしても男女に基づいて考えてしまいます。
また、「ポリアモリー」についても、少し誤解をしていたことがつい最近発覚しました。複数人と合意の上で交際することだと思っていたのですが、性愛を伴わなくてもポリアモリーは成立しうるようなのです。
「LGBT用語を全部覚えなさい」は無理がある
私は日本語を母国語としていますが、日本語の単語すべてを知っているわけではありません。それでも、日本語を使って仕事をしています。これは、LGBTに関しても同じです。
知ろうとする姿勢は大事ですが、網羅する必要はありません。LGBTが何の頭文字から来ているのかくらいは答えられた方がいいでしょうが、「18の性別」などを正解できなければならないとまでは思いません。
人間は、それほど多くのことを覚えられないのです。だから、「性別は男と女だけではない」「恋愛は誰としてもいいし、しなくてもいい」くらいのざっくりとした理解でいいと私は考えています。
理解よりも、大切なこと
LGBTに関する単語やその意味を覚えるよりも、大事なことがあります。
それは
「人にはそれぞれのセクシュアリティがあり、それによって差別されてはならない」
「人のセクシュアリティに踏みこんではならない」
「自分の身の回りにも、カミングアウトしていないLGBT当事者がいるかもしれない」
と意識することです。
どれほどLGBTに関する知識があっても、その理解がないのなら、意味はありません。
理解よりも、差別禁止であってほしい
法律は理解増進よりも、差別禁止であるべきだと私は考えています。理解よりもまず先に、差別してはいけないという意識が必要なのです。
差別を禁止するのは万能薬ではないけれど
「差別禁止は万能薬ではない」と言う人もいます。例えば、就職差別において、「トランスジェンダーだから不採用」と面と向かって言っていたのを、別の理由をつけて不採用にするだけだから、差別禁止には意味がないとする主張です。
私は、この主張が完全に間違っているとは思いません。もっともらしい理由で、採用における差別が行われている現状もあるからです。しかし、私は、「差別禁止」の法律を作ることを支持しています。多くの人は、法律を守ろうとします。抜け穴を見つけようとする人もいるかもしれませんが、意識としては、セクシュアリティを理由にした差別禁止は、人々の行動に影響していくのです。
LGBTについての配慮を学ぶ必要はある
先ほど、豊富な知識や完璧な理解である必要はないと書きましたが、教育現場や企業の人事、マネジメントの現場においては、どのような配慮が必要かといった知識はある程度求められます。しかし、それらの配慮は担当者にLGBT当事者への理解があるから行うものではなく、組織として応募者や従業員を差別的に取り扱いしないため、当事者がLGBTであるがゆえに社会からかけられるプレッシャーを減らすためのものです。
こういった状況においても重要なのは、「何が差別的取り扱いにあたるのか」「どういった配慮をするといいのか」ということです。理解よりもまず先に、差別してはいけないという意識が必要なのです。そこから必要な知識を得る行動に繋がっていきます。
差別禁止の法律を求めている
差別禁止を明文化することのメリットもデメリットもあるでしょう。しかし、現状、差別という根深い問題があります。まずはこの事実を認め、差別を禁止することを明文化することで、人々の意識を変えていく必要があります。
極端ですが、心の中ではLGBT当事者を差別していても、対外的にそれを表現してはならないという認識が浸透することがひとまずの目標だと思っています。他の差別問題も対外的に差別を表現してはならないとされるようになってから、内面的にも変わってきたという歴史があります。人の意識は、行動で形作られるのです。
理解を待つ余裕はない
厳しいことを言いますが、LGBT当事者の中には現在差別を受けている人がいます。その人達に、「理解が進むまで待ってください」と言うのでしょうか。
「理解が進んでから」は逃げ口上でしかない
差別はゆっくり解決すればいいというものではありません。長期的視野や取り組みは欠かせませんが、今苦しんでいる人を放っておくことは絶対にできません。
例えば、先ほど挙げた就職における差別や就職活動の困難は、LGBT当事者の生活水準を下げ、生存を困難にします。就職できたとしても、転職活動の困難さから労働環境のよくない職場での勤務を消極的に選択するしかなくなってしまうことも考えられます。
そういった困難が社会によってもたらされているのにも関わらず、「国民の理解が進むまで」「理解増進」などと言われてしまうことには強い危機感を覚えます。「理解が進んでから」って、理解が進んだと判断されるのはいつなのでしょうか。
私には、やはり逃げ口上にしか思えません。
そもそも、なぜ理解を得なければならないのか
根本的な問いですが、そもそも、なぜLGBT当事者が誰かの理解を得なければならないのでしょうか。シスジェンダー、ヘテロセクシュアル(性自認が身体の性と一致する、異性愛者)の人々は自身の性自認や恋愛の対象に対して、公的に「理解してもらう」とか、「説明する」必要はありません。それは、社会が「人間は当然、シスジェンダーでヘテロセクシュアルである」という前提のもとに成り立っているからです。
これは、特権です。そういうものであると了解されているから説明がいらない。マジョリティであるがゆえの特権なのです。対して、LGBT当事者は、社会に想定されていないことが多いので、「こういった事情があるので、このような配慮をお願いします」と理解を求め、それが受け入れられなければ、安心することができない場合が多いです。
「理解増進」が不要なものだとは決して言いません。しかし、LGBT当事者のための法律を「差別禁止」ではなく、「理解増進」に留めるのは、この構造を理解しているとは思えません。LGBT当事者はマジョリティの人々に対し、「理解してください。お願いします」と頭を下げ続けなければならないのでしょうか。逆のことは、起こらないのに。
そこには、上下関係のようなものが発生していないでしょうか。
「差別禁止」の先へ
セクシュアリティに関係なく、相手を尊重する社会を目指していくステップとして、「差別禁止」を明文化することが必要です。しかし、そこで止まってもいけません。差別をしないことを大前提として、一人の人間として相手を尊重することを考えていくことが大事です。