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Writer/佐藤恵美

私が実名で「書く」理由。アロマンティック・アセクシュアルのカミングアウト

「恋愛に興味がない? そりゃいい人と出会ってないだけだよ」。こう言われるたび「またか」とげんなりしていた。誰かに恋をすることも、性的な魅力を感じて惹かれることもない。アロマンティック・アセクシュアルという言葉を知るまでの40年以上、ふつうの女を演じようとしてきた私が、カミングアウトどころか実名でエッセイを書くに至ったのにはこんな流れがある。

アロマンティック・アセクシュアルを知り、カミングアウトへの執着を手放すまで

世のなかには「誰かを好きになるのが当たり前」という空気が満ちている。その輪から外れないように、ずっと仮面をつけて生きてきた。

アロマンティック・アセクシュアルを自認してカミングアウトを考える

はじまりは、10代の頃に感じた友達とのズレだった。まわりが恋の話で盛り上がるなか、私はいつも、テレビドラマでも見ているような「自分には遠い世界の話」を聞いている気分だったように思う。

「誰かを好きにならなきゃ」と、無理をして付き合ってみたこともある。けれど、そこに待っていたのは「これは自分がやりたいことじゃない」という違和感と、相手への申し訳なさだった。

相手と過ごしていて楽しい気持ちは確かにあるのに、それが友情ではいけないの?
身体的な接触や嫉妬、束縛がなければならないの?

相手に相談しても、受け入れられることなかった。

そんな私を救ってくれたのが、40代になって出会ったアロマンティック・アセクシュアルという言葉だ。自認してからは「自分は壊れているわけじゃない」と思えるようになり、マジョリティとの間に感じていた壁は少しずつ崩れていった。

アロマンティックやアセクシュアルについて知ったきっかけはSNSだ。当時はL・G・B・Tが認知され、マイノリティといえばこの4種類だと、私自身思い込んでいた。けれど多様なセクシュアリティの概念を知るにつれ、こう考えるようになった。

私も、カミングアウト、したほうがいいのかな。

ドラマや漫画では、マイノリティの人がカミングアウトに悩む場面や、思い切ってカミングアウトする場面がある。

じゃあ、私は? 映像でも絵でもない、いま、現実にこうして息をしている私は、家族に、友人に、あらたまってカミングアウトしたほうがいいんだろうか?

他人の言葉が生み出す呪縛にさよならを

これまで、何度「いい人がいれば変わる」と言われてきたか。まるで自分が未成熟と言われているようで、ひどく苦しいものだった。相手には悪気がないのだとわかっていても、耳にたこができるくらい言われ続けるとげんなりする。

30代が終わる頃までは、まわりの人と同じになれない自分を責めていた気がする。

私には、人と違う性質があるのかもしれない
もっと出会いとやらを探さなければいけないのか

答えははっきりせず、ただただ必死にマジョリティの枠に自分をはめ込もうとしていた。

けれど、いまはわかる。私は私で完成されている。
恋愛しないからってなんだ。

家族や友人、あるいは隣人との関わり。
美味しいものを食べたときの充足感や、ひとりで静かに過ごす時間。そこには確かに、豊かさと満ち足りた安らぎがある。

何人ものマジョリティが、私に「いつか変わるよ」と言った。この無邪気な言葉のなかには、いつも一滴ほどの哀れみがあった。

“ふつう” じゃなくてかわいそう。

それが伝わるから、いつもいつも「うるさいな」と言いそうになった。けれど、もうそんなふうに心を乱される必要はない。

セクシュアリティを「説明する」よりも、文章で「語る」

かつての私は、アロマンティックやアセクシュアルついて、他人に理解してもらおうとしていた。けれどいまは、あえて自分のセクシュアリティについて細かく説明しない。ライターの私には「書く」という手段があるから。

理解してもらうのはゴールじゃない

誰かに自分のセクシュアリティを伝えるカミングアウトには、膨大なエネルギーが必要だ。

相手が多様なセクシュアリティについて知らない場合、言葉の意味を説明するところから始まる。こんなふうに。

「私はアロマンティック・アセクシュアルです。アロマンティックとは、他者に恋愛感情を持たない、あるいは限りなく薄い人。アセクシュアルは、他者に性的欲求をもたない、あるいはとても薄い人のことです」

これを聞いたマジョリティは、きっとこう答える人が多いはず。

「そんなことあるの? 変わってるね」
「まだ本当に人を好きになったことがないだけじゃない?」

実際に私も同じようなことを何度も言われた。反論しようとしたこともあるけれど、あるとき気づいてしまった。

この説明の時間と労力は、私にとって、本当に値があるものなのか? と。

相手を教育したり理解を深めてもらったりするために、自分の心を削る。ひどくコスパが悪い気がした。

別の価値観をもち、別の人生を歩む他人が自分を理解してくれるなんてどれほどの幸運か。しかもその幸運がやってくるのは極めてまれだ。
自分のセクシュアリティを事細かに説明するエネルギーは、自分を喜ばせるために使ったほうがずっといい気がした。

「あ、この人には理解されないな」

そう思ったら会話を切り上げる。
相手に失望したわけではない。前向きなあきらめ、とでも言おうか。

声を出さずに話す道を選んだ日

「アロマンティックやアセクシュアルについて説明するのが難しい」と私が感じたのは、前例を挙げづらいからかもしれない。

例えば、ゲイやレズビアンであれば「好きになる対象は同性」という、わかりやすい答えがある。好きになる人の性別が自分とは違うってことだな、と理解しやすいだろう。

けれど「異性同性問わず、他人に惹かれない」と言われたらどうだろう。きっと「ちょっとよくわからない」と思う人も多いんじゃないだろうか。

人と人との間に、恋や愛が存在するのが当たり前な世界だ。そのなかにあって、私が時に未完成な人間として扱われるのは、きっと非常識なことじゃない。
そして、私が異常なわけでもない。

白いキャンバスの上に、ふたりの人間がもつ色を混ぜ合わせる。これを「恋」や「愛」と呼ぶのなら、私のキャンバスには1色のみ。そのほかは、余白の白だけ。

これをさみしいと感じるかと言えば、私の答えはノーだ。

余白が広いということは、それだけゆとりがあるということ。自分が好きに描き込めるということだ。しかし、この楽しさを理解してほしいと思うのは難しいかもしれない。私が、恋愛ありきの世界で生きる人たちを理解できないように。

だから、あえてカミングアウトするのはやめた。一対一で「実は・・・・・・」と切り出すのは、思った以上に力がいる。

そのかわり、私は自分の武器を使ってみることにした。
物書きとして働く、私の「文章」という名の武器だ。

カミングアウトではなく、ライターとして正直に書く選択をした結果

目の前の人に自分のセクシュアリティを説明するエネルギーは、労力も時間もかかる。それならばと、私は実名でありのままを書こうと決めた。「わざわざカミングアウトするのはやめよう」と決めていながら矛盾している。けれど、実は一番しっくりくる方法だった。

マジョリティのふりをやめた

私はライターになってもうすぐ4年になる。最初は顔も名前も出す気はなかった。Webコンテンツのみに関わって、ひっそりと働くつもりだった。

しかし、欲が出た。

もっともっと書きたい。日ごとに欲求が強まり、ついに顔と実名を出して活動しはじめた。
自分自身を名刺として、もっと活動の幅を広げようと思ったのだ。

そうして文章の仕事をしていくうち、ふと「自分のパーソナルな部分を書いてみたら、何か反響があるのかな」と疑問がわいた。

ライターとして働くのに、セクシュアリティに関する文章なんて求められない。少なくとも私が関わる仕事は。

マジョリティのふりをして文章を書くのは、それほど難しくない。そもそも私が書くものは介護や福祉、転職なんかの記事が多かった。そこにセクシュアリティをテーマとして求められたことは、いまのところない。なぜだろう。そうした人にこそ、届けなければならないことがあるはずなのに。

仕事として書くぶんには、それでもよかった。しかし、昨年の春、転機が訪れる。
noteをはじめたのだ。

noteは、誰でも好きに書けるプラットフォーム。日記でもエッセイでも漫画でも。私は「仕事以外の文章を書きたい」という気持ちでアカウントを作った。

エッセイを書きはじめてから、どんどん意識が変わっていった。

最初はライターとしての姿勢や気づきについて書いていたが、次第に「どうせならもっと深い部分をさらけ出してみよう」と思いはじめた。文章なら、私の考えを純度100%で伝えられる気がしたから。

そしていつか、私が書いたものを読んでくれた人の心が軽くなったらうれしい。
「セクシュアリティで悩んでいるのは自分だけじゃなかったんだ」とホッとしてくれたら。

それを思えば、実名で書くことのリスクなんてちっぽけなものだと思った。

たどり着いた「カミングアウトなんてどっちでもいいや」の境地

実名で発信し続けているいまは、かつてのように「カミングアウトしなきゃいけないのかな」と思わなくなった。

SNSのアイコンは、イラストから友人に撮影してもらった写真に差し替えて、プロフィールには性的マイノリティである旨を書き加えた。初めて記事を公開するときは、少し怖い気がしたけれど、あの開放感はいまでも忘れられない。

セクシュアリティの話は、したいときにすればいい。めんどくさければ話さなくていい。

そんなふうに、自分の心が安らぐほうを選べるようになった。
カミングアウトは、事実をさらけ出すというより「誰になにをどこまで話すか」を自分で決める行為なのだと思う。

10代の頃から手が出るほどほしかったものは、きっとカミングアウトによる他者からの理解じゃない。「伝える相手も伝え方も自分で決めていい」という安心だった。

40代になってようやくたどり着いた境地。もう、マジョリティのふりをして無理に笑うことも、心にもない言葉を吐くこともしない。

誰のためでもない、自分だけの心地よい居場所を探して

カミングアウトは義務じゃない。黙っていてもいいし、誰かに伝えて心が軽くなるならそうしてもいい。

ただ、決して自分の心を捻じ曲げるような真似はしないこと。自分に嘘をつき続けて楽になるわけがない。

楽に息ができる場所が、私たちには必要だ。
世のなかの “ふつう” が自分を苦しくさせるなら、いっそそこから抜け出せばいい。

私はライターの肩書を掲げて実名で書く道を選んだけれど、これはちょっとイレギュラーな例かもしれない。多くのアロマンティック・アセクシュアルたちは、カミングアウトはせず「言っても理解されないから黙っていよう」と考えているだろう。かつての私がそうだったように。

いつ、誰に、なにを打ち明けるかは、自分で決めていい。その自由は、誰にも許されているはずだから。

 

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