02 男の子だけど女優になりたい
03 広がる違和感を埋めたもの
04 押さえ切れない女性の顔
05 一旦閉ざされた自分への道
==================(後編)========================
06 眠っていた情熱を思い出して
07 カミングアウトは突然に
08 夢が音を立てて動き出す
09 ずっと両親に伝えたかった
10 これから自分が歩む道
01 ちょっと変わった家庭の事情
お兄ちゃんになつけない
ものごころ付いたときに気づいた。自分には兄が4人もいるんだ、と。
しかも1番上の兄とは17歳差。3歳のときには既に成人し、20歳を迎えていたのだ。
4番目の兄とですら、8つも歳が違う。
「たまに一番上の兄と家で二人きりだったりすると、お互い、何も話すことがないんです。今から考えたら、私も普通に甘えればよかったんです。でも小さな頃から、どこか空気を読んで行動するところがあって、何故かお兄ちゃんを困らせちゃいけない、なついちゃいけないって、静かに振舞っていたんですよね」
4人も兄がいて、しかもこれほどまで歳が離れているのには理由があった。
兄は全員、母の連れ子、今の父と血が繋がっているのは、自分だけだったのだ。
「私が生まれた奄美大島で、この家庭状況だと、嫌でも目立ってしまうんです。近所の人から好奇の目で見られてしまう。母は夜、飲み屋さんで仕事をしていたこともあって、妙な度胸が座っているから気にならなかったのかもしれませんが、8つ上の子持ちと初婚だった父はどう思っていたのか。当時はまだ、その心境に気づけなかったんです」
周りとは違ったこの家庭環境が、その後の自分の生き方に大きな影響を与えることになる。
家では一人ぼっち
小学生の頃を思い出してみる。
7人家族という大所帯なのに、ずっと家で一人ぼっちだった。
「兄たちは大きくなっていたので、仕事やバイトやバンドの練習なんかで、いつも家にいなかったんです。母はその頃には、もう夜の仕事は辞めていたけれど、毎晩、着飾って出掛けていた。たまに紙袋に景品を抱えて帰ってきたから、大体はパチンコに行っていたんだと思います」
まだ自分が年端もいかない子どもの頃から「髪の長さとヒールの高さは女の命よ」が、母の口癖だった。
母親ではあるけれど、同時に女として華やかに生きたい。自らが抱くその願いを当たり前のように実践する人、それが母だったのだ。
「お父さんもなぜ家にいなかったのか。今思い返せば、パチンコに行った母を心配して、駐車場の車の中で待っていたんです。いつも2人一緒に帰ってきました。だからうちの夜ご飯は、だいたいは11時から」
「母は料理の腕は抜群だったので、きちんと食べたいのですが、小学生の自分は、もうその時間には眠くて。でも寝ちゃうと怒られる。普通なら母に反抗するところですが、母の性格には、どこか何をしても許されるような部分があったんです。常に “女” なんですけど、中身は少女のまま大人になったというか」
父も頭の中でおかしいと思いながら、そんな母の無垢な部分に惹かれ、気になって仕方がなかったのだ、と大人になった今では思える。
そんな小学生時代、家の中で自分にそっと寄り添ってくれたのはテレビだけだった。
02男の子だけど女優になりたい
現実との違和感
「学校から帰ってもずっとひとりだから、仕方なくテレビを観るんです。そうすると必ず家族の風景が出てくる。ドラマなんか観てると、みんな朝から一緒に食事をするし、夜ご飯もそう。うちは普通の家とは違うんだ、ってテレビから思い知らされました」
違和感を抱くのは家族に対してだけでない。学校に行けば、いろんなことを強要される。
「幼稚園の時はよかったけど、小学生になると制服を着ないといけなくて。何でスカートじゃなくてズボンを履かなきゃいけないの、何でランドセルは赤じゃダメなの、と男らしさを押し付けられることに抵抗がありました。思えばこの頃から、自分の性別に違和感があったのかもしれません」
休み時間も放課後も、女の子に混じっていたかった。でもそうすれば、男子からのいじめにあう。
「子供ながらに “今は我慢しなきゃいけないのかな” と思っていたんです。いじめられれば、お母さんを泣かせてしまうって。いつも家で一人だったから、逆に母性を強く求めていたのかもしれません。常に母の顔が頭を過りました」
だからだろうか、母の行動には全く抵抗できなかった。
たまに朝起きてもご飯がなかったり、洗濯された制服がなかったり。まだ寝ている母を起こせば支度はしてくれたが、それが精一杯の主張だった。
必要以上に何かを求めたり、反抗などすれば、母から嫌われてしまうのではないか、いつもそんなふうに考えて暮らしていた。
髪型も母のなすがままだった。男らしいスポーツ刈り。
あまり母親らしくない母に反発心を感じながらも、自分の意思はどうしても言えなかった。
王女への憧れ
そんなとき、テレビを観て出会ったのがオードリー・ヘップバーン。
映画『ローマの休日』を観て、心を奪われた。彼女が演じた王女・アンが、恋愛を通して少女から大人に変貌していくさまに、妙な興奮を覚えたのだ。
「女性ってひとつの恋愛で、こんなに輝きを放つようになるんだって。その煌めきを全力で演じたヘップバーンにほのかな憧れを感じてしまったんです。自分は男なのに、将来は彼女みたいになるんだって、チグハグな考えをしていました」
小学生の頃の習い事は民謡。
奄美大島の伝統風俗だが、この年頃の男の子には珍しい。
「兄は4人とも野球をやっていたから、やらされそうになったんです。私は覚えていないんですけど、父の話によると、グローブを買ってもらってキャッチボールをした時に、投げられたボールに対して『キャッ!』って叫んで、避けたらしいんです。その瞬間、両親が『この子には才能がない』って思ったらしいんです(笑)」
野球からは逃れられたが、中学校は校則で男子は全員、丸刈りと決まっていた。
「すごく気が重かった」
しかし、そのまま思春期を迎えることになる。
03広がる違和感を埋めたもの
自分への手紙
中学校に上がっても、女友達と一緒にいる方が楽だった。
しかしなんと言っても思春期。
女の子とばかりとつるんでいると、今度は男の同級生から好奇な目で見られ、からかわれる。
「別に普通にしているだけなのに、男子からキモい、とか言われるようになって。女子と遊んでばかりいたというのもありますが、どちらかというと、もともと顔立ちが女性っぽいのもあって。だから余計に目立って、いじめられたんだと思います」
いじめられているのなら女友達に相談すればいい。
しかし小さなころから学校でも家でも一人でいることが多く、どんな感情も自分で処理してきた。
ゆえに人を頼るのが苦手。ましてや母や父に相談するなんてできない。
「それでも傷ついて辛い時があります。もうどうにも耐えられなくなって、自分で自分宛てに手紙を書いたことがあるんです。家庭のこと、学校のこと、自分がしんどいと思うことを全部、認めました」
本当は母親に、父親に頼りたかった。
でも、心配をかけたくなかったのだ。
日踊との出会い
中学の部活は、陸上。短距離の選手だった。
「この歳になっても、テレビを観ていると女優さんの仕草に、ときめいていたんです。恋心じゃなくて、ああいうふうに振舞いたいな、って」
「でも、そうしたら周りから浮いていじめられるので、偽りの男らしさをかざして、スポーツに打ち込もうとしたんです。運動は嫌いじゃなかったから。それに、陸上の短距離のような一人の競技だと、誰とも関わらずに練習できるし」
東京のような都会ではなく、奄美は田舎だったから「男の子は男の子らしく」という気持ちも強かった。
そんなとき、自分の心を解きほぐしてくれる出会いがあった。
「女子の友達が日本舞踊をやっていて、見に行ってみたんです。そうしたら先生に気に入られて、自分も始めました。師匠から薦められて女形を踊らせてもらったら、楽しくて。たまに発表会もあるので、ライブでお客さんから拍手を浴びせられると、なんとも言えない興奮を覚えました」
日本舞踊は、21歳まで続けた。
自らの夢をアシストしてくれた出会いだ。
04押さえ切れない女性の顔
学費は自分で
高校に進学すると、15の春からアルバイトを始め、学費を自分で捻出し始めた。
「なんとなく、自分の家が裕福でないことは分かっていました。それに4人の兄からは『社会に出たら自分は一人だと思え』と教えられていたんです。親に言いたいことはたくさんあったけど、気圧されて口にできなかった」
「母親は相変わらず、着飾って出掛けていたけれど、この歳になってもなお、それに口答えすることはできませんでした。おそらく父に頼み込んだら、授業料くらい払ってくれたと思います」
「でも私はもう高校に入学した時から、社会人として独り立ちするつもりで生きようと思い、両親に向かって心の中で『はい養育費!』なんてつぶやきながら、自分で学費を払うことにしたんです」
押し殺される性
経済的に親から独立したが、しかし自らの性が解き放たれることはなかった。
「自分の性に対して、はっきりと自覚し始めたのは高校生の頃です。自分ではなく、周りが気づき始めて。日本舞踊の女形のせいで仕草も柔らかな感じになり、顔立ちも中性的な風貌で。カミングアウトすることは無かったけれど、最近になって高校の友人に話したら『あぁ、やっぱりね』と言われました(笑)」
それでもカミングアウトできなかったのは、世間体を考えてのことだ。
「家庭のことで自分を抑えてきたせいか、いつまでも自分中心に物事を考えられなくて。両親や家族のことを考えると、自分が好き勝手に生きたら、女性として振舞おうとしたら、迷惑かけてしまうと思ったんです。自分の望んでいることは単なるワガママなんだ、と」
そうして迎えた18歳。
ある決意を親に切り出した。
05一旦閉ざされた自分への道
反対された夢
「高校を卒業したら東京に行って俳優になるって、思い切って両親に切り出したんです。そうしたら、開口一番、母親に反対されました。きちんと稼げるような仕事に就きなさい、って。どうして反対されたのか、そのときは分からず、煮え切らない思いだけが残りました」
「でも今思えば、4番目のお兄ちゃんが音楽の道へ進んで苦労していたから、私にはいばらの道を踏ませない、という親心だったのかもしれません」
結局、看護専門学校を進学先に選んだ。
奄美大島は高齢化が進んでいるため、介護や医療の従事者の育成を島をあげて取組んでいることを知ってのことだ。
「看護師を目指したのは、一番安く入学できて、就職したら月収の高い職業だと思ったから。複雑な家庭環境で末っ子として育ったから、私って妙に現実的なところがあって。需要も高い資格だと思って、進学先に選んだんです」
看護の専門学校ということで学生も女子がほとんど。男にしては女の子らしい自分を、同級生も自然に受け入れてくれた。
髪の毛を伸ばし始めたのも、この頃からだ。
叶わなかった初恋
一方、10代の後半に初めて人を好きになった。
同じ学校の同級生、相手は男だ。
「付き合えそうにはなったんですけど、結果は惨憺たるものでした。男に好意を寄せられて受け入れるなんて、少し変わった人だな、と思いながら惹かれていったんですけど。要は彼は、男のわりに女性的な私の身体に興味があっただけなんです。普通なら立ち直れないような酷い体験をしたんですけど、逆にその傷をポジティブに捉えようとしている自分がいて驚きました」
客観的にみれば、一方的に酷く傷つけられた恋。
そこで沈むことなく、なぜ今もポジティブに振り返れるのか。思い浮かぶのが、母の姿だ。
周りから何と言われようと、女であることを忘れない、頑な姿勢。ある意味、前向き過ぎるといってもいい、そんな母の生き方が自分の考え方に影響を与えている、と今では感じている。
「母はいつも女性らしく、美しくあろうと振舞っていました。離婚を経験しようと、家庭が困窮していようと、どこか楽観的で、その姿勢だけは変えることがない。親としては無責任なところもあるけれど、女でありたい、きれいでありたいという気持ちは、女性に生まれ変わる道を選んだ今の私には、少し理解できる部分があるんです」
「でも私が母だったなら、もう少し子育てに没頭しますけど(笑)」
それでも、そんな母親の反対がきっかけで、本当の自分に気づくための道は一旦、閉ざされてしまった。
しかし3年後、自らが決めた行動が、その後の人生を大きく変えていくことになる。
<<<後編 2016/04/29/Fri>>>
INDEX
06 眠っていた情熱を思い出して
07 カミングアウトは突然に
08 夢が音を立てて動き出す
09 ずっと両親に伝えたかった
10 これから自分が歩む道