「トムボーイ」とは、活発でボーイッシュな女の子を表すことばだ。その意味を知ったとき、私はどうしてもこの映画を観なければ、と思った。どこか居心地の悪そうな表情でたたずむ子どもが写った映画のビジュアルに、いつか出会った誰かの面影を感じたから。
LGBTの幼少期の記憶がよみがえる映画『トムボーイ』
『水の中のつぼみ』(NOISE記事「人生で初めて出会ったレズビアン映画『水の中のつぼみ』」)をはじめ、セリーヌ・シアマ監督の映画が以前から好きだった。そして、彼女の作品を追っていく中で、特に気になったタイトルが『トムボーイ』だ。
映画『トムボーイ』のあらすじ
映画『トムボーイ』の主人公は、ロールという少女だ。
ロールは髪が短く、少年のような服装で、母親いわく「男の子とばかり遊んでいる」。
家族で新しい街に引っ越してきたロールは、リザという少女と出会い、とっさに「ミカエル」と名乗る。つまり、少年のふりをすることにしたのだ。
リザや近所の子どもたちと遊ぶ中で、ロールは「ミカエル」という少年として振る舞い、自分の性別がばれないように立ち回る。
リザとロールの距離は急速に縮まっていき、ふたりはキスを交わし合う。
しかし、夏休みも半ばに入り、ロールがリザたちと同じ学校に通うことになる日は、刻一刻と近づいていて・・・・・・。
LGBTの幼少期をよみがえらせる「呼び水」のような存在
私が映画『トムボーイ』に夢中になった理由は、ロールのもつ独特の雰囲気にあった。
映画のポスタービジュアルにもなっている、パーカーを半分脱いでタンクトップ姿になり、どことなく不満そうな、居心地の悪そうな表情で宙を見つめるロール。
その顔を見ていると、これまでに出会ったさまざまな人や、自分の幼少期の姿が重なりあって思い起こされる。
まだ自分がLGBTであるとは認識していなかったけれど、ピンク色の服やスカートが嫌いで、男の子のような服装ばかりしていた幼い頃の自分。
あるいは、保育園や児童館、小学校で出会った、自分のことを「おれ」と呼んでいたボーイッシュな少女や、いつも男の子とばかり遊んでいた女友達の記憶が、あざやかによみがえってくる。
映画『トムボーイ』で描かれるロールは、LGBTだったかもしれない誰かや、私たちの幼い日の姿を連想させる、呼び水のような存在なのだ。
映画『トムボーイ』が描く、LGBTの平凡さと困難
LGBTの悲痛さではなく、のどかで月並みな日常を描く

映画『トムボーイ』のロールは、はっきりと言及はされていないけれど、おそらくトランスジェンダーなのではないかと思わせる描写がある。
もちろん、ロール個人のセクシュアリティはロールにしかわからない(あるいは、本人にもわからない)のだろうけれど、リザの前で少年であろうと努力するロールの行動は、ある種の切実さをともないつつも、どこかいじらしく、ほほえましい。
映画『トムボーイ』では、LGBTであることに悩み、葛藤する子どもの姿ではなく、ただ理想的な自分の姿を好きな女の子に見せたいがために、懸命に努力を重ねる子どもの姿が描かれる。
他の男の子たちが野原で堂々と用を足している中、森の奥へ駆け込んでトイレを済ませようと焦ったり、水着で川遊びをするために、粘土で作った突起物を股間に仕込んだりするロールの姿から、不思議と悲痛さは感じられない。
そこにあるのは、ちょっとした秘密を隠し通そうと立ち回る、誰しも覚えがあるような子どもらしいはかりごとの数々で、あくまで映画の雰囲気は明るく、のどかなものだ。
LGBTだからといって、必ずしも苦しい人生を生きるわけじゃない。
あたりまえのように笑って、企んで、頭を働かせて、ときには失敗して、他の子どもたちと同じような、ある意味平凡で月並みな日常を過ごすこともある。
私が映画『トムボーイ』に魅力を感じるのは、そんなふうに、LGBTであることを特別視しないような空気を作品全体で表現してくれているところだ。
映画『トムボーイ』のLGBTとして直面する初めての困難
ありふれた子どもたちの日常がベースになっているとはいえ、映画『トムボーイ』の内容は明るいままでは終わらない。
ロールが「ミカエル」と名乗っていたことはやがて母親にばれてしまい、リザの家へ行って謝罪をすることになってしまう。
どんなことがあってもクールな表情で、そっと笑いながら受け流していたロールが、初めてはっきりと辛そうな顔を見せる。
そして、ロールに恋心を抱いていたリザも、ショックを受けたような、怒ったような顔でロールを見つめる。
母親がロールを諭したように、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
ロールは名前を偽ったのだし、学校が始まるとすぐに明らかになってしまうような隠しごとをし続けていた。
でも、だったら、ロールはどうすればよかったのだろう。
映画を観ながら、まるで自分自身がロールになってしまったかのように途方に暮れた。
リザは大人っぽい女の子だ。
サッカーなどよりも「真実か挑戦か」というパーティーゲームや、ラブソングをかけながら踊るような遊びを好み、友達の誰よりもませた発言をする。
ロール(ミカエル)に心を寄せる間も、恋愛関係になったら何をしようか、大人になったらふたりでどう過ごそうかなど、あれこれ考えていたはずだ。
そんなリザの思いを裏切ってしまったかのような罪悪感と、それでも自分がするべきだった行動が何なのかわからないというもどかしさが、映画を観ている私自身の中にも渦巻いていた。
LGBTだったかもしれない友人 ―映画『トムボーイ』に重なる記憶
映画『トムボーイ』を観ていると、特に印象的だったとある友人の記憶が呼び起こされた。友人といっても、ほとんど話したことのない、私とは学校も違う子だったけれど。
もしかしたらLGBTだったかもしれない、かつての友人の記憶

小学校低学年の頃、私は地域の児童館に通っていた。
そこには、学校が違う子どもも何人か通っていて、見慣れないスクールバッグや制帽を身につけている彼らは、ちょっと特別な存在に見えた。
そのうちのひとりに、学年が1つ上の女の子がいた。仮にYちゃんと呼ぶことにする。
Yちゃんは、髪は長いけれど、スカートを履いている姿は見たことがなく、大勢でドッジボールに興じていても、離れたところでじっとみんなの様子を眺めているような子だった。
ある日、Yちゃんは私に「秘密を教えてあげようか」と言った。
当時おそらく小学校1年生だった私は、Yちゃんとあまり仲がよかったわけではないのだけど「秘密」ということばの響きに惹かれて、うなずいた。
すると、Yちゃんは「実は私、男なんだ。みんなには内緒だよ」と耳元でささやいたのだ。
LGBTなんて言葉は知らないし、Yちゃんがどうであるかも、もちろんわからなかったけれど、私はあっけにとられた。
驚きすぎて、とっさに「でも、名札の色は赤じゃん!」と口走ったような気がする。
その児童館では、女子児童の名札には赤いシールが貼られていたのだ。
Yちゃんの名札にも、赤いシールが貼ってあった。
しかし、Yちゃんは平然と「先生にも嘘ついてるから。学校でも女っていうことになってるし」と続けた。
私は幼かったので、Yちゃんからの衝撃告白を受け止めきれず、すぐに他の子に話してしまった。
「Yちゃんって実は男なんだって。Yちゃんが言ってた!」と興奮して話す私のすぐ横を、当の本人であるYちゃんが通りがかった。
「しまった!」と私は焦ったけれど、Yちゃんは「秘密だって言ったじゃーん」と言いながら笑っていた。
当時の私には、Yちゃんは、なんだか不思議とうれしそうに見えた。
映画『トムボーイ』の結末をなぞらずに済んだこと
Yちゃんとの記憶はたったこれだけで、他にどんな話をしたのか、一緒に遊んだことがあるのかどうかさえ、今となっては覚えていない。
ただ、映画『トムボーイ』でロールがリザに嘘の名前を名乗ったときから、私は映画の端々にYちゃんの影を感じていた。
Yちゃんはもしかしたら、LGBTであることを私に明かしてくれていたのかもしれない。
あるいは、本当に何の気なしの冗談で、私に嘘をついただけなのかもしれない。
今の私としては、どちらであっても構わない。
むしろ、当時の私が素直にYちゃんの言ったことを信じ込んでいてよかった、と少し安心してしまう。
もしもYちゃんがLGBTだったとして、私がYちゃんの言ったことを信じずに「Yちゃんが男だって嘘をついてる!」と主張していたら、Yちゃんはどれほど傷ついただろう。
その構図は、映画『トムボーイ』で「ミカエルは男だと嘘をついていた!」とロール(ミカエル)を責め立てる男の子たちと何ら変わらない。
嘘をつかれていたとしても、その嘘が本人にとっては真実であるかもしれないということが、子どもの心ではきっと理解できなかっただろう。
秘密だと言われたことを黙って胸にしまっておけないような年齢だった自分が、それでもおそらく、Yちゃんを傷つけずに済んだという事実が、今となってはせめてもの救いだ。
LGBTの子ども時代をやさしく包み込んでくれる映画

映画『トムボーイ』は、他の多くのLGBT関連の映画と異なり、家族とのいさかいはあまり描かれていない。
ロールの母親は「嘘をつくなんて」とロールを叱るけれど、その他の場面では、母親も父親も、そして妹も、ロールを愛していることが伝わってきて、家族関係は非常に良好に見える。
この点を、私は個人的に「映画『トムボーイ』がLGBTを特別視していない」ことの表れだと解釈した。
自分には理不尽だと思えることで叱られたり、愛しているはずの親から理解してもらえないことが辛かったりするのは、何もLGBTにかぎった話ではない。
きっと、多くの人が子ども時代に一度や二度は経験した覚えのあることだろう。
もちろん、LGBT当事者はそうでない人よりも、隠しごとをしたり、周囲の無理解に涙したりする経験が多くなりがちではある。
ただ、映画『トムボーイ』は、そんなLGBTの痛みすらも「子どもの頃の懐かしい記憶」として、やさしく包み込んでくれるような雰囲気がある。
ラストシーンで、ロールがふとこぼすやわらかな笑みは、この映画全体のやさしさを象徴しているのではないだろうか。
人生はままならないし、理不尽なこともあるけれど、LGBTであろうとそうでなかろうと、木漏れ日は今日も美しいし、仲違いした友達と新しく関係を築き直すチャンスもどこかに転がっている。
映画の最後でロールが微笑むことで、記憶の中の幼い自分も、どこか救われたような気持ちになっているに違いない。
■作品情報
『トムボーイ』
監督・脚本:セリーヌ・シアマ
出演:ゾエ・エランほか
配給:ファインフィルムズ


