大人になると「恋愛」と「性愛」「性交渉」は、切り離せないものとして扱われることがある。でもそれって本当? 恋はするけど、他者に対して性的に惹かれない筆者の視点で恋愛の複雑さについて考えてみた。
性的接触のない恋愛ってダメ? アセクシュアルの疑問
「セックスしなくていい恋人っていないかな」。平日の夕方、何気なく見ていたSNSに流れてきた文字列。
ある日のSNSで見つけた「仲間」
知らない人の投稿だったけど、思わず「いいね」を押してしまう。
投稿への反応を、恐る恐る見てみた。
「わかる! ぶっちゃけセックスしないほうがラク」
「恋愛はしたいけど性的なことはいらない」
「自分もこれ、一緒に時間を過ごすだけじゃダメなの?」
思ったより共感の声が多い。
ぼくと同じことを考えている人は、もしかしたらそんなに少なくはないのかもしれない。
「わがまま」だと言われるけれど
反応をさらに見ていく。
覚悟していたけど、ネガティブなものもそこそこ多い。
「そんな付き合い方ありえない」と言われるのはまだわかる。ぼくにとっては十分にありえる話だけど「付き合うこと=相手と性的関係を結ぶこと」と考えられている社会では、仕方ない反応だと思う。
びっくりしたのは「わがまま」という意見だった。
そうしたコメントをよく読んでみると「相手に恋愛関係を求めているのに、性的なニーズにだけ答えないのは『都合がいい』んじゃないか」「相手を利用しているだけなのでは」といった考え方らしい。
「相手への搾取だ」というように、強い言葉で投稿者を非難するものも見かける。
ぼくは恋愛する。だから「恋するアセクシュアル」
ここまでSNS上の話を書いてきたけど、ここからはぼく自身のことについて話そうと思う。
ぼくが現在自認しているのは「パンロマンティック・アセクシュアル」。性的には誰にも惹かれないけれど、恋愛的には性別を問わず惹かれることがある、というセクシュアリティだ。
ぼくの場合、誰かと恋愛関係を結ぶことはあるが、性的な接触はあまり望んでいない。
「恋愛的に誰に惹かれるか」と「性的に誰に惹かれるか」は、必ずしも同じとは限らない。恋愛的惹かれ/性的惹かれのどちらかを持たない人、それぞれが違った方向に向いている人もいる。
「アセクシュアル」は(狭義には)「他者に性的に惹かれない人」を指す。「恋愛的に誰に惹かれる/惹かれないか」とはまた別の話なのだ。
しかし、メディアや創作におけるアセクシュアルは「恋愛に興味がない」「恋をしない」人/キャラクターとして登場することが多い(気がする)。
そのため、ぼくのような恋愛関係を望む当事者は可視化されにくく、「恋愛する/付き合ってるのにアセクシュアルなの?」と言われることもまだまだ多い。
だからぼくは、自分のことを「恋するアセクシュアル」とあえて呼んでみたい。
パンロマンティック・アセクシュアルゆえ「恋愛」に苦労しながらも
「恋するアセクシュアル」であるぼくは、どんな風に恋愛関係を築いてきたのか。セクシュアリティを認識して以降のぼくは、何人かの人々と付き合ってきた。
アセクシュアルのぼくなりのパートナーシップ

アセクシュアルであることはオープンにしているけれど、交際するときにはあらためて説明するのがマイルールだ。「アセクシュアル」という単語だけではなく、どんな接触を望むか/望まないかについても一緒に話すことにしている。
もちろん、アセクシュアルの側ばかりが自身に関する説明を強いられがちなのは、不当なことだとも思っている。ぼく個人は、セクシュアリティの説明をパートナーとの対話の土台としているが、それを誰かに強制したいわけではない。
過去の恋人たちのセクシュアリティや、性的接触に関するありかたは様々だ。
同じアセクシュアル当事者。
アセクシュアルではないが、性的なことはあまり必要ないと感じている人。
「自分は他者に性的に惹かれるけど、あなたの望まないことはしたくない」と答えてくれる人。
相手によって反応は違うが、今のところ伝えて嫌な思いをしたことはない。
いつもうまくいくわけじゃないけど
正直に言うと、恋愛関係のなかでセクシュアリティに関して折り合いがつかなかったことはある。悲しい思いをしたこともあるし、相手を傷つけたこともあるかもしれない。
それでも「恋人になりたい」と思った相手とわかり合うことを目指し、対話を試みたことは無駄ではない、というのがぼくの実感だ。
アセクシュアルであることによって、人と付き合うハードルは上がっているけれども、「自分は結構、幸せな恋をしてきたな」とも思っている。
ぼくにとっての「恋愛」とは
ところで、恋愛関係を望むアセクシュアルが聞かれがちなことに「それって本当に『恋愛』なの? 友達でいいじゃん」がある。
「友達『で』いい」という言葉がよくわからないけど、自分自身に限って言えば、ぼくは間違いなく恋愛関係を望んでいるのだと思う。
自分にとっての「恋愛」は、相手の特別な存在になり、互いの人生を長期的かつ密接にシェアすることだ。
「付き合いたい」という気持ちのなかにはいわゆる「ドキドキする」ような感情もあるけど、ともに世の中で生きていく “最高のバディ” になりたい、というようなおもいが強いかもしれない。
こういうことを書くとなおさら「それって友達じゃないの?」と言われそうだけど、ぼくの思う「恋愛」はこれなのだ。
「恋愛」というオープンな箱
ぼくは「恋バナ」が好きだ。誰と誰がつき合ったかについて聞く、というよりも、恋愛・交際に関する考え方を信頼できる友人たちと語り合うのがとても楽しい。
「恋バナ」から気づいたこと

恋バナをしていると「恋愛」や「付き合う」ということが、いかに多様な中身をもっているかがよくわかる。
たとえば「恋人がほかの異性と、ふたりきりで食事をするのが嫌だ」という友人Aの感覚は、自分にとってはとても新鮮なものだった。
記念日を盛大に祝ってもらいたい友人Bと、いつも通り過ごしたいCが互いの経験を話している。「恋人からのLINEの返信は早いほうがいい」派と「別にそんなでもない」派がいたりもする。
そこには「わかる~」と「そうなんだ」が、どちらもある。
「〇〇すべき」から離れて
「恋愛」という言葉で表される関係でも、その在り方、結んでいる関係性はひとりひとり違う。
でも恋愛は、あまりにもパッケージ化されている。
アセクシュアルのぼくは、冒頭にあげたような「恋人なら性的関係があって当たり前」という考え方に苦しめられているけど、それ以外にも「付き合っているなら〇〇するのが当然」という言説は無数にある。
規範的な恋愛のかたちが、だれにでもぴったりとハマるわけじゃない。「〇〇すべき」にもやもやしたり、違和感を覚えたりしている人は、意外と多いんじゃないだろうか、と思う。
その箱に何を入れたいか
恋愛は、オープンで大きな箱のようなものだと思う。
最初から決まった形があるわけではない。自分たちにとって必要だと思ったものを、箱の中に入れていくのだ。
箱にどんなものを入れるかはその人次第。現時点でのぼくは「手をつなぐこと」「言葉での愛情表現」「今打ち込んでいることの共有」「水族館デート」あたりを入れたいかもしれない。
でも、これらとは全然違ったものが必要だという人もいるだろう。
「付き合うってこうだから」「周りもそうしているから」ではなく、自分自身が何を望んでいるか。
そんなことを振り返ってみる日も、恋をするときには必要なんじゃないだろうか。



