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Writer/shu

「恋愛のふつう」を前に、クワロマンティックのわたしが感じてきたこと

クワロマンティックは「他者に抱く好意的な感情が、恋愛感情か否かを区別できない(区別したくない)」恋愛的指向です。最近「わたしはなぜクワロマンティックなのだろう?」と考えてみることにしました。すると、無意識のうちに目や耳から入ってくる、日本の恋愛文化における「ふつう」の刷り込みがわたしの思考に影響している、ということが浮かび上がってきました。ここで書くことは、わたしの身の回りに起きていたことと、その環境で生きてきたわたし個人の感想です。

わたしなりのクワロマンティック的考察:恋愛は「相手を特別扱いするもの」というふつう

1つ目にわたしが気になったことは、恋愛において「特別扱い」が当たり前のように語られていることです。誰か一人を選んで特別扱いをすることによって、自分の中のなにかを満たすという人との関わり方って、わたしにはいまいちピンとこないのです。

不足感や孤独感が、恋愛による「特別扱い」によって満たされる?

「恋愛したいと思う理由」について、わたしがこれまでに見聞きしてきたことをざっと振り返ってみると
・一人でいる不足感や不安感を埋めたい
・孤独を感じたくない
・愛されたい
・安心感を得たい
・誰かを大切にしたい

という漠然としたイメージです。

これらの理由をさらに深掘りしてみると「友人関係やほかのコミュニティでは満たされない」「それらとは別ものだよ」と言うのです。

そう言われてわたしは「友人関係」「恋愛」で、なにが満たされるのかを考えてみました。

<友人関係で満たされるもの>
・一緒に遊んだりする楽しさ
・似ている価値観だからこその共感
・仲間がいるという居場所的安心感

<恋愛で満たされるもの>
・特定の相手と深くつながれる安心感
・自分を最優先にしてくれる優越感
・自分にしか見せていない相手の姿があるという特別感
・相手を最優先にするという特別感
・手をつなぐ、抱き合うなどのスキンシップによる愛情

こうして挙げてみると、恋愛はお互いにとってほかの人よりも特別であることが重要視されるようだと、わたしは思いました。

お互いに「特別であること」が強調される関係性なんだと感じます。すべての人がそうであるかはわかりませんが「特別であること」が「愛している・愛されている証」なのかな〜という印象も受けます。

誰かと恋愛関係になることで、特別感を得たい。そこに価値があるということなんでしょうか。

「恋愛は特別扱い」にピンとこないクワロマンティックのわたし

まず「不足感が恋愛によって満たされる」という感覚がいまいちピンときません。

これはあくまでわたしの感じ方なのですが、まるで不足感を埋めるための手段として恋愛があるように思えるのです。それって、相手に失礼だなって、わたしは思っちゃうんです。

恋愛によって満たされること自体を否定したいのではありません。心に空いた穴を埋めてもらうという感覚が、わたしにはしっくりこない、というだけです。

そして
・相手を自分だけのものにしたい
・相手にとって特別な人になりたい
・相手にとって一番の存在でいたい

みたいな感覚もモヤっとします。
「そんなことしてもいいの?」っていう感情が先に立ってしまいます。

クワロマンティックであるということと、関係があるのかは不明ですが・・・・・・。

そういえば、わたしの人生を思い返してみても「自分だけのものにしたい」というほど強く想える人は、いまのところ現れていません。わたしの場合、好きな人ができたとき「ただ見ていたい」という気持ちでした。

・相手のことを知りたい
・わたしの生活圏に存在してくれていることがうれしい
・わたしの生活がちょっと豊かになる

あらためて見てみると、特別感は抱いているかもしれません。

でも、わたしが相手になにか働きかけるというわけではないので、相手の自由や幸せに影響しないんじゃないかな、と思うわけです。

クワロマンティックのわたしは「好き」という感情のなかに、恋愛感情的なものとそうでないものが混ざっているので「誰か一人だけを特別扱いする」という発想自体が馴染まないのかもしれません。

「探り合い」が恋愛のふつう

2つ目にわたしが気になることは、恋愛では、お互いの気持ちを「探り合う」のが一般的だということです。よく「恋愛は駆け引き」なんて言われますが、そこにもわたしはずっと違和感を抱えてきました。

相手の気持ちがわからないまま行動する恋愛文化に違和感がある

世の中の恋愛って「相手がどう思っているのか、わからないまま動く」が基本だと思いませんか?

・相手が自分のことをどう思っているのか
・相手との距離を縮めてよいのか

このあたりは「察するもの」とされがちで、正面から聞くのは変、言葉にするのは恥ずかしいみたいな空気を感じます。

だから、とりあえず誘ってみたり、好意っぽいサインを出してみたり、といった「探り合い」が恋愛の前提にある気がしてならないのです。

でもわたしには、そんな「探り合い文化」がしんどい。

察しながら探り合うんじゃなくて、ちゃんと言葉にして距離感をはかりたい。
お互いの望む距離感を確認しながら、関係をつくっていけたらいいのに。

そのほうが、心地よくありませんか?

と偉そうに言っていますが、そんな文化の中で生きてきてしまっているからか、わたしも気になる相手になかなか聞けないでいるのです。

「探り合い」の恋愛文化に悩んできたクワロマンティックのわたし

「探り合い」は、さらなるひずみを生んでいると思います。

それは「〇〇のこういうところ素敵だよね」「あなたの〇〇なところ好き」と気軽に言えない空気があることです。

こうした言葉が、恋愛的な意味に誤解されることってありませんか?
わたしも実際に経験しました。

「〇〇の〜〜なところが好きなんだよね」と本人がいないところで口にしたら「それって〇〇のこと(恋愛的に)好きなの?」といったように。

わたしは、友情や尊敬の文脈で伝えただけなのに、短絡的に恋愛の意味で捉えられてしまったんですよね。

クワロマンティック的な視点からすると「好意」の扱い方が難しくなる瞬間です。

①相手に好意を持つ。でもそれが、恋愛なのか友情なのか自分でもわからない。
②そして、直接的に「好き」と言わなくても、そう思われてしまう言動や行動があるかもしれない。
③すると相手は「もしかして私のこと(恋愛的に)好きなのかも」と思うことがある。

こうなると、わたしと相手の間で「好意」の意味がズレますよね。

でも「探り合い」の恋愛文化の中では、こうしたズレを言葉で確認しないまま関係性が進み、どこかぎこちなくなってしまう。

わたし自身、そんな経験があります。

「恋愛のふつう」をそばに感じながら、クワロマンティックとしてどう生きていくか

世の中の「ふつう」と、クワロマンティックであるわたしの「ふつう」のズレ

わたしは誰かと親しくなりたいと思ったときに、恋人になるということを達成しなくても満たされます。誰かを恋愛対象にすることや、恋愛的なアプローチをすることに、あまり価値を感じません。

一方で、たまに一人の人に惹かれるときがあります。
わたしの中でそれは、深い共鳴のようなものです。

クワロマンティックという恋愛的指向によるものかはわかりませんが、その人のあり方や、生きる姿勢、言葉の選び方が美しいと感じると「この人の世界観をもっと知りたい」という気持ちになります。でも「お互いにとって特別な存在になりたい」「誰かに取られたら嫌だ」とは思いません。

こういう感覚を伝えられたらいいな〜と思うこともありますが、なかなか言えないのが、わたしもまた「恋愛のふつう」のなかで生きてきてしまったんだな、という感覚になります。

クワロマンティックのわたしは、どんなふうに生きていけばいいのか

わたしが書いてきた「恋愛のふつう」は、これからも多くの人にとって身近なものであり続けるのだと思います。じゃあ、クワロマンティックのわたしはどう生きていけばいいのか。

1つ思ったのは、実はわたしは「恋愛できないわけじゃないのかもしれない」ということ。

多くの人が使う恋愛のテンプレートが、わたしには合ってないだけ、ということなのかもしれないと思いました。

わたしは一度も恋愛を自分ごととして捉えたことがありません。わたしにとって大切なのは、ただただ相手と対話ができて、密度の濃い時間を過ごせること。心が震えて、お互いに変化が起きること。

それだけで価値があると思っていますし、相手との関係性が恋愛関係でなくても、それがわたしの幸せです。

今回書いてきたことが、わたしがクワロマンティックであることとどのくらい関係があるのかはわかりませんが、みなさんの中に少しでも気づきが生まれたらうれしいです。

 

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