02 セクシュアリティを他人にどう説明するか
03 発達障害が認知されていなかった時代に
04 壮絶ないじめ
05 「ふつうの幸せ」に憧れて
==================(後編)========================
06 目からうろこの「発達障害」診断
07 LGBTと発達障害
08 母へ、カミングアウトしたい
09 「マイノリティ」と「マジョリティ」の壁をなくしたい
10 ブレイクスルーを起こすのは自分自身
01「パンセクシュアル」に納得
「バイ」ではなく、「パン」
男性と女性どちらとも付き合うことに抵抗のない自分のような人間のことは「バイセクシュアル」と言うのだろうと、ずっと思っていた。
しかし、ある日「パンセクシュアル」という言葉と概念を知る。
「私自身、社会的なマイノリティのひとつである、発達障害の当事者なんです。そのことを調べているうちに、発達障害当事者にセクシュアルマイノリティの人が結構多いことが分かってきて。それでLGBTについて調べていたんです」
「そこで聞きなれない言葉があって、そのうちのひとつが『パンセクシュアル』でした」
それまで自分がバイセクシュアルだと思っていたけれど、実はそれにもちょっと違和感があった。
「男性とも女性とも付き合ったことがあるので、バイセクシュアルには違いないんですが、それだとどうしても男と女というくくりになってしまって、自分が好きになる対象を説明するには合わなかったんです」
「例えば相手がいわゆる “男の娘” でも、FTMでもMTFでも全然問題ないんです。パンセクシュアルを知ってからは、自分は絶対にこちらだと思いました」
初めての性的体験の相手は男の子
男も女もどちらも好きだと感じたのは、12歳前後のこと。
その頃、父が廃品回収の仕事で持ち帰った成人向けの古本を目にする機会があり、性的なことに対して興味は抱いていた。
そして当時、初めての性的な体験をする。
相手は年の近い知り合いの男の子だった。
恋愛関係ではなく、どちらかというと一方的に “たかられる” ような関係性で、最初は相手からのいたずらの延長線といった感じで始まった。
中学では思いを寄せる男の子も女の子も現れたし、高校3年生の時には短い期間ではあったが女性の恋人ができた。
その後も異性とも同性とも付き合い、身体の関係も結べたが、相手が異性であれ同性であれ、根底には、「愛されたい」という気持ちがあったように思う。
「ものすごく、愛がほしかった。それは間違いないです」
「親は確かに私を愛していたかもしれないんですけど、自分自身、『愛される』ということがどういうことか、イマイチ実感がわかなかったので」
02セクシュアリティを他人にどう説明するか
「これっておかしいこと?」と問いたい
LGBTという言葉は一般にも浸透してきたが、それでも「パンセクシュアル」という言葉や概念はまだあまり知られていない。
参加しているLGBT支援団体や、SNS上で知り合った人には自分のセクシュアリティを公表しており、リアルな友だちにも、話せそうな人には話している。
「もちろん、話した結果、疎遠になった人はいますけど、それも仕方ないと思います」
今、付き合っているパートナーはMTFで、いわゆる世間一般から見たら “オカマ” のように捉える人もいるだろう。
パートナーのことを話すと、悔しいが、引いていく友人はいる。それでも、自分としては、本当はどんどん世に問うていきたい気持ちもある。
「人を愛する形が様々なことに、何かおかしいことがあるかい? 男と女じゃなければいけないのかい? もし、これが気持ち悪いというのなら、君たちのように男女が付き合っていることが、気持ち悪いと思っている人がいるということも分かってほしいんだけど、って」
セクシュアルマイノリティの友人たちの話を聞いていても、LGBTがネタとして扱われるなど、社会的な偏見の目を感じている人は多い。
それを聞くたびに、「それはやっぱり違うんじゃないの」という思いが湧き上がってくる。
あくまで「内面を見る」パンセクシュアル
「人間そのものが恋愛対象なパンセクシュアルは、セクシュアルマイノリティの中でもさらにマイノリティなので(笑)、世間からよく『誰でもいいんだろう?』という誤解も受けます」
「説明には、まずバイセクシュアルを引き合いに出します。バイセクシュアルは男と女という既定の性のどちらも好きになることができるものだけど、パンセクシュアルは相手のセクシュアリティが関係ないんだよと」
「相手がGIDでも、アセクシュアルでも、クエスチョニングでも、Xジェンダーでも、人間そのものとして、この人が好きと思ったら好きになるので、そこにセクシュアリティは関係ない」
「かと言って、人には自分の好みやストライクゾーンがあるのだから、その範ちゅうに入らない人を誰でも好きになるわけじゃないのは、みんなと一緒だよ、と」
ただ、自分がパンセクシュアルになったのには、やはり発達障害だったから、ということが関係しているとは思う。
「色々あったから・・・・・・。無条件に自分を受け入れてくれる人に愛されたいという思いは、自分の中に強く持っていたので、それは絶対に関係していると思います」
「外見は悪いかもしれないけど中身はこんなにいい奴じゃないか、って思えるような人はたくさんいます。それなのに『なんで外見だけを見てその人を判断するのか』とは常に思っていたんですよね」
どうしても、自分自身と発達障害は、切り離せない関係だと思う。
子どもの頃のことから、少し振り返ってみたい。
03発達障害が認知されていなかった時代に
問題行動の多い男の子
今、きちんと診断がついているのはASD(自閉症スペクトラム)とADHD(注意欠如多動症)だ。
子どもの頃からこれら発達障害の特性は顕著に出ていたが、発達障害の存在そのものも認定されていない時代、当時は指摘する人も、ケアする人もいなかった。
「結局、知能的には問題がないということで放置されていましたね」
幼稚園の頃は、ことあるごとに園から抜け出し、他人の家に勝手に入っていってしまう子どもだった。
「鍵がかかっていなければそのまま入っていって、まずトイレを確認するんです。それから冷蔵庫を開けて中身を確認する。これは発達障害の『こだわり』行動ですね」
「あとはやっぱり多動が激しかったので、事故も絶えなかったです」
「いきなり横断歩道に飛び出して車にはねられたり、当時住んでいたアパートの2階から飛び降りて足をくじいたり。『飛びたい』って思って、衝動的にやっちゃうんですね」
小学校の授業では、別の子が指名されても勝手に答えを言ってしまう。
「みんな一緒に」は苦手で、集団で何かすることはできない子だった。
もちろん自分の行動は、先生や大人に咎められるのだが、そう言われても、自分としては、なぜ? という感じ。
発達障害について理解のない時代、どうしてそれがダメなのか、自分が理解できるように教えてくれる人は周りに誰もいなかった。
「嫌なこと」は記憶に残りやすい
「発達障害の人って、叱られた、いじめられた、虐待されたなど、自分にとっての “恐怖体験” は特に記憶に残りやすいんです」
「もちろん、親も教師も虐待とは思っていないんでしょうけれど、問題行動に対して、理由も言わずに強制的にというのは・・・・・・。きちんと発達障害のことを知った上で、適切な方法でさとすことをしないのは、虐待になると思います」
「周りにしてみれば対応方法がまったく分からなかったのだろうし、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないけれど、でも、やっぱり自分にとってみたら強烈なトラウマです」
いじめも受けた。
「これも言うのは気が引けるんですけど・・・・・・『清潔保持』がまったくできなかったんです」
「発達障害の人にはいるんですけどね。歯を磨く、顔を洗う、お風呂に入るなど、そういったことにまったく興味がもてなくて。親には入りなさいと言われるけど入らなくて、そのまま」
「でもそれで自分がいじめられるなんて考えもしなかったので、小学校のクラスメイトに言ってしまって、そこから、いじめが始まりました」
04壮絶ないじめ
対人恐怖症になるほどのトラウマ体験
「よく、テレビや漫画に出てくるような、黒板や机に、バイ菌、死ね、消えろ、と書かれたり、モノを隠されたり破られたり、汚いものを机の中に入れられたり、イスに画びょうを仕掛けられたり。トイレの個室で上から水をかけられたこともありました」
壮絶ないじめだった。
「こっちも “キレる” んですけど、多勢に無勢で取り押さえられ、つぶされる」
「そんなことが続くとどんどんこちらもエスカレートして、自分の身を守るために考え方がすごい方に行ってしまって、しまいには相手を殺したっていいと思うようになってくる」
「殺される前に殺そうと、イスや机を振り回したり。それでもやっぱり多勢に無勢で押さえられるんですけどね」
耐えられなくなり、何度か自殺未遂もした。
「1人で死ぬんじゃなくて、みんなの前で死んでやろうって思って、学校で、お前らのせいだ!ってやったんですけどね」
自分なりの、精いっぱいの訴えだった。
しかし教師も特に咎めることもなく、いじめは中学2年生まで続いた。3年生で担任がいじめ問題に理解のある教師に変わり、ようやくいじめはやんだ。
しかしいじめの体験は、強烈なトラウマとして自分を蝕んだ。
対人恐怖症になり、人との適切な付き合い方を学ぶことができなくなった。
「苦しいなんてレベルじゃない。よく耐えられたなと思います」
大人になってだいぶ経ち、あの時の経験をだいぶ話せるようになってきているが、それでも、今もフラッシュバックを起こすことはある。
簡単には傷は癒えない。
「学校は休まず行くところ」という絶対的な命令
こんなにつらい思いをしても、学校には毎日通った。
それには、「言われたことは必ず守る」という発達障害ならではの特性が関係している。
「それを知らない母は、『こんなにいじめられてもよく学校に行けるね、あんたエライよ』って言うんですけど、違うんです」
「親が『学校は休まず行くところだ』と言えば、行くんです。これは発達障害の人にとって、絶対的な命令に近いんです」
母は美容師で日中は働いていて忙しかったが、それでもご飯は作ってくれたし、話をする時はしてくれた。
「でもやっぱり本音を言うことはできなかったのかもしれません。『愛されたかった』という思いが強かったのも、結局、理解して助けてくれなかったように自分が感じていた部分があるので・・・・・・」
「発達障害って、つらいこと、苦しいことの記憶の方が表に出てきやすいんですね。だから、楽しい時間や経験も確かにあったはずなんですけど、何もなかったように感じてしまうんです」
05「ふつうの幸せ」に憧れて
父も発達障害だったのかもしれない
実は、父も発達障害を抱えていたのではないかと思う。
「どう考えてもASDの特徴に当てはまるような行動がたくさんあったんです。自分の思いを何が何でも押し通そうとするし、子どもの好きなプレゼントを買わず自分のいいと思ったものを押し付けるとか、上げ出したらキリがないです」
「人間関係の構築もまったくできませんでしたね。人の話を聞くことができず、言っていることがうまく理解できないから、人付き合いも無理なんです」
「だから仕事も転々としてました。母親が働いていたから何とかなったようなもので、うちの家庭は当時のバブルの恩恵をまったく受けてないんですよ(笑)」
父も発達障害ゆえの生きづらさを抱えていたとすれば、その言動も仕事が定まらないことも仕方ないことと理解ができる。
でも、当時は子どもを3人抱えた母親が家計を支え、生活は厳しかった。
「ふつうの幸せを手に入れてやる」
いじめ、障害、貧乏、父のこと・・・・・・。そんな、正直めちゃくちゃな生活の中でも心の支えとなったのは、「いつか必ずふつうの幸せを手にしてやる」という思いだった。
折しも、子ども時代はバブルの波がきていた。
世間がそれなりにいい暮らしをしているのに、自分たちは何も経験していない。
周りのクラスメイトが持っていたものも、自分たちは何も持っていない。
他の子たちと同じものを手に入れたい。
「ずっとそういう『ふつう』の生活というものができていなかったから、いわゆる世間の『ふつう』というのが分からない。だから、憧れだったのだと思う」
「そういう、ふつうの幸せがほしい、ってずっと思ってました」
「今はそうは思いませんけどね(笑)」
周囲との違いを感じ、「なんでうちはこんなに貧乏なんだろう。親父がみんな悪いんだ」と父親を憎んだりもした。
だが、自分が発達障害だと分かって、色々と障害について知ってからは、父親を責められないなと思うようになった。
なるべくしてああなってしまったのだ、と分かった時には、父はガンで余命いくばくもなく、数年前に亡くなった。
<<<後編 2017/04/27/Thu>>>
INDEX
06 目からうろこの「発達障害」診断
07 LGBTと発達障害
08 母へ、カミングアウトしたい
09 「マイノリティ」と「マジョリティ」の壁をなくしたい
10 ブレイクスルーを起こすのは自分自身