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Writer/あさか

クィアな子どもに「理解のある」親とは? 小説『娘について』を読んで考えたこと

わたしは自分の親にクィアであることをカミングアウトしたことがあり、比較的「理解のある」反応をされてきました。一方で、いまだにモヤモヤすることもあります。来月日本初公開の映画『娘のこと』は、クィアな子どもを持つ親が主人公。クィアなわたしにとって、親はどうあってほしいのか。『娘のこと』の原作である小説『娘について』を読んで考えた、わたしなりの理想を言葉にしていきます。

わたしの親へのカミングアウト

わたしは自分のセクシュアリティの認識に変化があったので、何度か親、特に母にカミングアウトしています。

まずはバイロマンティックをカミングアウト

初めて親にカミングアウトしたのは16歳のとき。「憧れ」だと思っていた女性の先輩への感情が、実際は「恋愛感情」だと自覚したタイミングでした。

そのときは、母と父に、自分が女性にも男性にも恋愛的に惹かれるバイロマンティックであるとカミングアウトしました。

反応はというと、両親とも「ああそうなんだ」くらい。

わたしが留学中だったこともあって、親はわたしから新しいことを聞かされることに慣れていたのかもしれません。特に拒否反応や差別的な態度を示されることはありませんでした。

変わったことと言えば「いずれパートナーを家族に紹介する日がくるかも」といった話題が家族の中で冗談交じりに出るとき。親がわざわざ「相手が女性でもいいんだからね」と付け加えてくれるようになったことでした。

そのおかげで、わたしは「親にカミングアウトをなかったことにされていない」という安心感を持てました。一方で、この頃はまだ、親はわたしを「女性のことも好きになる」くらいに認識していたのだと思います。

次にレズビアン寄りであるとカミングアウト(?)

大学生になるにつれて、自分が「たぶん男性とは今後はパートナー関係を築かないな」と思うようになっていきました。(セクシュアリティが変化していった理由はNOISE記事「ノンバイナリーでレズビアンって自己紹介していいの?」に書きました)

バイロマンティックを自覚したときとは違い、自分がレズビアン寄りになってきたことについて、わたしは親に明確なカミングアウトをしていません。母に、普段の会話のなかで「もうたぶん男性とはつきあわないわ~」「今つきあってる人は男性ではなくて」と言うくらいでした。

あるとき母に「あさかはもう男性とはつきあわないでしょ」と言われたことがあります。

明確に説明したわけではないけど、日常の言動からわたしのセクシュアリティをアップデートしてくれていたことがわかって、予想外にうれしかったのを覚えています。

もちろん将来的なセクシュアリティについて、誰かに決めつけられるのが嫌な人もいると思います。でも、わたしの場合は将来を勝手に予測されたとしても「いつかは男性と結婚するでしょ」とか「女性と男性どっちもすきになるなら男性とつきあいなよ」などと言われるよりはよかったなと思います。

最後にノンバイナリーをカミングアウト

最近ようやく母にカミングアウトしたのは、自分がノンバイナリーであることです。

自分に性別違和(割り当てられた性別への違和感)があることや、女性として見られると嫌な気持ちになることを、はっきりと伝えました。

それまでも、自分がノンバイナリーであることについて、母に「今日、お店でお姉さんって勝手に言われて嫌だった」などと、ふんわりと伝えることはありました。でも、母にはそのことが、レズビアン寄りであることよりも大事なこととして受け取られていない感覚がありました。

レズビアン寄りであるということは、将来的にあさかが女性やノンバイナリー、ジェンダークィアのパートナーと生活する可能性があるから、ちゃんと理解しておいたほうがいい。
でも、ノンバイナリーについては、シスジェンダー女性と何が変わるのかわからないから、一旦いいかな。

そういうふうに思われていたのかもしれません。

実際、わたしは手術をするわけでも、名前を変えるわけでも、女子トイレに入らなくなるわけでもありません。ノンバイナリーの中にはそのように、医学的な移行や法的な移行、社会的な移行を行う人もいますが、わたしはそうではありませんでした。

だとしても、なのか、だからこそ、なのか。母の言動にわたしがノンバイナリーであることを軽視していると感じることが積み重なっていきました。

母がわたしに「同じ女性だから〇〇がわかるじゃん」「(わたしと母の関係性について)女同士だから気兼ねしないよね」などと、ときどき言うこともありました。そのため、自分のジェンダー・アイデンティティについて、母に一度、しっかりと話しておいた方がいいと思い、伝えることにしました。

母の反応はまたもや、拒否したり怒ったりといったネガティブなものはありませんでした。むしろ「これからもあさかのノンバイナリー性について知っていきたいと思ってるからアップデートがあったら教えてね」と言ってくれました。

クィアだと「理解」されてもモヤモヤする

カミングアウトへの反応からもわかるように、わたしの母は、わたしのクィアなセクシュアリティについて「理解のある」親だと思います。それでも、いまだに母に対してモヤモヤすることがあります。

「娘」と紹介される

母に対するモヤモヤで多いのが「娘」として紹介されるときです。

母が「うちの娘は~」「今日は娘と来て~」と言っているのを聞く度に「ノンバイナリーって話したじゃん」と嫌な気持ちになります。

実際のところ「娘」でも「息子」でもない呼び名が「子ども」しかない、という問題もあります。「子どものあさかです」と紹介すると、なんとなく聞きなじみがないですし、同音異義語のせいで「大人(成人)なのに?」というよくわからない状況も生みそうです。

でも、今のところは「子どもの」と言ってもらうしかないのだと思うので、そのように伝えています。でも、母としては、20年以上も「娘」と呼ぶことに慣れてきたため、難しいそうです。

この件は未解決なので、なにかよい呼び名を知っている人がいたら教えてほしいです・・・・・・。

いつまでも「パートナー」と呼んでくれない

ほかにも違和感があります。

実家につれてきたパートナーを、母が「あさかのパートナー」として面と向かって呼ぶのに時間がかかることです。

パートナーであると一度伝えていても、母の口からパートナーに対し「つきあっててどう?」「いつからつきあってるの?」といった、わたしたちがパートナー関係であることが前面に出るような話は出てきません。ほかの友人たちと同じように扱われている気がするときもあります。

もし男性のパートナーと一緒に実家を訪ねたら、きっと明らかに「あさかのパートナー」として友人とは違う会話をしたり、対応をしてくれるんじゃないかなと思うのですが・・・・・・。

「クィアの親じゃない」スイッチがある

わたしが母の言動によって疎外感を覚えるタイミングは、ほかにもあります。母が「シスヘテロの親」スイッチをオンにするときです。

わたしの姉はシスジェンダーの異性愛者で、いずれ男性のパートナーと結婚したい、と言っている人です。家族4人で話しているとき、結婚の話が出て「結婚より先に同棲すべき」と母が熱弁し始めたことがあります。

普段わたしと母がふたりでいるときは、わたしがクィアである(かつ反婚主義者でもある)ことが前提となっています。そのため母は「戸籍上の同性同士が結婚できないのはおかしい」「同性婚が法制化されても、もちろん結婚する必要はない」といった内容を話すことが多いです。

でも、姉が会話に入ったとたんに、母が「(子どもがいずれ)結婚できる・する」ことを当たり前に考えている「シスヘテロの親」に急に変わってしまったようで、ショックを受けます。

問いかけるのはどっち? 小説『娘について』から考える

モヤモヤすることはあれど「わたしの母は理解があるからラッキーな方だ」と自分を納得させようとすることもありました。でも小説『娘について』を読んで思った、母たちに対する違和感を、今回は言語化してみようと思います。

小説『娘について』の主人公

11月末に開催される大阪韓国映画祭で、映画『娘のこと』が日本初公開されます。原作の小説『娘について』は、クィアな娘を持つ親が主人公の作品です。

小説のなかば、同性のパートナーを連れて自分の家に住み始めた娘について、主人公がどうして? と心の中で問いかけるシーンがあります。

どうしてあの娘は平凡に生きようとしないのかしら。
どうしてそういう努力すらしないのかしら。

この部分を読んでいて、わたしはなぜか自分の母を思い出しました。

わたしの母、『娘について』の母が重なるところ

わたしの母は、一見、とても「理解のある」母親です。『娘について』の主人公のような差別的なことを言うことはありません。わたしのセクシュアリティについても「努力して変えるべきもの」と考えてはいないと思います。

それでも、わたしが小説『娘について』を読んで、自分の母を思い出したのは、なぜなのか。

おそらくふたりとも、自分たちが「クィアな子どもをどう理解するか/できないか」のみを考えているように感じたからだと思います。

ふたりはクィアな子どもを「理解しよう・できない」と、子どもに肯定的だったり否定的だったりする視線を向けます。でも、自分たちや社会にどんな規範があるのか、なぜそれが問題なのかを(この時点では)問おうとしません。

問い直すことはできるのか?

親に要求しすぎな気もしますが、わたしはたぶん、母にわたしのセクシュアリティの状況を「理解」してもらうだけでなく、一緒に社会の側を問い直してほしいのだと、『娘について』を読んで気づきました。

なぜ人は生まれる前から「娘」と「息子」に振り分けられないといけないのか。
男女に見えるふたりが街中を歩いていたらカップルだと思うのに、女性同士に見えるふたりだったら友人同士だと思うのはどうしてなのか。
なぜ惹かれ合う人同士の関係性は、ゴールが結婚なのか。

わたしのセクシュアリティを特異な「問題」として、理解するだけではない。母と一緒に、異性愛やシスジェンダーであることを「デフォルト」とするこの社会を「問題」として考え、怒ったり疑問を持ったりしたいのです。

「理解」の先の「解体」

以前、母と「宝塚の男役がかっこいい!」という話で大盛り上がりしたことがあります。

「男役がすきって男性がすきとはまた違うよね」「女性が男役をやっているところに萌えるんだよね」などというクィアな欲望の話も出てきました。

その瞬間、普段のような「理解してくれる母」と「理解してもらうわたし」ではなく、一緒に語り合い、異性愛規範を問い直して解体する「同志」のような感覚になりました。

クィア側の説明に応じて「理解」するだけでなく、クィアが経験する差別や苦しみを何が生み出しているのか、社会の側を問い直し、今まで信じていた自分の常識を「解体」する。

そんなことを母が一緒にやってくれたらとてもうれしいですし、社会の変化に向けて一緒にトライできる親やアライが、もっと増えたらいいなと思います。

 

■作品情報
小説『娘について』
作:キム・ヘジン
翻訳:古川綾子
出版社:亜紀書房

■参考情報
・大阪韓国映画祭 公式ウェブサイト

 

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