02 恋愛に向いてないタイプ
03 人の最期に生きかたが見える
04 レズビアンという “パンドラの箱”
05 女性カップルも子どもをつくれる
==================(後編)========================
06 不動産販売の最前線で
07 母に孫の顔を見せてあげたい
08 ありのままの自分で子どもを愛すこと
09 家族を守る姿勢が同性婚の実現に
10 「ママが2人もいて、いいね!」
01大好きな母「弱者を守りたい」
ボランティア活動をきっかけに市議会へ
生まれも育ちも茅ヶ崎。
両親も、ここで育った。
自分と兄、そして両親の全員が、同じ中学校で同じ美術の先生に教わった。
「兄は、いまも茅ヶ崎に住んでるんですよ」
「生徒会長をやってたこともある兄は、小さい頃から頭がよくて。性格もなにも私と似てないんです、似ているところがないくらい(笑)!」
父と母の出会いは、バイクのツーリングだった。
「このネックレス、父が母に贈った婚約指輪でつくったものなんです」
「母はいつも、『大切にしていたバイクを売って、買ってくれた大切な指輪』と、うれしそうに話してくれました」
「父は母のことを『生涯でたったひとり、愛した女性』だと言っていて、この指輪は、母が亡くなったときに、父が私に渡してくれた大切なものです」
母は、誰よりも正義感が強い人だった。
ネグレクトなどの虐待を受けていたり、貧困家庭に育っていたりする子どもたちのために、食事を提供する “子ども食堂” に取り組むなど、「社会的弱者を守りたい」という想いが強かった。
「高齢者支援や海外支援にも積極的で。茅ヶ崎の海のビーチクリーンなど、いろんなボランティア活動にも参加していました」
「そんな母は、私が小学生のときに市議会議員になりました」
「正義感が強くて、リーダーシップがあって。議員として得た収入の半分を活動費にあてて、実際に誰かのために活かしているような人でした」
子どもを決して否定しない
“マザコン” と自称するくらいに、母のことが大好きだった。
小学生の頃、女友だちよりも男友だちのほうが多く、毎日みんなで駆け回って生傷が絶えなかった自分を、あたたかく見守ってくれていた存在。
お転婆な行為もとがめず、否定するようなことは決してしなかった。
「なにをしても、自分らしさを伸ばしてくれるような、そんな母でした」
しかし一度だけ、その活発さを反省する出来事があった。
「小学校のお昼休憩にジャングルジムで遊ぶのが流行っていた時期があって、給食を食べ終わったら誰よりも早くジャングルジムに行きたくて、いつも校舎の2階の窓から飛び降りたりしていました」
「母から『寄り道をしないで早く帰ってきてね』と言われていた日には、ランドセルを背負ったままうんていの上を歩いて、バランスを崩して頭から落ちたり(笑)」
「顎のところを切ってしまって、『顔の傷は本当にやめて』と泣く母を見て、これはやばいことをした、と初めて自覚しました・・・・・・」
そんな母に「子育ては大変だったか」と尋ねたことがある。
「苦労したことは一度もない、と言ってました」
「イヤなことを忘れてるだけじゃないかな、って思いますけどね(笑)」
02恋愛に向いてないタイプ
せっかく女同士で遊んでたのに
学校の休憩時間は男友だちと一緒になって駆け回って遊び、放課後は所属していた劇団のお稽古に励んだ。
「ダンスとか、お芝居とか、すごい好きで。小学校の卒業制作だったかな、彫刻作品をつくったんですが、そこに将来の夢が書いてあって」
「なんか、ミュージカルのスターになる、って書いてました(笑)」
歌ったり踊ったり、体を動かすことが楽しくて仕方なかった小学生時代。
髪型はいつもショートカット、服装もパンツスタイルが多かったため、男の子に間違えられることもあった。
「実際に、ミュージカルでも男の子の役をやることが多かったですね」
女子トイレで「あ、ボク、ここ女の子のトイレだよ」と呼び止められたりも。
「それでも気にすることなく、『あ、私、女の子だからね、ここに入ります』って、ふつうに返してたらしいですけど(笑)」
そして中学生になり、思春期に入ると、周りの様子が変わってきた。
「彼氏ができた」という女友だちも増えてくる。
「恋愛をしている友だちを見てると、もう泣いたり笑ったり、感情の起伏がすごくてね。カラオケ行ったら、ずっと恋愛ソングを歌ってるし」
カラオケにいてもカフェにいても、「彼氏と彼氏の友だち呼んでいい?」と、その場に男の子がどんどん増えていく。
「せっかく女同士で楽しく遊んでたのに・・・・・・と、おもしろくなかったですね(苦笑)」
「そのうち、その場にいる男の子に好かれて、周りに『付き合いなよ』って言われて、まぁいいかって付き合うんですけど、続かない(笑)」
恋愛しないほうがラク
男の子と付き合うときは、もしかしたら相手のことを好きになれるかも、と思った。しかし、女子だけでいるほうがやっぱり楽しい。
「自分は恋愛に向いてないなって思ってました」
その頃はLGBTQに関する用語も知らなかった。
知っていたら、きっと自分は「アセクシュアル」だと思っていたかも。
「でも、恋愛に興味がないぶん、自分が興味をもてる映画とか旅行とか、趣味のダイビングとかに時間を費やそうと思ってました」
「恋愛で感情を左右されることもなかったし、むしろラクだなって(笑)」
男性は、友だちとして付き合うのはいい。
しかし彼氏となると、身体的な接触や少しの束縛や・・・・・・そんな関係性が重く感じられ、誰と付き合っても面倒になってしまう。
「そんなもんだよ」と言う女友だちもいる。
深く悩むことではないし、「そんなもんなんだ」と考えていた。
「ただ、いつか子どもはほしいと思ってました」
「母が若くして私を産んでくれたので、私も早めにママになりたいなって、漠然と思ってましたね。まぁ、恋愛はできてなかったんですけど(笑)」
03人の最期に生きかたが見える
人のためになる仕事をしたくて
恋愛には興味をもてなかった思春期だったが、周りの女友だちと同様にメイクやファッションには興味をもち、将来は美容業界を目指した。
就職はエステ業界へ。
自分の手を使って、お客様を美しくしてあげたい。
直接相手を喜ばせることができる、人のためになる仕事だと思った。
「でも入社してすぐに、進路を間違えたと思いました(苦笑)」
「朝練も夜練も当たり前。勤務時間外に練習。ずっと無給で仕事って感じで」
「体力的にもかなりつらかったですし、なにより全員が女性の職場で、お客様も女性で・・・・・・いじめとかもあって」
なんとか続けることができて役職に就いたとしても、負担が増えるだけで、給料はほとんど増えないという現実もあり、このまま働き続けていくビジョンが思い描けなくなってしまった。
「そんなとき、同居していた父方の祖母に認知症の症状が出始めたんです」
両親が共働きだったこともあり、祖母にもよく面倒をみてもらっていた。
かけがえのない存在だ。
「介護士の資格をとってみようかな、と思ったんです」
「最初は、おばあちゃんのためにも使えるかもと軽い感覚で始めてみたんですが、やってみると、介護の仕事はすごいおもしろくて」
「人のためになる仕事。エステもそうだと思って入ったんですが、介護であれば、性別関係なく、いろんな人を助けられると思いました」
与えられた人は、その愛を忘れない
看取りも多い老人ホーム。
働き始めた頃は、利用者が亡くなるたびに涙をこらえるのがつらかった。
ご家族の前で泣くことはできないので、施設を出てから泣くこともあった。
「いまでも覚えているのは、100歳を超えた女性の利用者さんのこと」
「寝たきりにはなっていたんですけど、意識ははっきりされていて、介護士のこともちゃんと認識してくださってました」
「ある日、まだ私が仕事に慣れていない頃、そのかたに靴下をはかせようと屈んだ瞬間、つらいことを思い出して、涙が出ちゃって・・・・・・」
すると、なにも言わず、優しく頭を撫でてくださった。
救われたおもいがした。
「ご家族にはもちろん、施設で働いているみんなからも愛されていて、亡くなられたときは、本当に悲しかったです」
「そのときに思いました。人の生きかたって最期に出るんだなって」
老人ホームには、さまざまな人がいた。
認知症になり、自分の子どもたちがわからなくなってしまった母親。
それでも子どもたちは毎日のように、母親に会いにくる。
「そのかたが忘れてしまっても、大人になった子どもたちは、それまで与えられた愛を忘れないんですね・・・・・・」
さまざまな家族がいて、さまざまな愛がある。
老人ホームは、それが交錯する場所だと感じた。
週に何度も会いにくる家族もいれば、1年に1回しかこない人もいた。
「働きながら、たくさんのことを学ばせていただきました」
「自分の身になにかあったとき、誰かが会いに来てくれるような人になりたいし、家族になにかあったら、必ず会いに行きたいと強く思いました」
04レズビアンというパンドラの箱
女の子が女の子とデート!?
介護士として働いていたとき、自分はレズビアンだと気づいた。
「仲のよかった女友だちがいたんです」
「イケメンと別れて、またすぐイケメンと付き合う、みたいな・・・・・・。なんというかモテる子で(笑)」
「その子と彼氏と私の3人でよく飲みに行ったりとかしてたんです」
自分はというと、相変わらず恋愛に興味がなかった。
そして相変わらず、女同士で遊んでいたほうが楽しいと思っていた。
そんなある日、「この子と付き合うかも、どう思う?」と写真を見せられた。
ロックバンドにいそうな、ボーイッシュな女の子。
「素敵な人だね、いいんじゃない? って答えました」
女性と女性が付き合うという世界があることは、知ってはいたが、頭の片隅にある知識のひとつで、自分とは関係がないと思っていた。
「それまで男の子と恋愛する女の子しか周りにいなかったし、その子もそうだったのに、急に、女の子とデートする?? なんだその世界は! って」
その日の帰り道、友だちに教えてもらったレズビアン掲示板を見てみた。
「すごいドキドキしました。パンドラの箱を開けちゃったって感じで」
「ふつうに女の子同士で恋愛する世界があるんだなぁって」
娘がレズビアンでもいいの?
その掲示板で知り合った子と、付き合ってみた。
「その子のことをすぐ好きになったので、自分がレズビアンだってことは、すぐに自覚できたんだと思います」
いままで自分が恋愛に向いてないと思っていたのは、相手が男性だったからなんだ、自分はレズビアンだったんだ。
母に言わなくては。
「・・・・・・ふつうの生き方ができなくなった、という感覚があったんですよ」
「それを、母には隠しておきたくなかったんです」
「母のこと、すごい好きだったので」
自室に正座して、母に伝えた。
実はいま女の子と付き合ってる、と。
「そしたら『だからなに?』って(笑)」
女の子と付き合ってるということは、きっと自分はレズビアンだし
結婚しないかもしれないし
子どもも産まないかもしれないし
孫の顔を見せてあげられないかもしれないけれど
それで平気なのか、と問うた。
「母は『あなたの人生だから。あなたが幸せならいい。好きに生きたらいいよ』って」
「いや、さすが母ですね。否定はされないとは思ってましたが、想像の斜め上を行く反応でした。これはもう自慢です(笑)」
親にカミングアウトして否定されてしまう人もいるなかで、自分はとても恵まれているのだと、親に感謝した。
と同時に、どうか、LGBTQ当事者の親には、勇気を出してカミングアウトした子どもを否定しないでほしいと思わずにはいられなかった。
05女性カップルも子どもをつくれる
レズビアンだって子どもを諦めなくていい
「女性カップルでも精子を提供してもらえたら子どもをつくれる」と言い出したのは、母だった。
「いやいやここは日本だよ? って。10年以上も前の話なんで、いまよりもっと偏見があった時代に、ですよ(笑)」
確かに、大切なパートナーがいて、介護士というやりがいのある仕事を続けていたけれども、将来に対しては漠然とした不安はあった。
やっぱり、子どもを育てたい。
「でも、レズビアンとして生きることを覚悟した時点で、諦めるしかないと思ってました。そんな私に『諦めなくてもいいんじゃない?』って」
「母は『子育てしていたときが人生で一番楽しかったから、あなたにもそのおもいを感じてほしい』と言ってくれました」
「それでもそのときは現実的に無理だろうと思ったので、母にいろいろ考えてくれてありがとうと言いつつも、右から左に聞き流してました(笑)」
そのときのパートナーはクローゼット。
「パートナーは、親には絶対カミングアウトできないと悩んでいました」
「私自身も、同性同士で子どもを育てていくイメージができていなかったし、ずっと将来への不安はありました」
遊びに誘わないで
介護士の仕事は夜勤も多く、体への負担は大きい。
このまま続けていくのは難しいだろう。
ケアマネージャーになるか、看護師になるか、介護業界を辞めて別の仕事を探すか・・・・・・悩んでいたとき不動産業界で働く先輩と再会した。
「バリバリ働いていてカッコよくて、すごい尊敬してた先輩で」
不動産の仕事が向いてると思うからやってみないか、と提案があった。
「美容業界と介護業界でしか働いたことないから、不動産なんて無理って思ったんですが、向いてると言われたことがすごくうれしくて」
「先輩がそう言ってくださるなら、としばらく考えて、宅建士の資格がとれたら不動産業界で働こうと決心しました」
それから1年、老人ホームで働きながら、資格試験に向けて勉強に励んだ。
「SNSのひとことプロフィールみたいなところに『資格取得中なので遊びに誘わないで』って書いておいたりもして、本気でがんばりました(笑)」
そして無事、試験に合格。
晴れて不動産業界に入った。
<<<後編 2025/04/20/Sun>>>
INDEX
06 不動産販売の最前線で
07 母に孫の顔を見せてあげたい
08 ありのままの自分で子どもを愛すこと
09 家族を守る姿勢が同性婚の実現に
10 「ママが2人もいて、いいね!」