魚喃キリコの漫画作品を原作として、安藤尋監督により2001年に映画化された『blue』。同性の高校生を好きになった少女の心の動きを見て私が感じたのは、「レズビアンは恋愛対象と憧れの人をどう区別したらいいのだろう?」ということだった。
映画『blue』を観て感じた、レズビアンとしての疑問
安藤尋監督の映画『blue』のあらすじ
主人公の高校生・桐島カヤ子は、年上だけど留年して同じクラスになった遠藤という少女が気になり、次第に仲を深めていく。
年齢がひとつ上の遠藤は、桐島(※映画内では苗字で呼ばれることが多いので以降もこのように表記する)がこれまで知らなかった趣味や習慣を見せてくれて、その大人っぽい言動に桐島は惹かれていく。
やがて、桐島は「遠藤が好き」と本人に告白をするのだが・・・・・・。
海の見える地方都市の風景をバックに、まだ自分がレズビアンなのかどうか、この感情が恋愛なのかどうか把握できていないような高校生の揺らぎと交流を描いた映画である。
10年越しに振り返る映画『blue』と、レズビアンとしての疑問
私が映画『blue』と出会ったのは、18歳の頃。
ちょうど主人公たちと同じくらいの年齢で、桐島と同じように、同じ学年の女の子に好意を抱き始めた頃だった。
だからこそ、はじめて映画『blue』を観たときの私は「これは自分のための作品だ!」と思った。
同級生の女の子に恋をしたこと、その子の言動がいちいちカッコよく見えたこと、進路にも迷いを感じるようなあやふやな気持ちの中で、自分が何者なのか決めかねていたこと・・・・・・。
主人公・桐島の心情が当時の自分に重なりすぎて、観ながら泣いてしまったし、そのあと何度も繰り返し観ては「やっぱりいい映画だなあ」としみじみ感じていた。
ただ、そのときから10年以上の月日が経った今、あらためて映画『blue』を観ると、ふと疑問がわいてきた。
レズビアンは、同性の相手への感情が「恋愛」なのか「憧れ」なのか、どのように区別すればいいのだろうか? と。
映画『blue』を恋愛映画だと信じていた頃の自分と、感覚の変化
映画『blue』をあらためて観てみると、今月(2025年8月)から公開の映画『美しい夏』(NOISE記事「映画『美しい夏』が描くひとときの「揺らぎ」―LGBTQ+の視点から観て」)との共通点がいくつかあることに気がついた。
映画『blue』と映画『美しい夏』の共通点

映画『blue』をあらためて観てみると、今月(2025年8月)から公開の映画『美しい夏』(NOISE記事「映画『美しい夏』が描くひとときの「揺らぎ」―LGBTQ+の視点から観て」)との共通点がいくつかあることに気がついた。
主人公が少し年上の同性と友人になり、だんだんと仲を深めていくこと。
年上の友人の大人っぽさに憧れて、その行動を真似ること。
時にはリスクをともなう行動に出てまで、友人に追いつこうとすること。
そして、自分のセクシュアリティも定まらないまま、その友人と恋愛に近い関係になること・・・・・・。
いずれもはっきりと「レズビアンを描いている」「女性同士の恋愛物語である」とは言及されていない、思春期のあいまいなセクシュアリティと同性との関係性を表現した映画である。
しかし、映画『blue』を観た当時の私は、これが「レズビアンのための映画だ」と信じて疑わなかった。
「私は女性に恋愛感情を抱く人なんだ」と気がついてすぐの頃だったということもあって、主人公・桐島が遠藤に寄せるおもいを「恋愛感情だ」と確信していたのだ。
ただ、映画『美しい夏』を観たときにも感じたことだけど、あらためて映画『blue』を観返すと「これって本当に恋愛感情なんだろうか?」と疑問が湧いてくる。
レズビアンを自認したばかりだった、当時の私の意地
映画『blue』のキャッチコピーは「恋人ができるまで。」というものだ。
このキャッチコピーを知ったとき、映画を観たばかりだった私はとっさに憤慨した。
桐島と遠藤の関係は「恋人」にはなり得ない、ふたりの間にある感情は「(本物の)恋人ができるまで」の儚いものなのだ、とでも言われているように感じて、腹が立ったのだ。
私は自分がレズビアンだと気がつくまで、母親に「あなたの感情は疑似恋愛や思春期の気の迷いみたいなもので、本物の恋愛感情ではない」と言われ続けていた。
その言葉をつい信じてしまい、自分の恋愛感情を認められなくて苦しんだ数年間があったからこそ、同性への恋心を「本当の恋愛感情ではない」と言われることに、ひどく敏感になっていたのだ。
だから、映画『blue』のキャッチコピーは腑に落ちなかったし、桐島が遠藤に抱いていたおもいは恋愛感情に決まっている、と半ば意地になっていた。
漫画『青のフラッグ』が気づかせてくれた、映画『blue』の見え方の変化
しかし、月日は流れ、私は多くはないながらもいくつかの経験をして「恋愛感情」について以前よりも思うところが増えてきた。
もしかして、私が恋愛感情だと信じて疑わなかったおもいのうち、大半は「憧れ」に近いものだったんじゃないだろうか? と気がついたのだ。
そう考えるようになったきっかけは、漫画『青のフラッグ』(NOISE記事「LGBTを描いた作品として、漫画『青のフラッグ』をおすすめしたい理由」)だった。
漫画『青のフラッグ』の作中では「恋愛感情」とひとくくりにされがちな思いを、ものすごく細かく描き分けている。
「大好きな異性がいるけど、その人の恋人になれないならせめていちばんの親友になりたい」という好意。
「もし自分以外の人になれるんだったら、○○くん/○○さんみたいな人になりたい」という憧れの感情。
「絶対に付き合いたいとは思わないけど、異性の友達として仲良くしていたい」というシンプルな友情。
これらの感情は、周囲からすれば「(恋愛として)好きってことなんじゃないの?」と思われそうだけど、本人にとっては区別する意味のある思いとして描かれている。
特に、私にとって衝撃的だったのは「○○くん/○○さんみたいになりたい」という憧れの感情が恋愛感情と区別されていたことだ。
きっと、いや確実に、以前の私はそれらの感情を区別できず、同じものだと思い込んでいたから。
そして、その気づきは映画『blue』にも当てはまるものなのではないか? と思った。
レズビアンにとっての「恋愛感情」と「憧れ」の違いとは?
レズビアンとしての自分の初恋を振り返って

映画『blue』の桐島が、遠藤に対して実際にどのような感情を抱いていたか、詳しくは本人にしかわからないだろう。
ただ、桐島と自分の姿を重ね、強く感情移入していた当時の私の片想いは、今になって振り返ると「恋愛感情ではなかったかもしれない」と思えるのだ。
片想いをしていた当初は、これこそが自分のレズビアンとしての初恋だ、と確信して浮かれていた。
同じ学年の友人である彼女と一緒にいると、胸がドキドキしてくる。
彼女と少しでも長く一緒にいたい、一挙手一投足をじっくり眺めていたいと感じる。
彼女とおそろいのものを持ちたくて雑貨店を巡ったり、似たような服装をしたくてアパレルショップを探し回ったりしてしまう。
もちろん、これらの衝動を当時の私が「恋愛感情だ」と主張するなら、その気持ちは尊重してあげたい。
ただ、10数年たった今、冷静になって振り返ると「その感情は『恋人になりたい』というより、相手を『推している』という状態なのでは・・・・・・?」と思ってしまうのだ。
レズビアンの自分が考える「恋愛感情」と「憧れ」の違い
恋愛感情の抱き方には個人差があるはずだけど、私にとって「推し(憧れの人)」と「恋人として付き合いたい人」は明確に違う。
推し(憧れの人)への感情は「○○さんみたいになりたい」あるいは「○○さんを見ているとときめく」という思いがベースになっている。
一方、恋人として付き合いたいと思う人への感情は「○○さんと一緒にいると心がやすらぐ」あるいは「○○さんを楽しませたい、笑顔にしてあげたい」という気持ちが、ベースになることが多い。
私はレズビアンで、恋愛対象も憧れの対象も女性であることが多いから、身近な女性に強めの好意を抱いたとき、とっさに自分の気持ちがどちらなのかわからなくなってしまう。
そのうえ、相手の女性もレズビアンであるとは限らないから、片想いも告白もかなりのリスクをともなう。
だからこそ「恋愛感情」と「憧れ」は、ある程度区別できていたほうが、相手も自分も傷つくような行動に出るリスクは減るのではないだろうか。
映画『blue』の桐島と遠藤の間にあった感情とは
映画『blue』のなかで、主人公・桐島は遠藤からブドウをもらったことをきっかけに絵を描くようになる。
それまでまっすぐ遠藤に向かっていた情熱が、形を変えて別の行動へと向かうことで、やっと桐島は遠藤と対等に話せるようになったのではないか。
実際、遠藤にはひかえめな態度で接することしかできていなかった桐島が、絵を描くために美術室に通うようになってから、はじめて遠藤に正直な気持ちを爆発させている。
もし恋人やパートナーとして付き合いたいのであれば、相手に素直な気持ちを打ち明けたり、一方的に我慢するのではなく、対等で公平な関係性を求めたりすることも必要になってくる。
絵を描くようになるまでの桐島は、遠藤に対してどこか遠慮がちで、常に少し仰ぎ見るような、憧れの目を向けていたように見える。
ただ、遠藤の真似をするのではなく、自分自身が好きだと思えるものを見つけて、情熱を注ぐ対象に出会えたことで、ようやく桐島は等身大の遠藤自身と向き合えるようになったのだ。
だからこそ、結果的にふたりが選んだ進路は別々の道で、ふたりの関係は「恋人ができるまで。」の、一時的なものに留まったのではないだろうか。
それでも、本音をぶつけあった桐島と遠藤の間には、それまでのふわふわと淡いやりとりとは異なる、しっかりとした地盤のある感情が芽生えているように思える。
そして、それはやっぱり恋愛感情ではなくて、友情やシスターフッドに近い、同志に向けるような思いに見えるのだ。
映画『blue』がきっかけをくれた、レズビアンの恋愛に関する気づき

映画『blue』について、描かれているのは「恋愛感情」か「憧れ」かというテーマでここまで書いたけれど、自分の気持ちが恋愛かどうか決めるのは、最終的に自分自身しかいない、とは思う。
だから、もし主人公・桐島が「あのときの感情は恋愛だった」と語るのであれば、それがひとつの真実だ。
ただ、映画『blue』の桐島と自分を重ねて、桐島が遠藤と恋人同士にはならないラストをせつなく思っていた10数年前の自分には、今はもっと違う見方ができるようになったよ、と声をかけてあげたい。
レズビアンの恋愛は、同性同士だからこそ、相手に自分の理想の姿を投影しがちになるし、より「恋愛」と「憧れ」を混同しやすいのだと思う。
大事なのは「相手と対等に向き合えているか」「相手を自分よりも上の存在として仰ぎ見すぎていないか」という視点なのかなと、久しぶりに映画『blue』を観返して気づくことができた。
■作品情報
『blue』
監督:安藤尋
脚本:本調有香
出演:市川実日子、小西真奈美、他
配給:ミコット、スローラーナー

