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ゲイの私が伝えたい、カミングアウトの失敗例から学んでほしいこと【前編】

小花があしらわれたシャツが馴染んでいる森田昌太さん。保険業界で長らく女性たちと仕事をしてきた経験を持っており、取材陣への気配りも細やかだ。家族を全員天国へ見送り、一見すると孤独なようにも思えるが、表情は清々しい。ゲイというセクシュアリティにふたをしていたころから、自分を解放するまでの半生を語ってもらった。

2025/08/10/Sun
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Hikari Katano
森田 昌太 / Shota Morita

1970年、東京都生まれ。一人で遊ぶことが好きなおとなしい幼少期から、母親から無言の圧力を感じる。同性が好きであることを自覚しつつも、何名かの女性と交際を経験。長年勤めた大手保険グループを退職後は、同性カップルを主にターゲットとするファイナンシャルプランナーとして活動している。

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INDEX
01 おとなしすぎる子ども
02 母親の夫代わりとして
03 「ホモ」を否定
04 女の子とのお付き合いでカモフラージュ
05 女性からのセクハラ
==================(後編)========================
06 もう隠さなくていい、ゲイだってこと
07 勢いでカミングアウト
08 家族を見送って
09 ゼロからの独立
10 カミングアウトの「極意」

01おとなしすぎる子ども

静かで手のかからない子

東京都杉並区で生まれる。

「小さいころに住んでたのは調布で、小学校6年生からは八王子に引っ越しました」

当時は家庭用ゲーム機も少しずつ普及し始めていたが、「子どもが遊ぶ」と言えばまだまだ外遊びが主流。

「私は家で、一人で過ごすことのほうが好きでした。親から、外で遊びなさい! って言われたこともなかったですね」

「オカルトや心霊現象がブームだったので、霊能力者の宜保愛子さんの本なんかをよく読んでました」

幽霊は怖い存在ではなかったが、幽霊は絶対にいる! と信じていた。

「いまでもスピリチュアルな話題は好きですね!」

おぼっちゃまを目指して

幼稚園生のころからピアノを習い始める。

「当時は、ピアノは女の子のもの、っていうイメージが強かったんで、周りからはからかわれて・・・・・・」

それでも母親の意向にしたがって、ピアノは5年ほど続けた。

「いま思えば、もっとやっておけばよかった! って思います(苦笑)」

男の子がピアノを習うことが珍しい時代。

母親がピアノを習わせた背景には「子どもをおぼっちゃまに育て上げたい」という母親のおもいがあったのでは、と考えている。

「幼稚園も、お受験して入るようなところに通ってたんです。でも、私はおとなしすぎて向いてないってことで、小学校からは公立に変えましたけど、姉はそのまま附属の小学校に通ってました」

仲のよい姉

4歳上の姉とは比較的仲がよかった。

「姉にはかわいがってもらってましたね。激しいケンカをしたこともありませんでした」

でも、姉も私と同じように親に従順なおとなしい子、というわけではない。

「姉と母親は折り合いが悪くて、2人でよく言い合いをしてましたね」

小さいころから大人びていて、どこか客観的で冷めた視線をもっていた私は、2人のケンカを「またやってるなぁ」と眺めていた。

「どちらかの味方をするでもなく、巻き込まれないようにだまって遠くから見るようにしてました」

02母親の夫代わりとして

酔っぱらうと豹変する父親

幼少期に父親から愛されていたという記憶はある。

「父親とは一緒にプラレールで線路を作って遊んだりしました」

でも、酒が入ると父親の様子は一変した。

「外で結構な頻度で飲んでは、不機嫌に怒鳴り散らしながら帰ってきて・・・・・・。酔っぱらってる父親の姿は怖かったですね」

家のグラスを投げて、その破片で流血することも。

「いつ帰ってくるかわからないし、父親の世話をしなきゃいけない母親がかわいそうだな、って思ってました」

母親が父親を寝かしつけると、夜中2~3時から母親の愚痴を相手するためによく起こされた。

「育ち盛りの小中学生なら、本当は寝なきゃいけない時間なんですけどね・・・・・・。眠くて大変でした」

アルコールが入ると荒れるのは父親に教養がないからだ、などと悪口をひたすら聞かされる。

「離婚したらいいんじゃない?」
「でも離婚したらあなたたちを育てられないから離婚しない」

そんな会話も続いた。

「本当は、親の悪口って聞かないほうがいいんですけどね。父親は悪者だって刷り込まれてたんだなと思うと、父親もかわいそうだったなって」

親に反抗しづらい小学生のうちにとどまらず、中学生になっても母親の愚痴に付き合い続けた。

「やっぱり母親のことが好きだったから、反抗しなかったんです。反抗期はなかったですね」

「大人になって心理学を勉強してから、母親は自分の理想の男性像を私に投影してたんじゃないかな、って気づきました」

父親が酒に酔っている間は手の施しようがないので、翌朝に酔いが覚めたときに母親が皮肉っぽく父親を責める・・・・・・。そんな日々が繰り返された。

母親からの圧力

父親が酒に酔うと気性が荒くなることはあったが、家族の主導権を握っていたのは母親だ。

「私が10歳くらいからは外で働いてましたし、結構活発なタイプだったと思います」

表面的にはしつけに厳しかったり教育熱心だったりしたわけではないが、常に抑圧・支配されていた、といまでも感じている。

「勉強しなさい! とは言われませんでしたけど、勉強しないとお父さんみたいになるよ、とは言われてました」

家族のなかで父親は悪者にされていた。そんな父親のようになると言われると、子どもながらに「じゃあ勉強しなきゃ」と思い込むようになった。

「中学のときには、自分から塾に入りたい、って言いました。別に勉強が好きでもなければ、本当に塾に入りたかったわけでもなかったんですけどね」

03「ホモ」を否定

冷めたタイプ

中学校に進学しても、物静かな性格に変化は見られなかった。

「ワーッと集まって騒いでる人たちを、何がそんなに楽しんだろう? って遠くから眺めてました。大人びてるほうでしたね」

「深層心理では、本当はその輪に入りたかったのかもしれない、とも思うけど、でも自分のおもいを抑圧してたので、そのときはわからなかったですね」

中学2、3年生のころ、クラスメイトのある男の子が気になり始める。

「かわいいタイプの子でしたね」

近からず遠からずの距離感の友だちとして接した。

「ほかにも仲のいい男子の友だちはいましたけど、気づいたらその子だけを目で追ってるな、ってわかってました。でも、それ以上近づこうとは思いませんでしたね」

「ホモ」である自分はおかしい

自分の気持ちにふたをしていたことには、セクシュアリティが大きく関係していたと振り返る。

「テレビを見ていても、女性じゃなくて男性アイドルのほうが気になってました。そのころはジャニーズ事務所のアイドルが全盛期で、どの番組にも出てるくらい人気だったんです」

当時のテレビでは、ニューハーフ系のタレントとしてカルーセル麻紀や、おすぎとピーコなどが活躍していた。

「私は別に性表現が女性寄りじゃないから、テレビのタレントとは違うと思ってました」

でも、自分はいわゆる “ホモ” なのではないか、と少しずつ考えるようになった。

「男同士でボディタッチすると『お前、ホモじゃん!』ってからかうことはよくあったので、みんな『ホモ』は知ってたと思います。『ゲイ』は20代後半になってから知りました」

「男が男を好きになることはタブーだから絶対にふたをしなきゃ、って思ってたんです」

04女の子とのお付き合いでカモフラージュ

付き合ってみたけれど・・・

高校2年生のとき、部活の後輩である女子に告白されて付き合うことになった。

「当時私はメガネをかけていて、その姿がシンガーソングライターの大江千里に似てるってことで、告白してきたみたいですね」

「周りが付き合ってるのを見て、自分もだれかと付き合ってみたいな、って興味が出てきたんですけど・・・・・・女の子相手じゃ全然ときめきませんでした(苦笑)」

校内で彼女が自分のことを見つけて「しょうちゃんだ!」とキャーキャー騒いでいるのを見ると、正直うっとうしく感じてしまった。

「なるべく彼女と一緒に過ごすことのないように、相手を遠ざけてました」

部活終わりに一緒に帰ることはほとんどなかった。デートらしいことも、数える程度だけ。

「でも、大江千里のコンサートに行ったり、友だちとして過ごすなら楽しかったこともありますよ」

近寄られると恐怖

付き合った女の子のことは恋愛対象としてまったく好きになれなかったが、交際期間は5年におよんだ。

「だらだらと関係を続けてました。彼女がいれば『普通の男』だと周りから認識してもらえるから、そのためにキープしてたんじゃないかな」

5年も付き合っていればさすがにスキンシップも皆無というわけにもいかなかった。

社会人になってからも、男性が好きであることを抑圧していたときには女性とお付き合いしたこともあったが・・・・・・。

「体の関係を求められることが怖かったです」

そもそも女性と交わりたくなかったし、女性の裸を見ても自分の身体が反応しないだろうから、気持ちに応えられない、というおもいもあった。

「相手とそういう雰囲気になっても、なんとかかわすようにしてました」

身体の関係を求めてきた相手からの誘いを断り続けていると「ゲイなのではないか」などと疑われたが、徹底的に反発した。

「そうやって関係が進展しないから、結局相手からフラれましたね」

05女性からのセクハラ

大学生になっても母親の言いなり

母親からの圧力や支配は、大学生になってからも続いていた。

「アルバイトをしようと思ったら、母親から『お母さんが勤め先を決めてきたから』って、近所の本屋でアルバイトすることになりました」

母親の命令を疎ましく思う気持ちはあった。

「もっと都心のほうで働いてみたいなって思ってましたよ」

でも、言いつけに従うことにした。

「母親が大学生の息子のアルバイト先を決めることは、当時は当たり前だって思ってたんです。母親も、自分の息子がかわいくて、そうやってしばりつけてたんだろうなって」

「言うことを聞かなかったら母親の機嫌が悪くなって、1週間くらい口をきいてもらえなかったりするから、聞いておいたほうがいい、っていうのもありましたね」

内定をもらえたから

大学卒業後、損害保険会社に就職する。

「保険業界で働きたい! って思ってたわけじゃないんです。正直、自分がどこで働きたいのかなんてわからなかったですね」

理由は、就職活動の早い時期に、最初に内定をもらったから。就職氷河期が始まりつつあったことも関係している。

保険会社で働いていた期間のうち、7割ほどは営業職に就いていた。

「損害保険のほかに、グループ会社である生命保険のほうに携わってたこともあります」

「個人を相手にすることもありますけど、基本的には代理店に向けて自分のところの保険を売ってもらうよう働きかけるのが仕事でした」

自動車事故の示談交渉を行っていたこともある。

「反社会勢力の人に会いに行かなきゃいけなかったり・・・・・・。男性だからそういう仕事が回ってくるんですけど、怖かったですよね」

なめられた感覚が離れない

保険の営業としてバリバリ働いて稼ぐ! というわけでもなく、なんとかこの仕事を逃すまい、と必死にしがみつくような状態で働いた。

「営業成績を上げよう! とは、そんなに思ってなかったですね。ノルマも課されてましたけど、そういう波にはあまり乗らなかったです」

取引先への営業や接待が苦痛だった。

「代理店の人になんとかウチの保険を売ってもらうために、『森田さんのために保険を売ろう』って思ってもらえるよう根回しすることには力を入れてました」

それでも、無理をしてまで代理店に保険の営業をかけてもらうことには心が痛む。

「『売ってください!!』ってストレートに頼むのは申し訳ないなって感じて、つらかったですね」

ひと昔前の営業時代、取引先である女性の代理店への接待では、現在では考えられないこともしょっちゅう起こっていた。

「スナックで、自分の親と同じくらいの年齢の女性とチークダンスを踊らされて・・・・・・」

ムード漂う音楽が流れるなか、顔も身体も密着させるダンスを強いられた。

「耳をべろべろとなめられて、すごく気持ち悪かったですね・・・・・・」

「当時セクハラと言えば男性が女性にするものばかり取り上げられてましたけど、パワーバランスが変わると女性も結構ひどいことしてましたよね」

 

 

<<<後編 2025/08/17/Sun>>>

INDEX
06 もう隠さなくていい、ゲイだってこと
07 勢いでカミングアウト
08 家族を見送って
09 ゼロからの独立
10 カミングアウトの「極意」

 

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