私は病院の介護職員として働いたことがあります。そのなかで「未来の自分」とも言うべき患者さんたちに、何度も出会いました。一度も結婚したことがない女性や、家族と疎遠になった方。恋愛感情を抱かないアロマンティック、そして他者に性的欲求を抱かないアセクシュアルとして生きる私にとって、彼女らの姿は決して他人事ではありませんでした。
パートナーがいないアロマンティックが病棟で見た「未来の自分」
私は、30代後半で事務職から介護職へキャリアチェンジしました。職場は地元でもっとも大きな病院。患者さんとの出会いと別れ、回復と終幕。現場の仕事は、人生の縮図を見ているような気持ちになったのを今でもよく覚えています。
ロマンティックとアロマンティックの間にある壁
「お疲れ様です。交代の時間ですよ」
戦争のような夜勤が明け、日勤の看護師さんの声が耳に優しく響く朝。
重い体を引きずるようにして歩く病棟の廊下。
聞き慣れたナースコールの音を聞きながら、どこか別の世界に迷い込んだような心地でいました。夜勤明けは、いつも頭の中がふわふわしていたんです。
医療や介護の現場って、やっぱり女性が多くて。
休憩室では、同僚たちが「うちの旦那がさぁ」「彼氏がね」と愚痴をこぼしたり、のろけたり。そんなとき、私はいつも透明人間になったつもりでいました。
やっぱり、わかんない世界なんだよなあ。
恋愛感情がわかない恋愛指向「アロマンティック」の私にとって、彼女たちの語る日常は遠くて、なんだかテレビの向こうの世界のようで。なんとなく隔たりを感じていました。
でも休憩室を出て戻った病棟は、鏡ともいえる場所だったんです。
パートナーのいない人生を歩む患者さんに自分を重ねた瞬間
今のように感染対策が厳しくなかった2016年ごろ、入院中の女性患者・Aさんに出会いました。
Aさんはとても穏やかで、いつも私たち職員を気遣うような方でした。彼女はこれまで、一度も結婚したことがなかったそうです。
麻痺がわずかにある彼女の着替えを手伝っているとき、その細い手が目に入りました。しわが深く刻まれた、どこか気品のある手。薬指には、指輪の跡なんてありません。
あ、たぶん未来の私だ。
不意に、そんな思いが頭をよぎりました。
何十年後かの私は、きっと彼女と同じように、病室のベッドの上にいるかもしれない。
パートナーも子どももいないただのひとりの女性として。
あのときの感覚は、恐怖だったのかな。それよりも「予感」と言ったほうがしっくりきそうです。
ひとりの人生を歩んできたAさんに、寂しさはありませんでした。それなのに、Aさんの姿に心を刺された気がしたんですよね。
「誰とも歩まない」と決めたのに、揺らぐ心
やっぱり、パートナーがいたほうがいいのかな・・・・・・。
夜、静まり返った病棟を巡回しながら何度考えたかわかりません。
私は、誰かを「特別に愛する」感覚が、正直なところよく理解できません。誰かと一緒に暮らしたいと心から願ったことも、一度もありません。
推察は出来ます。
この世には、これでもかと恋愛に関するコンテンツがあふれていますよね。テレビのバラエティ、ドラマ、動画、アニメ、漫画、小説。
子どものときからこうしたものに触れていると、嫌でも「恋愛とはこういうもので、人の心はこう動くんだ」とわかってきます。でも、私は自分のこととして受け止められない。そこに違和感がない。
ただただ、私はこうなんだな、という納得感だけがあります。
それなのに、病院で老いの現実を目の当たりにすると、自分の選択に自信が持てなくなる瞬間があったんです。
ひとりで生きるって、もしかして怖いことなのかも。
小さな虫のように足元から這い上がってくる不安に気付かないふりをして、患者さんたちに笑顔を向けるしかありませんでした。
アロマンティック・アセクシュアルが直面する、家族の声を「正解」とする現実
病院には、家族の声が求められる場面がたくさんあります。入退院の手続き、手術の同意、そして最期の瞬間について。もちろん、尊重されるべきは本人の気持ちです。家族がいなくても入院はできますし、治療も受けられます。独り身でも、サポートしてくれる制度があるし、その担い手もいます。それでも、血を分けた家族がいない。支えてくれるパートナーがいない。この事実には、向き合わなければなりません。
面会に来る家族がいない患者さんを前に、アロマンティック・アセクシュアルの私が考えたこと

午後の面会時間。病棟には面会のご家族が訪れ、食堂にはにぎやかな声が響きます。
「おじいちゃん、これ持ってきたよ」「おばあちゃん、来週はひ孫も連れてくるからね」
その声を聞く人たちの中には、面会に来る家族がいない患者さんたちもいました。
死別、離別、あるいは絶縁。面会に訪れる人がいない理由はさまざまです。患者さんはけろっとしていましたが、私は自分と、彼らを重ねずにはいられませんでした。
誰かと結婚して、子どもを育てて、家庭を築く・・・・・・そんな未来を、リアルに想像できずにいました。当時、40歳になるかならないか。まだアロマンティックやアセクシュアルなどの概念を知らないころです。
自分はひとりで生きるのが自然だし、楽しい。そう納得していたはずでした。
それでも、ひっそりとした病室でテレビを眺めている患者さんの背中を見ながら恐ろしくなったんです。
他人の家族の笑い声を、私はどんな気持ちで聞くんだろう、って。
「ひとりは寂しいよ」が、呪文のように胸を刺す夜
「あの患者さん、今日も面会なかったね。やっぱり、独り身は寂しいよ。あなたも今のうちにいい人見つけないと」
休憩室で、同僚にそう言われたことがあります。善意100%のアドバイスです。
「そうですねえ、なかなか難しいですよ」
私はいつものように、愛想笑いでその場をやり過ごしました。「寂しいよ」という言葉が、呪いのように感じられたのを覚えています。
世間では「家族がいること」が当然で、それ以外は「かわいそうな、寂しい状態」だと思わせる空気に満ちています。
私は誰かとパートナーになるのを望みません。むしろ、無理に誰かと一緒にいようとするほうが、負担を感じます。
それでも、ひとりでいる気楽さを孤独への不安が上書きしていく。
・・・・・・ひとりがいい。でもひとりで老いていくのは怖い気がする。
私は「家族の存在」が安心材料となる世界で、どうやって生き延びていけばいいんだろう。
つながらないアロマンティック・アセクシュアルは、社会の仕組みから取りこぼされる?
介護の仕事をとおして痛感したのは、社会の仕組みが「家族がいる」前提で作られている事実です。
たとえば、入院の手続き。病院に提出する書類には「保証人」「緊急連絡先」の欄があります。家族がいれば当たり前に埋まる欄ですが、ひとりで生きる人にとっては、苦々しく感じられるかもしれません。
もし今、ここで倒れたら、誰がこの書類を書いてくれるんだろう。
そんな疑問が、仕事中に何度も頭をよぎりました。
アロマンティックで、アセクシュアル。恋愛や結婚というルートからそれて生きる私は、法的にも「守られない存在」になるのかもしれません。
「対策をしなきゃ」という焦りは、常にありました。でも、なにをどうすればいいのか。
お金を貯めればいいの?
友達を作ればいいの?
それで本当にこの不安は消えるのかな。
どうしても誰かを愛せないアロマンティックの私に必要なのは、家族に代わる人たちとのつながりかもしれません。でも、まだそう言い切る自信をもてずにいます。
アロマンティック・アセクシュアルとして、答えのない未来を歩く
老後の準備や終活。私にも、身近な問題として迫りつつありました。今はまだ、答えを出せていません。その「難しい・わからない」を抱えて歩むのが私の人生かも? って思っています。
アロマンティックな今を生きるままでいい

病院で「家族のいない老い」を見てきた私ですが、今の自分が対策できているかと言えば、答えはノーです。今をどう生きるか。それしか考えていません。
老後資金を貯めているわけでも、強固なネットワークがあるわけでもありません。それどころか「明日倒れたらどうしよう」という焦りに、飲み込まれそうになります。
インターネットでよくあるライフハックの記事には「ひとりで生きるなら、今のうちにこう備えよう!」なんてアドバイスが溢れていますよね。でも、アロマンティックな私が抱える不安は、そんな物理的なことだけじゃないはず。
「誰とも関係を築けないのは、自分がおかしいからなのかも」
「恋愛感情を理解できないのは、人として大事なものが備わってないから?」
アロマンティックやアセクシュアルの人なら、けっこう何度もわき起こる思いじゃないかな。でも、介護の現場で多くの人を見てきて気づいたことがあります。
蓄えがあっても、家族がいても、生きるうえでの不安がゼロの人なんていませんでした。
だから、老い支度ができない自分でも、これはこれでいいかなと思っています。
自分がどういう人間かを考えて、受け入れて。それだけで、じゅうぶん過ぎるくらい頑張っているんだから。
おひとり様もきっと幸せ。温かなつながりさえあれば。
病院のベッドで過ごす患者さんたちのなかには、家族が毎日通ってきても、ずっと不機嫌な人がいました。逆に、誰も面会に来なくても、私たち職員との会話に声をあげて笑う人もいました。
幸せの形って、家族がいるってだけじゃないんだって、思うんですよね。
アロマンティック・アセクシュアルの私が恐れているのは、孤独死だけじゃないんです。
自分の存在が誰の記憶にも残らないこと、誰にも大切にされないこと。その怖さがつきまとっていることじゃないかなと。
私はよく言う「おひとり様」ですけど、友人も知人も、仕事でつながる人もいます。そんなにたくさんじゃないですけどね。
でも、それだけでも何となく、今日を安心して終えられる。そんな気がするんです。
アロマンティック・アセクシュアルな私たちが、自分らしく老いていくために

ひとりで老いる。その現実は、ときに重く心にのしかかってきます。介護現場の最前線で多くの患者さんを見てきた私は、簡単に「ひとりでも大丈夫だよ」なんて言えません。パートナーがいない人が抱える心細さ、周りの偏見。それはたしかに存在します。
けれど、こうも思います。
セクシュアルマイノリティである事実って、欠陥でも不幸の材料でもありません。
そして、恋愛感情をもたないアロマンティックや、他者に対して性的欲求を抱かないアセクシュアルの人たちは、そのぶんもっと自由に、もっと多様な「人とのつながり」を自分で選べる可能性がある。そんな気がしています。
未来が白紙のままでもいい。今の私が、あなたが、自分自身の味方でいられれば。
答えのない不安を抱えたまま、今日を生きる。その強さは、いつか足元を、行く先を照らす光になるはずだから。


