02 大きな栄光と小さな挫折
03 叶わなかった “ふたつ” の初恋
04 ゲイであることと消えない葛藤
05 責任感という重圧
==================(後編)========================
06 「優等生」からの卒業
07 最高のパートナーとの出会い
08 30歳。家族へのカミングアウト
09 亡き母がつないでくれた父との絆
10 誰かの幸せな未来のために
01繊細さとともに生きた子ども時代
“中間子” ならではの劣等感
「子どものころは、とにかく劣等感が強かったと思います」
「ひとつ上の兄と4つ離れた弟がいるんですけど、ふたりに比べていつも自分にだけスポットライトが当たってない気がしてました」
上と下にはさまれた “中間子“ ならではのよくある悩み。
当時の小川家教育方針はちょっと変わっていた。
「子どもたちのモチベーションをあげるために、毎月のお小遣いとは別に、ボーナス的な “ごほうび制” があったんです」
「ごほうび制は小学校の3年からスタートして、たとえば、毎年リレーの選手になれたら6年生のときにごほうび5千円、という感じ」
同様のルールは学業にもあって、学期末ごとの通知表で、どの教科でも評価がひとつ上がるごとに100円がもらえるシステムだった。
「野球とサッカーをやっていた兄と弟は毎年リレーの選手になりましたけど、僕はそこまでは届かなくて」
「僕は勉強するのは好きで兄や弟よりもできたので、最初から成績がよかったんですね。5段階中ほとんどの教科が4以上でしたから、そのぶん、分が悪くて(笑)」
そんな小川家ルールでは、兄や弟よりもらえるお小遣いは少なかった。
理不尽なジレンマ
あるとき、どうしても欲しいゲームがあって母に相談した。
「でも、家の手伝いをするならお駄賃をあげるから、貯めて買ってみたら」とアドバイスをされた。
母の代わりに買い物に行ったり、お風呂そうじをしたり。冬の朝に早起きして窓の結露をとったりと、手伝い仕事の幅は広かった。
「そうやって母からもらった10円〜50円のお駄賃をコツコツ貯めて、ようやく手にした3000円で、ゲームを買いました!」
ただ、ごほうびの単価が100円、1000円だった兄たちと、1回が10円単位の自分の差は、子どもながらに大きく違うと感じてもいた。
「親にも抗議はしませんでしたが、そんなことも劣等感の一部になってたのかもしれませんね」
常に家族のなかでどう動けば、どうすれば認められるのかを探し続けた少年時代だった。
バリアをはって生きてきた少年時代
小さな劣等感を抱えていたせいか、小さいころはとにかく人みしりな子だった。
「相手から話しかけてもらえればバリアをくずせるのですが、自分から話しかけて友だちを作るのがすごく苦手で」
「単純に、初対面の人に自分をさらけ出すのが怖かったんですね」
高校生までは、いつも誰かから話しかけてもらえるのを待っているばかりで、自分から声をかけて友だちを作ったこともなかった。
「運が悪いことに、小学校でできた親友たちのほとんどが、中学に上がる前に転校や引っ越しでいなくなってしまったので、そんな孤独感もあったのかなと思います」
ようやく殻をやぶることができたのは、大学生になってからのこと。
子どものころから嵐の二宮和也さんのファンで、ある日、テレビを観ていたときのことだった。
「どんな話のつながりだったかは覚えてませんが、人づきあいについて二宮さんが『目の前の人と一生つき合うわけじゃないし、相手を怖がっていても仕方ないでしょ』と、さらっと発言されていて」
「自分の日常の風景と重なって、あぁそうか、そうだよね! って、すっと気持ちがラクになれたんです」
人とのコミュニケーションで、物怖じなんてしなくていいんだと切り替えられたのはそのときだったと記憶している。
注目されたい目立ちたがり屋
葛藤はあったものの、本来の性格は “落ち着きのないお調子者“ 。
「人みしりのくせに、どこかで注目されたいとも思っていて」
「自発的にする勉強は好きだけど強制的にやらされる宿題が嫌いで、わざとやらずに学校へ行って先生に怒られてみたり、給食の時間に騒いでお尻を叩かれたり(笑)」
いま思えば “目立つための手段を間違えている目立ちたがり屋” みたいなアンバランスさだった。
「そんな僕に自信を与えてくれたのが、小4ではじめた吹奏楽でした」
02大きな栄光と小さな挫折
自信をくれた吹奏楽
「そもそもは幼稚園のころにピアノが習いたかったんですけど、父から『男がやるもんじゃない』と反対されて体操を習うことになって」
「体操は体操で得意だったし、まったく苦ではありませんでした」
しかし、吹奏楽をやりたいという思いがどこかで捨てられないまま成長していった。
「小3のクラブ活動で、念願のクラリネットに触れることができたときは本当にうれしくて、親に懇願してようやく習うことができました」
もともと探究心も強いタイプで負けず嫌いの性格だったこともあり、それからわずか3年でメキメキと上達。
「小学6年生のときには、東京都のコンクールで金賞を受賞するまでになりました」
そのころにはもう、ぼんやりと次なる夢が芽生えていた。
あっさりとついえた夢
「僕は楽器だけじゃなく歌も好きだったので、ぼんやりと芸能界に興味を持ちはじめたんです」
当時、子役タレントがさまざまなチャレンジをする『天才てれびくん』という教育番組があった。
「僕も挑戦したいと応募したところ、書類審査を通過してしまったんです」
ただ、いざオーディションという段になったところで「芸能の仕事は先がないと、お父さんがいってるから」と母に告げられ、辞退するハメに。
結局、その夢がついえたと同時に、あんなにがんばった吹奏楽も辞めてしまった。
母の手のひらで・・・
「後日談ですが、映像制作にずっと興味があった僕は、就職活動の前に父に『映像制作の裏方の仕事をしてみたいと思うんだ』と相談したことがありました」
父から返ってきた答えは意外なものだった。
「『ずっと思ってたんだが、お前は出演する側に興味はないのか』って」
「えっ? お父さん、昔、芸能の仕事は先がないっていってなかった? となって(笑)」
のちにわかったのは “お父さんがそういっているから” というのを口実に、母が息子たちをコントロールしていたらしいこと。
「母は面倒くさがり屋で飽き性、出不精でしたから、子どもについて行って面談を受けるのが嫌だったのかもしれません(笑)」
子どもに危ない橋を渡らせたくない。
そんな親としての愛情だったのだろうと、いまは思っている。
03叶わなかった “ふたつ” の初恋
親友にめばえたあわい恋心
初恋は、小学生時代をともに過ごした親友で、同級生の男の子だった。
「その子とは小1のころから仲がよくて、家もわりと近所。彼は頭もよかったし、運動神経もいい、いわゆる優等生タイプでした」
楽しく遊んでいるうちに、いつからか彼が憧れのような存在に変わり、気づいたときにはその子のことが好きになっていた。
「いま思えば、はっきりとした自覚もないくらいのあわい感情だったと思います」
6年間をともに過ごしたあと、彼は中学から私立へ。
卒業と同時に自然に会うこともなくなり、それっきりになった。
「親友たちと離れてしまったことで、お調子者だったわりに孤独感を感じることが多かったように思います」
思春期。女の子への片想い
進学した中学校では、卓球部に入部。
「同じ卓球部で一緒だった同級生の女の子に、普通に恋をしました」
その子には別の好きな男子がいることを知っていたため、3年間ずっと告白もせず、片想いをつらぬいた。
「一緒に学級員長を務めたり、卓球部ではその子が女子部の、僕が男子部の部長を務めていたので、ずっと仲はよくて」
「当時はそれだけで満足だったんです」
中学で女の子を好きになったことで、親友の男の子に恋心を抱いた小学校時代のことは自然と忘れていった。
「むしろ彼女への想いは、まわりの同級生たちにバレバレだったので、大人になって友人たちにゲイであることをカミングアウトしたあとは大変でした(笑)」
「『じゃあ、あのとき女子が好きだったのはどういうこと?』と聞かれて」
「あれはあれ、これはこれ」とその場をごまかした」
「実際、そうとしかいいようがないんですよね」
「当時は男性が好きという自覚もなくて、男女を問わず好きになった人が好きな人、みたいな感覚でしかありませんでしたから」
04ゲイであることと消えない葛藤
僕はゲイだ
高校では、1年の終わりごろに同級生の彼女ができた。
「同じ中学校出身の子だったこともあって、一緒にいても気をゆるすことができる存在で、この子が彼女でいてくれたら楽だなと思えて」
告白は自分からした。
「ただ、一緒にいたり恋人にはなれるけど、彼女に対してまったく欲はわかなくて」
「何もしない僕を不思議に思った彼女からは『そういうことしたくないの? 私に興味がない?』と、メールで詰められて・・・・・・」
「正直に『好きだけど、君だけじゃなく行為そのものをしたいと思わない』と答えると、私はそんな関係は嫌、っていわれました」
結局、それが理由で半年ほどたって別れてしまった。
でも、そのとき改めて気づいたことがある。
「まず、僕にとって女の子は恋愛対象にはなるけど性の対象にはならないこと。でも男性には欲がわくということです」
自分がゲイだという自覚をはっきり持てたのは、このときだった。
探しつづけた正解
ゲイだと自覚はしたものの、やはり葛藤は消えなかった。
「親だって、僕に結婚して子どもを持って欲しいと思っているだろうし、それならがんばって女性を好きになって、性の対象としてみられるように努力してみるべきか? とも考えました」
しかし、そんなことを考えている時点で、自然な気持ちじゃないことにも気づいていた。
実際、大学に入ってから、高校時代につき合った彼女とヨリを戻してみた。
「いまならいけるかもと思ったけど、やっぱりうまくいきませんでした」
05責任感という重圧
バランサーとしての責任感
「まず、自分が自分をしっかり受け入れることが大切だと、わかってはいたんです。
わかってはいながらも、どこかでまだ女性との可能性を探ってしまう自分がいて」
「高校に入学してから大学を卒業するまで、ずっと悩みつづけた葛藤の日々でした」
揺れうごく気持ちの裏には、まだ周囲にカムアウトできていない現実や、調和を守らなければという責任感が大きかった気がしている。
「父からは『お前は家族のバランサーだ』といわれて育ってきたので、自分でもずっと調和役を自覚して、そうふるまっていたと思います」
苦ではなかった重圧
思い返してみれば、中学校では学級委員を2年半。部活でも部長だった。
高校に入ってからはバレーボール部の部長に。
大学に入るとサークルの責任者になり、アルバイトでもリーダーを任された。
「そういえば、いまの職場でも管理職です(笑)」
学生時代からずっと、責任感ある役回りを任されてきた過去がある。
「いつしか自分でも、そのほうが楽になってた気がします」
そんな優等生的な思考や立ちふるまいから解放されたのは、社会人としていくつかの職を経験したあとに働いた、温泉街での仕事だった。
<<<後編 2023/11/04/Sat>>>
INDEX
06「優等生」からの卒業
07 最高のパートナーとの出会い
08 30歳。家族へのカミングアウト
09 亡き母がつないでくれた父との絆
10 誰かの幸せな未来のために