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ゲイと自認したときの葛藤も過去の悩みも、僕の誇れるアイデンティティ【後編】

ゲイと自認したときの葛藤も過去の悩みも、僕の誇れるアイデンティティ【前編】はこちら

2023/11/04/Sat
Photo : Miho Eguchi Text : Akane Tanaka
小川 祐太 / Yuta Ogawa

1989年、東京都生まれ。3人きょうだいの次男として生を受け、幼少期から自身のセクシュアリティを自認するまでに、心身ともにさまざまな葛藤や挫折を体験。2011年に起きた東日本大震災の影響で就職活動は暗礁にのりあげるも、好奇心をバネに天職を求めて奮起。現在は企業の採用サポートを担うコールセンターで、あらゆる世代の仕事の悩みに日々寄り添っている。

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INDEX
01 繊細さとともに生きた子ども時代
02 大きな栄光と小さな挫折
03 叶わなかった “ふたつ” の初恋
04 ゲイであることと消えない葛藤
05 責任感という重圧
==================(後編)========================
06 「優等生」からの卒業
07 最高のパートナーとの出会い
08 30歳。家族へのカミングアウト
09 亡き母がつないでくれた父との絆
10 誰かの幸せな未来のために

06「優等生」からの卒業

知り合いのいない街で

いくつかの職を経て、群馬県の温泉地で働くことになったのが、ちょうど24歳のころ。

誰も知り合いがいない土地。ここなら何でもできると吹っ切れた。

「恋人が欲しくて、ネット上の掲示板をのぞくようになりました」

人に勧められるままにマッチングアプリを利用するようになり、25歳で出会った男性とはじめてつき合うことに。

「いまだからいえますが、25歳でのデビューは、本当に波瀾の幕開けでした(笑)」

出会い系サイトの沼へ

知らない土地で開放的になってはいたものの、最初はどのように相手を探せばいいのか手探りだった。

「出会い方すらわからず、まず課金制の出会い系サイトに入ってみましたが、口車に乗せられて10万くらい課金させられてしまったんです」

「いま考えればわかりやすいフィッシング詐欺でした」

当初はそんな知識もなく、疑うことなくお金だけを巻き上げられていった。

「次も証券マンを名乗る人にまただまされて、お金を渡してしまったんです」

そんなさなか、実家から弟の学費が足りないと相談を受けた。

「当時、兄は休職中で、きょうだいの中で働いてたのは僕だけでしたから、僕がなんとかしなければと思ってしまって、キャッシングを重ねました」

タイミングが悪いことに、ときを同じくして今度は外国人とアプリで知り合う。

「いまでいうロマンス詐欺のハシリ。連絡を取り合ううちに『結婚したい』なんて話をされて舞い上がり、まんまと引っかかってしまいました(苦笑)」

つぎ込んだ総額は50万円ほどだった。

「さらに生活費などもかさんで借金が膨れあがり、債務整理できれいにするしかありませんでした」

その後、しばらくは自暴自棄になる。

「彼氏欲しさに遊びを繰り返し、とにかく心も体もボロボロのすさんだ数年間でした」

07最高のパートナーとの出会い

僕を救ってくれた彼との出会い

「すさんだ時期を過ごした当時の僕は、自己否定感が強く、かなり厄介だったと思います」

そんなときマッチングアプリで出会い、すべて知ったうえでつき合ってくれたのがいまのパートナーだ。

「過去の恋愛でのネガティブ思考をすべて払拭してくれて、もう一度自分に自信が持てるようになったのも、全部彼のおかげです」

「それまでは、こんな僕とは一夜の相手をしてくれる人はいても、つき合ってはくれないんだろうと思ってたし、だとしても相手をしてくれるなら誰でもいいや、というくらいひどい精神状態でしたから」

過去に何人かつき合ってきた男性はいたけれど、理想のデートはできなかった。

「昼間にデートをしたりご飯を食べに行ったり、楽しく会話をしたり。普通の恋人同士がすることをしたかったのに、実際はみんな夜に会ってセックスするだけの関係でしかなくて」

そのせいで、現在のパートナーのことも、最初は疑ってかかっていた。

「でも予想に反して彼は『次の休みは○○に出かけよう』と行き先を考え、調べて誘ってくれる人。念願の昼デートも普通のことになりました」

理想のデートを体験して

彼とのデートは最初から楽しかった。

「はじめて会った日の帰宅後に『ずっとこのままつき合っていけたらいいね』と正直な気持ちをLINEすると、『そういうことは面と向かって伝えて欲しいから、また会おう』と返ってきたんです」

付き合ってはじめてのデートも楽しめた。

「まずスカイツリーへ行って、水族館を回って。その後に『行きつけのバーを紹介したいから一緒に行こうよ!』といってくれて」

この彼となら恋人としてつき合っていけると、初めて思えた相手だった。

「趣味だって『ドラクエウォーク』以外は全然合わないんですけど(笑)、むしろ一緒の時間はずっと楽しくて居心地がよくて。この感覚はもう、家族だな、と思って」

同棲に向けた準備に入るまで、そう時間はかからなかった。

「彼は彼で僕を支えたいといってくれるし、僕は僕で彼のことを幸せにしてあげたいと思っていて」

「自己完結していたいままでの毎日とはずいぶん変わったと、自分でも感じてます」

出会う人によって、人生は大きく変わることを実感した。

「よく “誰かのために“ とか、守らなくてはいけない人がいることで力が出るっていいますけど、いまはそういう感じなのかなと思ってます」

08 30歳。家族へのカミングアウト

まず兄と弟へ

「いつかは伝えなければと思っていながら、なかなかできなかったのが家族へのカミングアウトでした」

「ちょうど僕が30歳を迎える年に、ひとつ上の兄の結婚が決まって、初めて男きょうだい3人で飲みに行って」

そのとき、弟にもつきあっている彼女がいたこともあって、話の流れが自分に向く。

「お前はどうなの?」

「これはいまが話すべきタイミングだなと思って、気づいてるかもしれないけど、俺ゲイなんだって伝えると、弟の反応は『うん、何かわかってたわ』。お兄ちゃんは『あ、そうなの?』という感じでした」

わりとサラッと受け入れてもらえたことに安心した。

乱暴すぎた両親へのカミングアウト

「両親には、ちょっと乱暴なカミングアウトになってしまって(笑)」

兄弟へのカミングアウトから半年たったくらいのときだった。

「当時、弟はすでに実家を出ていたので、両親との実家暮らしはすでに僕だけという状況でした」

ある晩、父が酔って帰ってきて、ささいなことで母とケンカがはじまる。
仲裁に入るつもりで階下へ降りていったときには、お金の話に発展していた。

「そこでついイキって『俺も30にもなって、いつまでも実家暮らしですいませんねー』と割ってはいったんです」

そのとき『あなたは将来がある身なんだし、いま無駄づかいなんてしなくていいよ』と母に肯定されたことで、逆に火に油を注がれた気がした。

「勢いあまって声をあらげてしまったんです」

「将来もクソもねぇわ! 俺ゲイだからさ、兄ちゃんたちみたいに結婚して子どもを持って、なんていう将来像なんかないんだよ。もう俺も、家出てほそぼそとやっていくから、ふたりで少しでも余裕ある生活すればいいじゃん!」

いずれ時期をみて、ゲイであることを話そうと思っていた。
それなのに、なかば怒りにのせてカミングアウトしてしまった。

「瞬間、父はかるめのフリーズ状態でしたけれど、母は母親のカンというのか、やはり何となくそう思っていたふしがあったようで、翌朝『あんな形じゃなく、本当はもっとちゃんと話したかったよね』と、申し訳なさそうにいわれました」

息子のカミングアウトに改めて向き合うことになり、母もその夜は眠れなかったと、あとから聞いた。

「母はその後、ずっと味方でいてくれました」

当時の話を父からも聞いた。

「僕が家を出たあと『あいつは大丈夫なのか。ゲイだということをお前はどう思っているんだ』と父が問いただしたようですが、そこはもとより気が強い母のこと」

「『何の問題があるの? 犯罪を犯したわけでもないし、道を外れることもなく真っ当に働いてるし、ただ男の人が好きっていうだけでしょ』と、いってくれたそうです」

頼もしい家族のささえ

みんな自然に受け入れてくれたけれど、とくに義姉の言葉は心に残っている。
父の葬儀よりも前に、義姉が兄に伝えた言葉だった。

「この多様性の時代、セクシシュアルマイノリティのことを娘たち(僕の姪っ子たち)に、どう説明したら良いのかわからなかったけど、すぐそばに祐太くんたちがいてくれることで、それが自然なことなんだと教えてあげられると思う。きちんと話してくれてうれしいよ」

きょうだいの家族に直接話すことができたのは、2023 年6月。
亡くなった母の葬儀のときだった。

本当に周りの人たちに支えられているという実感が深まった。

実は、母が他界する2日前、家族全員への思いを遺言のように託された。

「そのときに、この姪っ子たちのことも話題にのぼっていて・・・・・・」

「母は『あなたは子どもを授かることはできないけれど、叔母があなたたちをとても可愛がってくれたように、今度はあなたが姪っ子たちにたっぷりの愛情を注いであげる番よ』と」

叔母というのは母の妹で、国際結婚をしていまはアメリカで暮らしている。

「子どもがいなかったので、甥にあたる僕たちきょうだいに、それはもうたっぷりの愛情を注いでくれました」

「僕も姪っ子たちがとても可愛いくって仕方ないんです」

だからこの “遺言” と温かいおもいを、しっかり守っていこうと思っている。

09亡き母がつないでくれた父との絆

母という存在の大きさ

「いま僕が自分らしく生きられてる根底には、やはり母の存在が大きいです」

母はサバサバした男みたいな性格だったので、まるで男5人家族のようだった。

「きょうだいのなかで、性格や思考は僕がいちばん母に似てました」

母は物理や宇宙科学が好きで、ちょっとすっとんきょうなところがあった。

「探究心が強いんだけど、ちょっと話の次元がズレてる面白い人でした」

いちばん記憶に残っているのは、子ども相手に語る “ゼロと無の違いについて”。

「家族はみんな『コイツ何いってんだ?』みたいな反応(笑)。でも、僕だけがただひとり『それどういうこと?』と熱心に聞いてた感じでした」

「僕と母は、ウマがあうというか、好奇心が強いところが似ていたんだと思いますね」

病魔とのたたかい

天国に召されるまでの10年ほど、母はとにかく病気とのたたかいだった。

最初にわずらったのはバセドウ病。それからてんかんの発作が始まる。
その後、足の指に癌が見つかって指を切断。
さらに心臓にペースメーカーを入れる手術。
ようやく落ち着くかと思ったら、今度は腎不全になって透析生活に。

「そのうちに体が透析に耐えられず、父から腎移植も受けたんですけど、おもわしくなくて‥‥‥」

普通なら手術を受けるたびによくなっていくはず。
しかし、入院や手術を繰り返すたびに、また新たな病魔が見つかってきた。

「最後の2年くらいは、本人もいちばんしんどかったと思います」

「10年ものあいだに入退院を繰り返すなか、今度こそダメなんじゃないかという状況を何度も乗り越えてきた人なので、家族はみんな “今回もなんとかがんばって欲しい”
と願ってたと思うんですよね」

でも最期の2日間、母についていてその苦しみを見てもきていた。

「何度も何度も、誰よりもがんばって病気とたたかってきて、泣きながらもう辛い、死にたいよという母に対して、それ以上がんばれなんて残酷なことはいえなくて」

「そうだよね、もうがんばらなくていいよ、と寄り添うことしかできませんでした」

母が旅立ったのは、その翌日のことだった。

父という理解者

母が他界したあと、僕と父の関係性は深まった。

どちらかというと、両親は夫婦仲がよくないんだと思っていた。

「でも母が亡くなったときに、泣きくずれていた父を目の当たりにして、ちゃんと母のことを好きでいてくれたんだなと、少しほっとしたんです」

その夜、初めて父親とふたりでお酒を飲んだ。

「すると開口いちばん『お前はいま幸せなのか?」と聞かれて。自信を持って『うん、幸せだよ』と伝えると『そうか、それを聞けただけで十分だ』と」

さらに葬儀に際しては、「いまつき合っているパートナーをちゃんと連れてきなさい、供花もふたりの連名で出せばいい、家族なんだから」といってくれた。

「カミングアウトしてから、なんとなく一方的に父との間に距離を感じていたんですけど、
陰ではちゃんと認めてくれてたんだとわかって。うれしかったですね」

「『母親が命をはって、俺とお前たちをつなげてくれたんだな』という父の言葉に、
胸が熱くなりました」

母からの贈りもの、母への贈りもの

母が亡くなってから少し経ったいまでも、まだ気持ちの整理はついていない。

「いまでも、仕事が休みの日に母を見舞いに実家に帰っていた習慣が抜けないんです」

だからいまはとにかく、生前、母にしてあげられなかったことを時間が許す限りしてあげたいと思っている。

「僕には母から受け継いだ手先の器用さという贈りものがあるので、手始めに、昔やってたピアス作りを再開してみるつもりです」

「ちょっと外国かぶれで、洋服作りやおしゃれが好きだった母のために、骨壷に入れるピアスと、家の中の “お母さんコーナー” に飾るピアスをプレゼントしたいんです」

10誰かの幸せな未来のために

人に共感できる人でありたい

現在は企業の採用サポートをおこなう会社に在籍し、コールセンターで日々電話を受けている。
電話相談の内容は、夏休みのアルバイト応募から定年退職後の職探しまで。

「とにかく内容も年齢層も幅広く、クレームの電話もよくかかってきます」

「でも、勤めて6年、いまではどんなに熱量の高いクレーム電話を受けていても、その状況を達観している自分もいて。この仕事をストレスに感じることはあまりないんです」

むしろ最近では、クレームの電話だったはずなのに、最後には電話口でお客様と笑いあっていたりする様子を、同僚に不思議がられることも。

「僕はどんな相手であっても、できるだけ共感したり同調する気持ちを持って接するようにしてます。それがいい方向に転んでくれるとうれしくなりますね」

過去の失敗も糧に

社会人になりたてのころは、職場でパワハラを受けることがあった。就活で挫折したり、大怪我をしたりと、振り返れば仕事では苦労が多かったと思う。

「だからこそ、仕事を探している人たちの気持ちがよくわかるんです」

「パワハラまがいなことを受けても、社会人としての身だしなみもマナーも教えてもらったし、温泉地での仕事はコミュニケーション能力が磨かれたし」

飲食店や印刷会社でも、それぞれに得られたものがあったと自負している。

父からもいわれた言葉がある。

「お前は人より多く転職してきているけど、その時々で必要だったことや得たものがちゃんと吸収できてるからすごいと思う」

認められたことが、単純にうれしい。

いつか、自分の名前の由来を母に聞いたことがある。

「祐太の “祐“ は『たすく』とも読む。弱きをたすける、という意味よ。右を示す、つまり正しい道を示す人になって欲しいというおもいも込めて」

いま改めて、親の願いをかみしめている。

「この先の人生、僕自身も母が願った生き方がしたいんです」

「だからコールセンターの仕事では、より多くの人が天職と思える仕事とめぐりあえるように、これからもできるだけの手伝いをしたいと思ってます」

苦労してきた過去があるから、いまがある。
誰もが目指す明るい未来に、胸をはってそういえるように。

あとがき
お母様が他界したあと、続けてお祖父様も見送ることになった祐太さん。しかしご報告のメッセージには、ポジティブな方向へ行動しようとする言葉が散りばめられていた。大切な人を失った悲しみを、時間が少しずつ癒してくれるといい■仕事では喜怒哀楽を感じる場面が多くある。疲れてしまうことも、うれしいことも。過ごしてきた時間をどう解釈するかで、やりがいが変わってきそうだ。それは自分を励まし、自分の背中を押せる祐太さんの腕前でもある。(編集部)

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