INTERVIEW
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たかがセクシュアリティで、大きく人生は変わらない【前編】

「はじめまして! カンパーイッ!」から始まった今回のインタビュー。佐野祐太さんはビールをクイッと飲み干したあと、店員の女性に笑顔で「キウイモヒートとパインモヒートと、どっちがオススメですか?」と訊き、オススメだというキウイモヒートを注文した。清々しいくらいに快活で奔放。その勢いそのままに、いくつもの障壁をひょいひょいと乗り越え、今を生きている人。そんな佐野さんの言葉を、皆さんに届けたい。

2018/06/12/Tue
Photo : Rina Kawabata Text : Kei Yoshida
佐野 祐太 / Yuta Sano

1986年、神奈川県生まれ。18歳で自分はバイセクシュアルかもしれないと気付いたが、19歳でゲイだと自覚、文化服装学院に通いながら新宿二丁目のゲイバーでアルバイトを始める。卒業後は、コールセンターの仕事や飲食店数軒で経験を積み、現在では店長としてバーを切り盛りしている。

USERS LOVED LOVE IT! 26
INDEX
01 少女漫画のモテ男子のように
02 母がくれたアメとムチ
03 オカマって誰のこと?
04 初恋の相手は年上の女性
05 バイセクシュアルかもしれない
==================(後編)========================
06 「おたくの息子、ゲイでした」
07 100%の理解は無理
08 口に出さなきゃ伝わらない
09 自死を選ぶなんてもったいない
10 離島で人生をエンジョイしよう

01少女漫画のモテ男子のように

“よい子キャラ” を演じて

父と母、そして2つ年上の姉がいる4人家族。

生まれた時から現在まで、ずっと家族4人で暮らしてきた。

そして外では、いわゆる “よい子”。

勉強はできる方がいいし、スポーツは積極的に取り組んだ方がいいし、率先して大人を手伝う方がいい。

そうすれば叱られることもないだろうし、友だちとも上手くやっていける。

「あざとい子どもだったと思います(笑)」

「姉が読んでいた少女漫画に出てくる男子みたいになろうと思っていました」

頭脳明晰な優等生、もしくはスポーツ万能なアスリートタイプ。

少女漫画の世界では、モテるのはいつだって “よい子”だった。

「この先生にはこういうキャラで、親戚にはあのキャラで」

「親戚のなかでも、このおばちゃんにはこう、あのおばあちゃんにはこう、といった感じで(笑)」

「自分のなかでキャラを設定し、演じていました」

しかし、その状態が窮屈だと感じたことはなかった。

ごく自然に、周りからかわいがられる方法を見つけて実践していたのだ。

かわいい容姿も活用して

“よい子キャラ” を演じるには、その容姿も役に立った。

「姉は父親似だったんですが、母親似の僕は、二重の猫目で、唇が薄くて口角が上がっていて、いつも微笑んでいるような顔で」

「母も『うちの子、かわいいんですよ』なんて言ってました(笑)」

「しかも姉はふっくらしていたけれど、僕は痩せてて」

「だから、親戚からは『女の子は痩せてた方がいいし、姉弟で性別が逆だったらよかったのにね』なんて言われることがありました」

姉には、弟ばかりが可愛がられることから嫉妬心があったのだろうか。

大病を患ったことがきっかけで、わがままが増長され、弟にきつく当たることもあった。

「今は回復したんですが、病気の頃はパシリ役にされていて」

「姉が『ヨーグルト食べたい』と言ったら、僕が近所のスーパーやコンビニに買いに走ったりして、本当に嫌でした(苦笑)」

「それでも一緒に暮らしているので、話もするし、たまに母を交えて飲みに行くこともあります」

両親としては、決してえこひいきをしているつもりはなかったはず。

晩婚だったこともあり、ふたりとも大切に育てられたのは間違いない。

嫉妬があっても喧嘩をしても、一緒に暮らしてきた。

姉と弟が付かず離れずの距離を保ちながら、今も一つ屋根の下で過ごせているのは、やはり家族の間に愛があったからだろう。

02母がくれたアメとムチ

家庭を守る強くて元気な母

「父は仕事の関係で出張が多く、僕が生まれて半年経ったくらいから、イギリスと日本を行ったり来たりで」

「たまに帰ってきても、大人の男の人が怖かったのか、父が抱っこをしようとすると大泣きしちゃっていたらしいです(笑)」

住んでいた団地は、父の勤め先の社宅。

他の家族も同じように、父親が出張がちな家庭が多かったため、団地内で大人の男性に出会うことは少なかった。

父に対する人見知りは、3歳になる頃まで続いた。

それでも、徐々に懐いていった自分に、父は優しく接してくれた。

そして、イギリス赴任が終了するまでの10年間、家庭を守っていたのは母だった。

「しつけには厳しい方だったと思います」

「特に、家族で一緒に食事をとることをとても大切にしていました」

「家族揃って朝ごはんを食べないと出掛けられないし、夜ごはんも必ずみんなで食べていました」

父が帰ってくる日の食事は、必ず父を待つこと。

毎朝、必ず学校に行くこと。いくつかの “絶対のルール” があった。

たまにこちらが「ウルセェな」と反論しようものなら、平手打ちや飛び蹴りが飛んできた。

母への恐怖心から水嫌いを克服

そんな母にまつわる、幼い頃の恐ろしい思い出がある。

海で沖に流されたことや、お風呂で溺れたことから、すっかり水が怖くなってしまっていた2歳か3歳の頃。

「このままではいけない」と思った母が、水に慣れさせるためスイミングスクールに入会させたのだ。

「でも、水に入りたくなくて、スクールに行ってもトイレに閉じこもっていました」

「それを聞いた母から、ものすごく怒られて」

「プール同様、お風呂も嫌いだったので、『ずっとお風呂に入れるよ!』と言われて、漏らしそうなくらい怖かった(笑)」

水も怖いけど、母も怖い。

そして結局、母に対する恐怖心の方が勝り、ちゃんとスクールにも通うようになり、泳げるようにもなった。

「高校生の時に、友だちと遊んでいて朝帰りした時にも、玄関で待ち構えていた両親からかなり怒られましたけど、それよりも怖かった」

しかし、何でもかんでも恐怖によって従わせようとする母ではなかった。

食べず嫌いのものがあっても、無理やりに食べさせるのではなく、まずは一度食べてみて、どうしても無理だったらそれ以上強いることはなかった。

そして何より、常に「うちの子、かわいいんですよ」という想いが先にあったはずだ。

そんな母の絶妙なアメとムチにより、身体的にも精神的にもたくましく育っていった。

03オカマって誰のこと?

僕はカルーセル麻紀じゃない

幼い頃は、年齢も性別も問わず、当時住んでいた団地の子どもたちでみんな一緒に遊んでいた。

小学校に入ってからも男女の区別なく、いつもグループで遊んでいた。

女の子の家に遊びに行くこともあった。

しかも、男子にしては声が高く、よく女の子に間違えられていた。

そのため、グループに入っていない男子から「お前、ほんとは女だろ、オカマ!」とからかわれることがあった。

「でも、ぜんぜん気にしてませんでした」

「オカマってカルーセル麻紀とかピーターみたいな人のことだと思っていたし、僕とは違うし、誰のこと言ってんだろうって感じで」

しかも、友だちとして付き合っていない相手から投げつけられる言葉は、あまり心に響かなかった。

自分のことをよく知らないだろうし、相手のこともそんなに知らないし。

何を言われても気にならなかった。

「でも、その男子から首を絞められた時は、絞め返しましたけどね」

「ある日、クラスの一部から集団でシカトされた時も、へーって感じで」

「だって、そんなのくだらない。まったく興味なかったんです」

クラスには他に仲のいい友だちがいたし、家に帰れば団地の友だちがいた。

たとえ誰かから敵意を向けられたとしても、誰かからは必ず救われた。

絵を描く楽しさ

それに、友だちと遊ぶ以外にも夢中になれることがあった。

それは、小学校4年生から始めた油絵。

写真を見ながら景色を描いたり、思うままに色を重ねて抽象画に挑んだりもした。

「すっごく楽しかったです」

「油絵教室で描いている絵以外にも自宅用にキャンバスを用意して、家でも描いていました」

高校を卒業するタイミングで、教室に通うことは辞めてしまったが、絵は描き続けた。

そして、進学した服飾の専門学校でもデザイン画を描いていた。

「洋服を描くのも好きでした」

「趣味の延長に授業があるみたいで、授業自体もとても楽しかったですね」

実は、中学生時代は陸上部に所属していた。

子どもの頃から水泳や陸上などスポーツに励み、さらには油絵も嗜む。

友だちとの遊びの他、部活に趣味にと充実した青春時代を過ごした。

04初恋の相手は年上の女性

執着することのない恋愛

32歳の今、性自認は男性であり、性的指向も男性だが、初恋の相手は女性。

優しく接してくれた幼稚園の先生だった。

母は優しいが厳しい時はとても厳しかったし、団地に住む友だちの母親たちも、自分の子でなくとも叱る時は容赦なく叱った。

「ひたすら優しくて甘えさせてくれる、初めての女性だったんです」

「それだけで『もうスゴイ好き!』となってしまいました(笑)」

甘えさせてくれるから好き。

では、手をつなぎたいとか、独り占めしたいとか、相手に対する好意が溢れ出した経験は。

「ないんですよ。この人じゃなきゃダメって思ったことがなくて」

それが自分の欠陥なのでは、と思うこともあった。

「周りの友だちから『あいつお前のこと好きなんだって』と言われて、せっかく好きでいてくれるなら、自分もその子を好きになれるかもと思ったり」

「それで『告ってみなよ』と言われて、素直に告白したりとか(笑)」

でも、相手に対して執着することはなかった。

一番大切なのは自分

「手をつなぐ相手は誰でもいい」

「キスも、したいって言われたら『どうぞどうぞ』って」

「どちらも、そんな大事なことだと思ってないのかも」

何より、恋人という特別な関係は、いつかは壊れるものだと思っていた。

「だったら恋人になるよりは、友だちとしてずっと一緒にいたい」

お互いの一番であることを常に確認し合うよりも、会いたいと思った時にだけ時間を共有できるような、気軽な関係の方がよかった。

会いたい時は自分から会いに行くし、相手に別の予定があったら、他の誰かと会えばいい。

「恋人には自分の予定を全部言わないといけないとか、なんでも優先しなきゃいけないとか、自分には無理」

「だって、一番大切なのは自分だから」

「僕は自分が好き」

あらゆるものに対して、自分を軸として考え、ぶれることがない。

相手に依存も執着もせず、自らの責任の範疇内で自分が思うように生きる。

それは、処世術のひとつとも言えるだろう。

05バイセクシュアルかもしれない

トイレの個室に連れ込まれて

「小学生の時も、お付き合いまではいかなくとも、女子と恋愛ごっこをしていたし、中学生の時は彼女もいました」

同じ陸上部の女子部員。「好き」と言われて付き合いだした。

手をつないだり、唇が触れるくらいのキスをしたり、交換日記をしたり。

楽しい反面、面倒に思うこともあった。

「彼女から『私のことなんて、別に好きじゃないでしょ』って訊かれて」

「そんなことないよって3回言っても聞いてくれなかったから、その子とは別れることになってしまいました」

さらに、高校に入ってからも数人と付き合った。

初体験も済ませた。

そんな18歳の頃、青天の霹靂ともいうべき出来事があった。

「学校に向かう電車の中で、こっちをすっごい見てくるおじさんがいて」

「駅で降りて、トイレに行ったら、付いてきたんです」

用を足している最中、腕を掴まれ、個室に連れ込まれた。

「やられちゃったんです・・・・・・」

「まぁ、こっちも下半身が出ちゃってるし、あとで洗えばいいやって」

「それよりも3000円を渡されたことが衝撃で」

「3000円で買われた! すごい安い! って(笑)」

男同士のセックスについては、ネットなどで知ってはいた。

それが自分の身に起こったことに驚いた。

しかし、それ以上に驚いたのは、自分が男性ともセックスができたという事実だった。

バイセクシュアルだからか、タチだからか

「自分は女性とも男性ともできるし、バイなのかもしれない」

その予感はあった。

「今までも、お尻を揉まれたりとか、男の人から電車の中で痴漢行為をされたことがあって」

「筋肉質だから、お尻が固くて申し訳ないな、と思いながら揉まれていました(笑)」

「あと、自分が男性を好きだという自覚はなくても、ボディビルダーの体とか、筋肉を見るのは好きでした」

トイレでの出来事に驚きはしたが、男性との初めての行為は嫌ではなかった。

それどころか、自分の体は売れるのだと妙に納得した。

「おじさんにもらった3000円は、友だちに事情を話して、一緒に中華料理店でパーッと使いました」

友だちの反応も、「手はちゃんと洗った?」「食欲なくすから詳しく言わなくていいよ!」と深刻なものではなかった。

自分にとって、その出来事は隠すほどのことではなかった。

「さっきハンバーガー食べた」と報告するのと同じで、「さっきトイレでおじさんに・・・・・・」と話した。

「もちろん、話を聞いた友だちが引いてしまったら、それ以上その話は絶対にしなかったと思いますよ」

女性とのセックスにも違和感はなかった。

それは自分がバイセクシュアルだからなのか、タチだからなのか。

その頃は、そんな風にぼんやりと考えていた。

<<<後編 2018/06/14/Tus>>>
INDEX

06 「おたくの息子、ゲイでした」
07 100%の理解は無理
08 口に出さなきゃ伝わらない
09 自死を選ぶなんてもったいない
10 離島で人生をエンジョイしよう

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