INTERVIEW
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レズビアンでも人見知りでも、生きていれば何かを成し遂げられる。【前編】

さっぱりとした笑顔とカラッとした話しぶりに、長年バスケットボールを続けてきた長屋友美さんらしい爽やかさがある。初対面とは思えない人当たりの良さだったが、「昔は極度の人見知りだったんです」とのこと。自分自身を受け入れて心の扉を開き、今のように笑えるようになるまでには、どのような経験があったのか。たっぷり語ってもらった。

2022/02/16/Wed
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ryosuke Aritake
長屋 友美 / Yumi Nagaya

1987年、長野県生まれ。5人きょうだいの4番目に産まれ、幼い頃に両親の地元である愛知県に引っ越す。小学生の頃にバスケットボールにのめり込み、中学、高校と続け、大学進学とともに社会人クラブチームに入る。28歳の頃、1年間のオーストラリア留学に赴き、帰国後に上京。2021年1月にLGBT当事者支援を行う会社Suns upを立ち上げ、代表取締役として事業を推進している。

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INDEX
01 私が会社を立ち上げた理由
02 いつでも自由にさせてくれた家族
03 幼い頃に灯った心の火
04 ないかもしれない “好き” の感情
05 受け入れられないレズビアンの自分
==================(後編)========================
06 バスケが導いてくれた出会い
07 誰も知らない土地で学んだ “心の解放”
08 ようやく受け入れられた自分自身
09 家族にカミングアウトをしたワケ
10 私の目標は “全力で生き抜くこと”

01私が会社を立ち上げた理由

逆境が育んだ自立心

コロナ禍真っ只中の2021年1月、会社を立ち上げた。

「誰にも頼らずに生きていかなきゃいけない、ってずっと思ってたので、自立しようという思いは昔からあったんです」

レズビアンという性的指向が、世の中の “普通” と異なることは、学生時代から漠然と感じていた。

家庭を築くイメージが持てず、好きな人と一緒にいてもその先の未来を想像できなかった。

「ただ、20代後半で行ったオーストラリア留学がきっかけで自分を受け入れられて、将来も前向きに考えられるようになったんです」

「そして、誰かの役に立てる人生を送りたいと思って、会社を作りました。もともと自立心もあったので、起業という選択にためらいはなかったです」

つまずいたから見つけられたもの

起業をする直前、精神的に疲弊する時期があった。

「3年くらいコールセンターで働いていたんですが、働きすぎたのか、メンタルをやられてしまって・・・・・・」

異変に気づいたパートナーが、「そんな思いまでして続けなくていいんじゃない?」と声をかけてくれた。

「パートナーがいなかったら、そのまま働き続けて、心が折れちゃってたと思います。パートナーの言葉があったから、仕事を辞めて、最悪の状態を避けられました」

2週間ほど家にひきこもり、ケータイを見て過ごす日々。
その期間でいままでの自分を取り戻し、次の道を考え始める。

「そのコールセンターは、起業のノウハウや営業の手法も教えてくれるところだったんです」

「私も基本的なところは学んでいたので、また就職するよりも会社をやった方がいいかもしれないって」

一度決めたら、そのまま一直線に突っ走るタイプ。

起業のための資金を作るため、早朝のバイトを始め、知り合いの仕事も手伝った。

「2020年5月に仕事を辞めて、2021年1月に起業したので、早かったですね」

「会社を作っちゃったらやらざるを得ないので、勢いで始めちゃった感じです(笑)」

LGBT当事者のための居場所作り

現在の事業は、LGBT当事者に向けたウェブサービスが中心。

「これからアプリを出す予定で、コロナ禍が落ち着いたらオフラインのイベントも計画していこうかな、って考えてます」

当事者の気持ちの段階に合わせて、居場所作りを行っていきたい。

「私自身、自分のセクシュアリティを受け入れられなかった時期と、受け入れて未来が見えるようになった時期があります」

「受け入れられない時期に『もっと未来を描こう』と言われても、そうなれないと思うんですよね。だから、その人の状況に応じて、それぞれの居場所を作っていきたいんです」

共通の話題で集まるコミュニティサイトだけでなく、スキルシェアのサイトも準備している。

「未来が見えていて、誰かの役に立ちたい、という人が活躍できる場所も作りたいです」

「自分の経験をもとに、こんな場所があったら良かったというものを、形にしていくイメージですね」

02いつでも自由にさせてくれた家族

5人きょうだいの4番目

生まれは長野県、育ちは愛知県。5人きょうだいの4番目に産まれた。

「上の兄2人は歳が8~9個離れているので、一緒に遊んだ記憶はあんまりないんですよ」

「3歳上の姉と4歳下の弟は歳が近い分、結構ケンカもしてたし、3人きょうだいの感覚でした」

親が言うには、「友美は1つのことを始めたらずっと続けてる子」だったそう。

「1人でひたすらボールをついてたり、ノートに横線を引き続けてたりしてたみたいです」

「何か与えておけば、集中してずっとやってるから、お母さんは『ラクだった』って言ってました(笑)」

いつも応援してくれた母

母は5人の子どもを育てながら、働きにも出ていた。

「私が小学生になるくらいまでは、ファミリーレストランでパートしてました」

「おじいちゃんやおばあちゃんが近くに住んでるわけでもなかったので、めっちゃ忙しかったと思います」

自分が小学4年生になる頃、母は友だちと一緒にクレープのお店を始めた。
バイタリティにあふれた人だったのだと思う。

「学校が終わったら、友だちとそのお店に行って宿題して、クレープを食べるのが楽しみでした」

「お母さんは、子どもが『やりたい』と言ったことも否定せず、やらせてくれる人なんです」

「常に応援してくれるので、いろんな場面ですごくありがたかったですね。ただ、結構女の子らしくキャピキャピしてるので、そこは私には理解できなくて(苦笑)」

「ミニスカートはいたりピンクが好きだったりするので、子どもとしては『いい歳して・・・・・・』って思ってましたね(笑)」

いつもテレビを見ていた父

父は母とは真逆で、ひたすらに仕事に向き合う人。

「お酒もたばこも女遊びもしない、昔気質で真面目な人ですね」

「家にいる時は、テレビのある部屋でずっと相撲か時代劇を見てる印象でした。一緒に出かけた記憶はほとんどなくて、子どもたちとあまり接点がなかったです」

小学校低学年くらいまでは家族で外食することもあったが、その頻度は徐々に減っていった。

仲が悪いわけでも、苦手なわけでもないが、ただ接する機会が少なかった。

「基本はお母さんとコミュニケーションを取って、お金を出してもらう時だけお父さんみたいな(笑)」

03幼い頃に灯った心の火

人見知りが抱く好奇心

現在の自分はオープンなタイプだが、かつての自分は極度の人見知りだった。

「幼稚園の頃から、基本的には仲良しの子の後ろをついていくタイプでした(笑)」

「コミュニケーション能力の高い友だちが橋渡しをしてくれて、ようやく輪に入っていけるような感じでしたね」

原因はわからないが、人の目を気にする部分があったように思う。

「何をしゃべったらいいんだろうとか、どう思われてるんだろうとか、常に気にしてました」

一方で、当時からやりたいと思ったことには、素直に動くことができた。

「小学生くらいの頃、地元でスキーの体験教室みたいな企画があったんです」

「行きたくて、親にお願いして1人で行ったんですが、誰ともしゃべりませんでした(笑)」

「スキーをうまくなるために行ったから、人と話せなくても気にならなくて。変わった子ですよね(笑)」

心の扉を開けるまでに時間がかかるが、ひとたび心を許せば活発に動ける一面もあった。

「負けず嫌いで目立ちたい気持ちもあったから、学級委員とかやってましたね」

「だから、当時の友だちは『友美は活発な子』って、印象を持ってると思います」

のめり込んだ習い事

小学生の頃から、習い事をいくつかしていた。

「習字とピアノを習っていたんですが、どちらも自分で『やりたい』って言ったらしいです」

両親は「やりたい」と言ったことを、制限せずにやらせてくれた。

「ピアノの発表会でドラムの演奏を見た時に、めちゃくちゃかっこいいと思って、中学からドラムも習い始めました」

当時は、音楽への興味が強かった。

しかし、それ以上にのめり込んだのが、バスケットボール。

「お姉ちゃんが先にバスケをやってたこともあって、私も小学4年生くらいからバスケットボールクラブに入りました」

「スポーツって終わりがないから、すごく楽しかったんですよ」

ドリブルができるようになったら、次の技に挑む。試合で勝てたら、次の試合も負けないように頑張る。

「同じ展開の試合は1回もないので、それが楽しくて飽きずに続けたんだと思います」

「めっちゃうまいわけじゃないけど、市の大会で優勝したり地区大会に出たり、楽しかったです」

バスケットボールは、そのまま社会人になっても続ける。

1つのことに熱中する性分は、大人になっても変わらなかった。

04ないかもしれない “好き” の感情

共感できない気持ち

中学生になると、周囲の友だちがいわゆる “コイバナ” を始める。

毎日、「○○君がかっこいい」「あの子がつき合ってるらしい」という話題ばかり。

「みんなの話に、全然共感できなかったんです。浮かれる気持ちがわからなくて」

「私も男性芸能人を見て、かっこいいと思うことはあるんですよ。でも、それは見た目の話で、みんなみたいに気持ちが乗らないんです」

だからといって、自分だけ孤立するのはイヤだった。

「なんか違うよな、とは思いながら、カモフラージュするために『○○君が好き』と言ったり、男の子とつき合ったりしました」

「相手の男の子のことは同級生としては好きだけど、恋愛感情じゃなかったです」

「だから、『一緒に帰りたい』『手をつなぎたい』とは思えなくて」

休日に2人で出かけて、手が触れることが苦痛だった。

結局、自分から別れを切り出すことになる。

「自分から好きと言ったり、告白を受けたりした手前、本当に申し訳なかったですね」

繰り返す異性との交際

男の子に恋愛感情を抱けない自分は、人を好きになれないのかもしれない、と感じるようになっていく。

「一向にみんなと同じ気持ちになれないから、おかしいんじゃないか、って思ってました」

「漠然と、異性を好きになれた方が絶対にラクだ、と思って、いろいろ試したんです」

学生の間も社会人になってからも、男性との交際を試みる。
しかし、相手の好意を感じ、距離が近づくだけで苦しかった。

「変われるなら変わりたかったけど、何をしても変化はなくて・・・・・・」

「たまたまこの人じゃなかっただけかな、って不毛な交際を繰り返すばかりでした」

05受け入れられないレズビアンの自分

初めて感じた「一緒にいたい」

高校1年生の時、自分が恋愛感情を抱くことに気づく。

「みんなが話す『会いたい』『一緒にいたい』って感覚が、ふと芽生えたんです」

「その相手は、女の人でした」

バスケットチームの先輩。誰とでも分け隔てなく接する人。
ほかの先輩や同級生に抱く感情とは違うものだった。

「具体的なきっかけがあって気づいたわけではなくて、いつのまにか『一緒にいたい』と思ってた、というのが正しいですね」

「相手は女性だったけど、気持ちはどうにもできなかったです」

「もともと私は欲望に正直な人なので、好きってなったら突っ走るみたいな感じでした(笑)」

レズビアンという事実

自分も人を好きになれることを知り、ホッとした。

「先輩を好きになった時に、初めて同性愛について調べて、レズビアンやLGBTって言葉を知りました」

「同じような人がいて自分もそこに所属するんだ、みたいな安心感を覚えましたね」

「その時は恋愛感情を抱けることの安堵感が強かったから、同性愛者であることに強い抵抗感はなかったんです」

先輩とは仲が良く、一緒にいる時間も長かった。

そのため、2人の関係をはっきりさせたいと思うようになっていく。

「高校生って、白黒つけたい年頃じゃないですか。だから、メールで『つき合う?』みたいな内容を送ったんです」

先輩からの返信は、「人としてはすごく好きだけど、恋愛感情とは違うと思うんだよね」。

その言葉を受け止め、その後は先輩後輩として仲良くした。

「先輩に恋人ができて幸せそうな姿を見たら、諦めるしかなかったですね。・・・・・・あの時は結構きつかったです」

自分を否定する感情

先輩の返信は、自分が思っていた以上に胸に刺さった。

「この感情は人に言っちゃダメなんだ、って思ってしまったんですよね」

「その経験が後を引いて、社会人になってからも、恋愛感情を抱いた女性に気持ちを伝えることはできませんでした」

女性を好きになること自体を、徐々に受け入れられなくなっていく。

「何度も男性とつき合ったのも、レズビアンである自分を変えたかったからだと思います」

「友だちに打ち明けることもできなかったです」

同性を好きになる自分自身を受け入れられていないため、積極的に女性との出会いを求めることもしない。

きっと結婚や出産は望めず、このまま1人で生きていくのだろう、と密かに決心した。

「30歳手前になるまで、恋愛に踏み込めないところがありました」

 

<<<後編 2022/02/19/Sat>>>

INDEX
06 バスケが導いてくれた出会い
07 誰も知らない土地で学んだ “心の解放”
08 ようやく受け入れられた自分自身
09 家族にカミングアウトをしたワケ
10 私の目標は “全力で生き抜くこと”

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