INTERVIEW
等身大の「私」を、まだ出会っていない人たちへ届けませんか?
サイト登場者(エルジービーター)募集

父に教わった山歩きが生き甲斐に変わった。トランスジェンダーの道は1つじゃない【後編】

父に教わった山歩きが生き甲斐に変わった。トランスジェンダーの道は1つじゃない【前編】はこちら

2020/05/16/Sat
Photo : Mayumi Suzuki Text : Sui Toya
佐藤 有希子さん / Yukiko Satoh

1978年、埼玉県生まれ。アウトドア好きな父に連れられ、子どもの頃から近所の山を登っていた。24歳のときに性同一性障害の診断を受けたものの、両親の理解を得られなかったことから手術を諦め現在に至る。2016年から趣味でロング・ディスタンス・ハイキングを始めた。その縁があり、2019年から地域おこし協力隊として長野県に移住。

USERS LOVED LOVE IT! 21
INDEX
01 山に登る
02 密かな想い
03 女子は入れません
04 初恋の苦み
05 現実的な未来
==================(後編)========================
06 21歳、トランスジェンダー
07 羨望と嫉妬
08 2度の転職
09 趣味を仕事に
10 いまの自分が正解

06 21歳、トランスジェンダー

メイクアップ

高校卒業後は、エアラインサービスを学べる専門学校に進学。

英語を使える職業を考えたときに、キャビンアテンダントしか思い浮かばなかったからだ。

「メイクの授業があったので、メイク道具を一式買いました。自分の顔に塗り絵しているみたいだな、って思いましたね」

「何のために・・・・・・って、すごく後ろ向きな気持ちで授業を受けてました」

「よりによって女の園のど真ん中に飛び込んでしまったって、感じです」

キャビンアテンダントは狭き門。

就職活動で面接を受けたが、会場に入ったとたん「うわ、場違い」とフリーズしてしまった。

「何を目指せばいいかわからなくて、どんどん自分を見失っていきました」

「就職っていうレールに乗るために、どうにか風をつかもうと必死でしたね」

卒業後、縁があり、都内のシティホテルに就職した。

希望通り、英語を使う仕事に就けたが、制服を着てフロントでにっこり笑うのは苦痛だった。

「トランスジェンダー」との出会い

社会人になってからも、違和感の正体がわからなかった。

今ほど情報が溢れていなかった時代。LGBTの当事者に出会うこともなく、相談相手もいなかった。

21歳のとき、たまたま本屋で見つけた本の中に、「トランスジェンダー」という言葉を見つける。

「何の本か忘れちゃったんですけど、タイトルが気になってふと手に取ったんです」

「パラパラめくってみたら、自分が感じている違和感そのままのことが書いてあるんですよ」

「なんだこれ!? って衝撃を受けましたね。自分の存在に、初めてタグがつけられた気がしました」

インターネットが普及し始めた頃のこと。手当たり次第に関連のある情報を調べた。

「24歳のときに、腹を決めてカウンセリングに通い始めました」

「診断が下りる直前に、先生から、両親を連れて来てくださいって言われたんです」

カウンセリングには内緒で通っていたが、両親を連れて行かなければ診断をもらえない。

思い切って話すことにした。

父の怒り

「病院に通ってる」
「子どもの頃からずっと違和感があったんだ」
「たまたま見つけた本に、トランスジェンダーと書いてあって、自分もそれだと思う」

淡々と伝えたが、母は絶句する。

初めて聞いた言葉に、「何のこと?」と混乱している様子が伝わってきた。

父はただただ怒っていた。

母は父をなだめながら泣き、そんな両親を見て、どうしようもなく涙があふれてきた。

とりあえず病院に一緒に行ってくれることになったが、結果は予想していた通り。

いや、それ以上の修羅場が待っていた。

「診察させていただいた結果、お宅のお子さんは性同一性障害です」

先生からそう伝えられたとたん、「何の権利があってそんな判断をするんだ」と父親が怒り始めた。

しまいには「病院を訴える」と怒鳴り、収集がつかなくなった。

「ああ面倒くさい、って思いましたね」

GIDの診断が下りたあと、父から「こんなことを外で言ったら、俺らは表を歩けなくなるから、絶対に公言するな」と言われる。

「世間体と同じくらい、わが子への愛情があることはわかっていました。自分だって、親を悲しませるのは本意じゃない」

「親が生きているあいだは、もう蓋を開けないでおこうと決めたんです」

それ以降、両親とセクシュアリティに関して話をしたことはない。

親が生きているあいだは心配をかけずに、そっと暮らしていきたいと、今は思っている。

07羨望と嫉妬

取り残される

当時、トランスジェンダーの活動家は、虎井まさ衛さんしか見つけられなかった。

「カウンセリングを受け始めたときから、虎井さんのミニコミ誌を講読してたんです」

「性同一性障害に関する最新情報が書かれていて、ホチキスで留めてありました」

ミニコミ誌を読み、オフ会にも参加した。

しかし、馴染めないまま、自分から距離を置くようになる。

「肩の力を抜いて生きたいだけだったから、その頃は、虎井さんたちの活動が過激に見えたんですよね」

「ムーブメントを起こしたいわけじゃないのに、なんでここに加わらなきゃいけないんだろうって・・・・・・」

「一度、苦手意識を持ってしまったら、もう近づくことはできませんでした」

病院に通っていたとき、同年代のFTMの子と知り合う。

お互いの家を行き来するほど仲良くなったが、その子が治療を始めた頃から疎遠になっていった。

もう1人いたFTMの友だちも、タイへ手術をしに行き、それをきっかけに会わなくなった。

「皆がどんどん先に進んでいって、自分だけ取り残されたような気持ちになりました・・・・・・」

「理想の姿に近づいていく人を見ると、嫉妬して、苦しくなりましたね」

ホテルへの問い合わせ

シティホテルには5年勤めた。
退職を決めたのは、4年目のときに、ちょっとした失望を感じたからだ。

そのホテルには、女性専用階があった。

ある日、「自分はMTFですが、その階に泊めてもらえませんか? 女性専用階がいいです」と、問い合わせが入る。

「こうやって堂々と言える人がいるんだ、すごいなと思いました」

「会社がどう対応するか、期待しながら見守ってたんですよね」

今から20年ほど前の出来事。上層部が下した判断は、結果「お断り」だった。

「その判断が出た瞬間に、この会社を辞めようと思いました」

接客に疲れていたこともあり、次は人と話さなくてもいい仕事に就きたいと思った。

「昔、ラジカセを分解するのが好きだったことを思い出して、車の整備士になろうと思いました」

「人と話さずに、淡々と作業できますからね」

08 2度の転職

整備士の専門学校

女性の整備士は少ない。
整備士の専門学校では、各クラスに女性が1人いるかいないかだった。

「クラスメイトは高校を卒業したての若い男の子ばかりで、『姐さん、姐さん』って慕ってくれました」

「女子扱いされたけど、付き合ってる彼女がいて心が安定してたから、別にいいや、って思ってましたね」

学校側が、女子生徒を特別扱いしなかった点も好ましかった。

「実習中、ボルトの締め忘れが見つかったら、『このボルト締めてないね』って先生に指摘されるんです」

「連帯責任で、ボルト1本につき腕立て伏せを10回、グループ全員がやらされました」

「男女隔てなくやらされたので、そこはうれしかったですね」

専門学校を2年で卒業し、神奈川の田舎町にあるディーラーに就職。

しかし、女性社員ということもあり、現場に出るよりフロントに回されることが徐々に増えていった。

「女性扱いされることに耐えられなくて、だんだん精神が病んでいきました」

精神科を訪れ、「眠れないんです」と相談する。

説明するのが面倒くさく、精神科の先生にGIDのことは打ち明けなかった。

「精神的に落ち着かない原因は、自分でわかっていたけど、『仕事が忙しいせい』って思い込もうとしてたんです」

相手に影響を与えたくない

1年半ほど働き、整備士の仕事を辞めた。

実家に帰り、しばらくフラフラした後、印刷会社の事務職として採用される。

「取扱説明書を編集する部署で、車関係の説明書を作ってました」

「長時間労働でかなりブラックな環境でしたが、1人で作業できる点は気に入ってましたね」

「計画通り仕事が終われば問題ないので、この日は休んじゃおうとか、午前中で帰っちゃおうとか、時間の自由がきいたのも良かったです」

その会社で11年勤めたが、職場の先輩や同僚に、セクシュアリティの話をすることはなかった。

「話すことで、相手に何かしら影響を与えるじゃないですか」

「受け入れるか、拒絶するかはその人次第だけど、何かしらの反応が返ってきますよね」

「それが面倒くさかったんです。それなら、黙っていようと思いました」

11年間で、トランスジェンダーだと打ち明けたのは1人だけ。

「近くの部署に、ゲイの子が1人いたんです」

「その子はゲイの合唱団に入ってて、あるとき『あなたならたぶん話せると思ったから』って、フライヤーをくれたんですよ」

「向こうが察してくれたから、『実は自分も・・・・・・』って切り出すことができました」

「そこから、自分が会社を辞めるまで、仲良くしてくれましたね」

09趣味を仕事に

会社での見せ方

印刷会社で働いていたときは、クライアントとやりとりをすることが多かった。

「業界的に、中高年の男性が多いんです」

「女性が車関係の説明書を作っているのは珍しいって、すごく可愛がってもらえました」

しかし、ふとした時にトランスジェンダーのタレントの話になると、「オカマ」や「気持ち悪い」など、聞きたくない言葉が飛び交う。

「自分のセクシュアリティの話は絶対にできないな、って思いましたね」

ある時、大口のクライアントとのあいだで、身だしなみの話が持ち上がり、服装が規定されることになった。

「それまでは自由だったので、ジーンズやTシャツなど、ラフな服装で通勤してました」

「ところが、そのクライアントの社則に合わせて、男性の標準、女性の標準っていう指標が急に定められたんです」

今さら女性らしい服装には戻りたくないと思い、当時の上司に「この規定って絶対ですかね?」と相談した。

上司からは「佐藤さんはその会社には関係ないから、ある程度守っていればいいんじゃない?」と言われる。

「その後、ルールの実施日が近づいた頃に、『佐藤さん、服装どうする?』って、上司がもう一度声を掛けてきてくれたんです」

「上司にはセクシュアリティのことを何も話してなかったけど、たぶん気にかけてくれてたんですよね」

「『とりあえず、差し障りのない感じでやります』と返事をして、その話はそこで終わりました」

信頼できる仲間

実家の近所にあるアウトドアショップの貼り紙を見て、山歩きを始めたのは2011年のこと。

次第に長い距離を歩くようになり、休みを取って、長野県と新潟県にまたがる全長80kmの信越トレイルに通うことが増えた。

「交通費もかかるし、仕事を見つけて、そのうち移住できたらいいなと思ってたんです」

念願叶って、2019年4月に長野県飯山市の地域おこし協力隊として採用される。

「今は、自然体験を提供している宿泊施設で働きながら、大好きな信越トレイルの運営にも関わっています」

「1人のハイカーとして皆が自分を受け入れてくれている実感があるので、すごく楽しいですね」

今まで、セクシュアリティのことを口にすると、周りに影響を与えてしまうと思っていた。

言わないことが一番いいと、口を堅く閉ざし続けてきた。

「でも今は、聞かれたら答えてもいいんじゃないか、って思うようになりました」

「信頼できる仲間が周りにいるから、考え方が柔軟になったのかもしれません」

ハイカー仲間には、セクシュアリティのことをまだ話していない。

「41歳にもなって、結婚もしてないし、飾り気のない格好ばかりしてるし、ハイカー仲間のあいだでは謎すぎる存在だと思うんですよね(笑)」

「まあ、薄々は勘づいていると思います」

「何かのタイミングで、興味を持って聞いてくれる人がいたら、そのときは自分のことを伝えてみようと思ってます」

10いまの自分が正解

20年間で時代が変わった

考え方が柔軟になったのは、時代が変化したことも大きい。

「20年前は、トランスジェンダーがまだ世間に知られていなくて、人に説明するのが本当に大変だったんですよ」

「でも、今はLGBTのTですって言えば、伝わる場合が多いじゃないですか」

半年ほど前、現在働いている施設で、支配人とセクシュアリティの話をする機会があった。

話そうと決めていたわけではなく、話の流れでたまたまカミングアウトすることになったのだ。

「支配人からは『ああー、そうだったんですか』って言われました」

「『なるほど、それは佐藤さんの個性ですね』って、スッと納得してもらえたんです」

トランスジェンダーについて、完全に理解してもらおうと思うと、それは難しいかもしれない。

しかし、相手に少しでも知識があれば、1から説明をしなくて済む。

「20年前に比べて、いい時代になったなと思いますね」

トランスジェンダーのフェーズに不正解はない

長野に移住して、一人暮らしを始めてから、暇な時間がものすごく増えた。

「暇な時間が増えると、色々考えるようになるじゃないですか」

「自分の人生について色々考えて、このまま年を取って死ぬのは、なんか違うなと思ったんです」

歴史に残る偉人にならなくてもいい。
誰かの記憶に、ほんの少しでも自分の存在が刻まれたらいい。

そう思い、LGBTERにメールを送った。

「声を大にして、『聞いて!』って言いたいわけではないんです」

「でも、一生隠し通して生きていくのも、自分らしいやり方ではないと思ったんですよね」

当然ながら、自分の半生をインターネット上にさらす怖さはある。
友だちの中にも、受け入れられない人はきっといるだろう。

「それでも、何かポジティブな変化が起きる可能性があるなら、そちらに懸けたいと思ったんです」

「この記事をたまたま目にして、『読んだよ』って連絡をくれる人が、1人でもいたらいいなと思ってます」

GIDの診断を受けた当時は、自分だけがすごく遅れを取っているような気がした。

両親に遠慮して、何もできない自分は情けないとも思った。

しかし、トランスジェンダーの中にも、さまざまな考え・フェーズの人がいると、今ならわかる。

手術を終えて埋没して暮らしている人も、治療中の人も、何かしらの事情で治療に踏み切れない人もいる。

どのフェーズが正しい・間違っているということはなく、トランスジェンダーの数だけパターンがあるのだろう。

以前は、先へ進んでいく友人たちを羨んだこともあった。
しかし、不思議なことに、自分を嫌いになったことはない。

それはやはり、親が愛情を持って育ててくれたおかげだと思う。

「親から手術をしていいよ、って言われたら今すぐ手続きをします。その気持ちは、24歳で診断を受けたときから変わりません」

「でも、たとえ今は、理想の姿になれなくても、自分のことを好きだって胸を張って言えます」

いま居る場所は、まだ5合目なのかもしれない。
霞の向こうに、まだまだ険しい道が続いている可能性はある。

しかし、さまざまな経験を経て、自分にとって心地いい呼吸法をいつしか体得した。

その呼吸を保ったまま、上り坂を歩き続けられる覚悟は、もうできている。

あとがき
佐藤さんがあの頃に発した「面倒くさい」は、外の世界に向けた小さな叫び。誰にも矢を向けず、誰の考えも遠ざけたい悲しみで出来ていた。自分の意見を押し付けることもなければ、人の意見に反発することもない時代だったのか?■「勇気をだしてLGBTERに応募して良かったです」。取材後、佐藤さんからメッセージが届いた。変化を楽しみにしている。どの道をどのように歩くのか、迷いさえ新しい刺激や感覚の記憶になる。人生をハイクする。(編集部)

関連記事

array(1) { [0]=> int(25) }