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与えられた性別を言い訳にはしたくない【前編】

黄金色の肌と清潔感ある短髪。黒目がちな瞳も印象的で、とにかく気持ち良さそうに笑う青年、それが中谷友星さんの第一印象だ。その笑顔のさりげなさと同じくらい、自分が女から男になることは自然なことだったと語る、彼の来し道。性同一性障害を抱えながらも、軽やかな変貌を可能にした理由を探ってみたい。

2016/07/31/Sun
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Koji Okano
中谷 友星 / Yusei Nakatani

1982年、大阪府生まれ。幼い頃からスポーツが好きで、強いチームに身を置き、心身を共に鍛えてきた。大学3年からフィットネス関係で働き始め、大学4年の時にフリーのインストラクターとして活動を開始。エアロビクス、パワーヨガ、ラテンエアロなど様々なカテゴリーのレッスンを行い、現在は週20本のクラスを担当。オーガナイザーとしてイベントを開催する他、様々なクラブイベント、フィットネスイベントにもゲスト出演している。

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INDEX
01 初めての夢は父親になること
02 負けん気の強さを携えて東京へ
03 規則は規則として従っていく
04 女子大学には行きたくない
05 同じ性自認の仲間と出会って
==================(後編)========================
06 性同一性障害を言い訳にしない
07 母親へのカミングアウト
08 親と子が理解し合うとき
09 友星として第二の人生を行く
10 できること、できないこと

01初めての夢は父親になること

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野球が好き

父親は社会人野球のチームに所属するほどのスポーツ好き。その影響か、1歳の頃からスイミング教室に通った。

もちろん自分で行くことはできないから、母親が近くのプールまで連れて行ってくれる。

「未熟児で生まれたから、親が少しでも身体を大きくしてあげたいと思って、1歳から水泳をやらせたみたいなんです。他にも、小学校に上がる前から、体操教室にも通っていました」

今の自分の仕事、フィットネスインストラクターになる道のりは、実はこの頃から始まっていたのかもしれない。

親に言われて始めたスポーツだったが、楽しそうに身体を動かしていた幼き頃の自分の姿をうっすらとは覚えている。

小学校に上がっても引き続き、水泳教室にも通い、4年生になれば、サッカー部にも入部した。

「僕が2歳くらいの時、父と同じようなユニフォームを母が作ってくれたんです。それを着て、ドロンコになるまで野球をしていました。自宅でバットを持って構えている写真が、今でも残っています。その頃から父は僕の憧れでした」

そんな毎日の中で、自らが性同一性障害の初めの兆しと考える感情が芽生えた。

「将来の夢はと聞かれたら、『お父さんになる』と答えていたようです。父はその頃、社会人野球のチームでピッチャーをやっていて、僕の絶対的な憧れだったから。小学生の頃の写真にはユニフォームを着て、バットを持っている写真もあります。男性への憧れというと、父に対する感情が始まりのような気がします」

赤より黒を

小学校に入学する前に選んだランドセルの色。

そこにも現在の自分の姿が色濃く反映されていた。

「今はいろんな色のランドセルがありますけど、当時は黒か赤しかありませんでした。で、僕は黒がいい、と言って聞かなかったそうです。でも母も『女の子はみんな赤いのだよ』と言うから決まらなくて」

「それを見ていた祖母が明るい赤ではなく、シックな赤色のランドセルを買ってくれました。でも実はそれが馬の皮のすごく高い商品だったみたいで。今思うと、すごく申し訳なく思っています(笑)」

幼少から小学校中学年までを過ごしたのが、熊本県菊池郡旭志村。壮大な大自然があり、駆ける場所はいくらでもあった。

部活はサッカー部。男の子に混じりながら、校庭を走り回った。秘密基地を作って遊ぶこともあった。

「田舎だから外で遊ぶくらいしか、やることがなかったんです。あと自分の家と友達の家が離れているから、わざわざテレビゲームをするために行くのも面倒だった。その代わりに学校の帰り道、男女の区別なく混ざって思いっきり外を駆け巡りました」

「小学校時代を通じて、あまり男らしさ女らしさを意識せずに育ったのは、熊本の大自然のおかげかもしれません」

男女の別もなければ、上下の関係も意識せずに遊べる学友ばかりだった。

熊本は本当にいいところ。

当時を思い返して、しみじみ思う。

02負けん気の強さを携えて東京へ

勝ちたい気持ち

今はインストラクターの仕事をしているが、しかし意外にも、元から運動神経が良かったわけではない。

「水泳もサッカーもしていたけれど、運動が得意という訳ではなかったんです。ただ当時から、すごく負けず嫌いだったというのはあります。体育の授業なんかで、誰かが出来ていることで自分が出来ないことがあれば、影で猛練習するんです。けれど本番は涼しい顔で成功させて、練習も何もしていなかったように振る舞うっていう(笑)」

今でも鮮明に覚えているのが、幼稚園で逆上がりができなかったときのエピソードだ。

「一番仲の良かった子が、あっさり逆上がりを決めたんです。4月生まれの男の子で、なおかつお兄ちゃんがいる子で。僕には弟しかいないんですが、上に兄弟がいると、学校の外で練習を見てもらえるから羨ましくて」

自分ができないのが、心の底から悔しかった。その日は失意のまま家路に着く。

「父が公園での練習に付き合ってくれました。逆上がりのコツを身に着けられるよう、蹴り上がるための板まで用意しれくれたんです。一晩でできるようになって、次の日には何もなかったかのように、逆上がりを見せつけてやりました」

「とにかく運動では負けたくなかったんです」

スポーツにおける飽くなき闘争心。これが自分の人生の礎になっていると感じる。

本気の奴ばかり

小学校4年生の夏に父親の仕事の都合で、東京へ引っ越した。

熊本の学校で打ち込んでいた部活、サッカーを続けたかったから、すぐに地元のクラブチームに入部する。

「女子は私を含め、4人だけでした。でも男子に負けたくなかったから、練習でも試合でも、必死にボールを追いましたよ。みんなクラブチームに入部するくらいだから、本気なんです。勝つために切磋琢磨する楽しさを知りました」

日焼けして真っ黒になるくらい、サッカーに夢中になる日々。

男子相手に毎日競いあっていると、自分が女子であるということも、だんだん薄らいでくる。

「熊本の学校でも同じような感じでしたけれど『もっと女の子らしく』とか『どうしてそんなに男の子みたいなの』とか、言われたことなかったですね。あまりにも喧しく騒いでたら怒られたけれど、叱られた後は、きちんとどこが駄目だったか説明してくれる先生ばかりでしたし」

「それは東京へ来ても変わりませんでした」

もしかしたら影では何か言われていたのかもしれない。

しかしそれが気にならないくらい、サッカーに夢中になっていた。

03規則は規則として従っていく

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スカートは義務

サッカーボールをひたすら追いかける日々を送っていたら、いつしか中学校入学を迎えようとしていた。

この頃から男女の服装の差、制服を意識し始めるようになる。

「実は小学校のときも制服だったらしいのですが、まるで覚えていないんです。スカートというものの存在を知ったのは、記憶の限り、このときが初めてです」

放課後は、いつも半ズボン姿だった。

折り紙を選べば青や緑ばかりだったし、母の記憶では、幼稚園のときもお弁当箱はドラゴンボールの絵柄が入ったものを使っていた。

「なんとなく自分は周りの女の子と違うのかな、とは思っていました。でも中学・高校を通して、制服が嫌だということはなかったんです。これは規則なので仕方がないと考えていました。ルーズソックスだって履きましたよ、その頃の流行ですもん(笑)」

「別に女を演じたいという気持ちからでもなく、新しモノ好きだったんですよ。だから短いスカートが流行ったら、やっぱり短くしました。ラルフローレンのベストが流行ればそれも。だからって、他の持ち物まで可愛いものを、とは思いませんでしたけれど」

制服のスカートを気にする暇もないくらい、部活で忙しかった。中学はバスケットボール、高校はソフトボールに熱中した。

バスケットボールはその学校で一番強い部活だったから入部し、高校はソフトボールの強い学校に入りたいと思って、志望したところに入学した。

スポーツを極める

「とにかくその学校で一番レベルの高い、体育会の部活に入りたいと思うところがあって。練習に励んだんですけど、身長が高くないので、中学のバスケットボール部ではスタメンになれませんでした」

「高校は、ソフトボールが強いところに入学することにしました。顧問の先生の評判も良かったので。そういう熱い志の先生の元でスポーツに掛けないと、もったいないなと思って。小学生のとき父が野球を教えてくれた成果もあって、スタメンになることができたんです」

両親もスポーツに打ち込む自分に、何も言わなかった。

制服で学校へ通う以外は、放課後も休日もジャージで過ごしていたが、特段それを「女らしくない」と言うでもなく、むしろ高校進学のときは「この部活が強いから、ここにしたら」と応援するふうでもあった。

04女子大学には行きたくない

嫌な肩書き

ソフトボールに打ち込んでいたら、いつしかその先、高校卒業後の進路を考えるときを迎えていた。

「そのときふと、女子大学だけには入りたくない、と思ったんです。その肩書きが履歴書に残るのだけは、勘弁してほしいと。まだ性自認というまでは至っていないけど、自分の性に対する嫌悪感は、もうこの頃にははっきり存在しましたね」

そのうえで2択に悩んだ。

体育学部のある大学か、理学療法を学べる学校に行くか、だ。

「実は小学生の頃の夢が『お父さんになる』か『理学療法士になる』だったんです。理学療法士になりたいと思い始めたのは、小学校4年生の時から。父が野球で怪我をして入院、リハビリを受けているのを見て、この仕事カッコいいなと思ったんです」

「だけど看護師になりたいとは思わなかった。ここにも性同一性障害の発露があったのかもしれないです」

社会体育の道へ

考えた結果、体育大学への進学を決めた。

ソフトボールに関しては、高校のとき東京都公立選手権での優勝を経験したから、もう自分の中で達成感があった。

「女子サッカーで一番強い大学に進みたいと思いました。当時、日本体育大学の女子サッカー部が、日本女子サッカーのトップリーグに名を連ねている大学だったので『あぁ、ここがいい』と、ただそれだけで志願しました」

第一志望の体育学部体育学科への入学はならなかったが、社会体育学科には合格。

身体に障がいのある人や知的障がいを持つ人へのスポーツ指導、パラリンピックを目指す選手の育成法などを学ぶことができる。

「思春期をすべてスポーツに注いだ感じです。恋なんてしている暇はなかった。小学校のときは野球少年、中学ではバスケットボール部の男子、高校のときも野球球児をいいなぁ、と思ったことがあったけど、部活に打ち込んでいたから、告白してどうこうとか、考えたこともなかったですね」

05同じ性自認の人々との出会い

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男になるべき

大学に入学すると同時に、女子サッカー部に入部。

高校と変わらず、スポーツに熱中する毎日だ。ただ大きく変わったのは、心境の面。

自分と同じく、スポーツに興味のある人が全国から集まっているから、話が合う。高校ときのように制服もないし、ジャージ、もしくはTシャツに短パンのような服装で通学することも可能だった。

「あと自分に似た感覚、女性だけど女性の自分が嫌、という気持ちを持った人にも、何人か出会ったんです。そこで性同一性障害という言葉をリアルに感じることができました。これがきっかけで、インターネットでもいろいろ調べるようになって。自分も治療を受けて、男になるべきなんだろうなと気づきました」

しかしサッカーに打ち込んでいる時期だ。競技者として、思うところもある。

「でも知ったからと言って、どうしようっていうのはなかったです。ホルモン注射のことも知っていたけれど、サッカーをやっている間は無理だと考えていました」

性同一性障害の治療が必要とは思いながらも、副作用のことを考えれば、競技者としては二の足を踏んでしまうのだ。

天職との出会い

フィットネスインストラクターという仕事と出会ったのは、大学2年生のとき。

部活の夏休みで家にいる娘に、母親が「身体が鈍るだろうから、行ってみたら?」とスポーツクラブへ行くように勧めたのだ。

「いい歳した娘がスカートを履かないどころか、化粧もせずに外を出歩いているのに、母はそこは気にならないで、身体を動かしていないことが心配になったみたいなんです。で、スポーツクラブに行ってみたら、すごくスタイルが良く、サバサバしてかっこいい女性インストラクターがいて」

「レッスンを受けているうちに『この仕事をやりたい』と感じたので、次のレッスンの時に『どうやったらインストラクターになれますか?』と、その先生に聞いてみました。将来、性同一性障害の治療を経て、男性として生きようとなんとなく思っていたし、それに制服のない仕事がよかった」

「おまけに身体が動かせて、かっこいい職業だと感じたから。フィットネスインストラクターを目指すことに決めたんです」

1日も早くプロとして独り立ちできるように、大学在学中からスポーツクラブに通い始めた。打ち込むためにサッカー部も辞めた。

「部活を辞めてまで、フィットネスインストラクターに打ち込んだのには、、他にも理由があるんです。とにかく早く、お客さんや企業と信頼関係を築ける存在になりたかった」

「ただインストラクター養成コース、あとデビューしてからしばらくは『女性なんだから、もっと女らしく、綺麗に、しなやかに』と言われることがあって苦痛でした」

好きで飛び込んだフィットネスも、やはり女らしさを求められる世界だった。

そこには少し、違和感を覚えた。

<<<後編 2016/08/02/Tue>>>
INDEX

06 性同一性障害を言い訳にしない
07 母親へのカミングアウト
08 親と子が理解し合うとき
09 友星として第二の人生を行く
10 できること、できないこと

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