02 誰にも言えない。その事実がつらかった
03 自分を受容できるようにはなったけれど
04 まずはひとりの人間として生きていくために
05 自分にダメ出しをし続ける日々
==================(後編)========================
06 仮面をはずした日
07 本当の自分が動き出した
08 カミングアウト、その後
09 より自分らしく生きるには
10 誰もが生きやすい世の中になるために、自分ができること
01自分は、おかしいのかもしれない
単に、同性への憧れだと思っていた
思春期は ”性の目覚めの時” と言われる。
生殖器に性差が生じるだけでなく、女の子は胸がふくらみはじめ、男の子は声変わりをし、顔にはうっすらヒゲが生えはじめる。
そうした体の変化によって自分の性を自覚し、自分とは異なる性への興味や関心が高まっていくものだとされている。
ただ、そうそう一筋縄ではいかないのもこの時期の特徴だ。仲良しの友達に対して突然、ドキドキしてみたり、年上の同性に強い憧れを抱いたり。
それは、心理学的にも「思春期には一時的に同性愛的な感情を持つことがある」とされていて別段のことはないが、当の本人は少なからず戸惑う。
「自分は、おかしいのだろうか?」
高校生になって、諏訪さんは同性の同級生や先輩に対して特別な感情を抱くようになった自分を、到底受け入れられなかった。
「小・中学生の頃は、女の子が好きだったんですよ。いや、今となればそれが ”恋” だったのかどうか怪しいですけど(笑)。通っていた高校は共学だったので女の子もいましたけど、心がときめくのは男の子のクラスメートだったり、先輩でした。ただ、最初はゲイだという自覚はなかった。それこそ思春期独特の、一過性の感情なのかと思っていました」
恋? いや、そんなはずはない
いや、単なる憧れではないかもしれない。
そう感じたのは 高校2年生の頃、1つ年上の陸上部の先輩と一緒に練習をしている時だった。
「僕は長距離のグループにいたのですが、先輩はそのリーダー。織田裕二似の、誰に対してもものすごく面倒見のいい人でした。最初は ”頼れるお兄さん” 的な感じかな、と思っていたんです」
先輩は、しっかり練習をする諏訪さんを目にかけてくれ、いろいろと指導してくれた。
そのおかげでタイムはずいぶん伸びたが、それでも駅伝のメンバーに選ばれるかどうか、瀬戸際のレベル。
たぶん選ばれないだろうと思っていたら、なんと声がかかった。
先輩が「彼はものすごく努力をしていて、タイムも伸びてきているから」と顧問の先生に掛けあってくれたのだ。
「タイム的には駅伝のメンバーとしてはまだまだ遅かったので、先生は僕ではなくて後輩を出場させるつもりだったんですね。でも、その後輩は全然練習をしなかったので、それよりも努力をする人間を選んでほしいと、先輩が訴えてくれて。感動しました」
先輩への思いはどんどん募っていく。
だが、思いが強くなるほど、同じ強さでその思いを否定する自分がいた。
男である自分が男性である先輩を好きになるなんて、世間の常識からはずれている。
先輩は、人間として魅力があるから惹かれるんだ。
これは決して、恋愛感情ではない ——。
02誰にも言えない。その事実がつらかった
「キモい」と思われるのが怖くて
同級生の間でも、ゲイやレズビアンの話題が出ると「なんか、キモいよね」という話になった。
ということは、もし自分が先輩のことを好きだということが知られたら、みんなに「キモい」と言われるんじゃないか。
それが怖くて、誰にも胸の内を話せなかった。
「今だったら、何と言われようと全く平気だけど、当時は微妙なお年頃ということもあって(笑)、とにかく人の目が気になっていましたから。それに、僕はクラスの中で優等生キャラだったので、男同士のエッチな話にも入れてもらえなかったんですね。恋愛の話もいっさいしない人、というふうに思われていて。だから『実は・・・・・・』なんて彼らの話の中に入っていくのも変な感じがして、学校では優等生キャラでい続けていました」
苦しい。
だから、「そんなはずはない」と自分の中にある先輩への恋心を否定する。
「あの女の子、かわいいよな」「いや、俺はあっちの女の子のほうがいい」と ”恋バナ” で盛り上がっている同級生たち。
それに比べて自分は・・・・・・と、ひどく寂しかった。
「実際には、誰にも打ち明けはしなかったけど、『変に思われるかもしれないから、誰にも言えない』というのが、つらかった。それって、自分が自分にダメ出しをしていることになるでしょう?」
当然ながら、先輩に思いを打ち明けることはできなかった。
「死んでしまいたい」と、いつも思っていた
大学に入ってからも、「ゲイではない」と必死で「自分自身に」抵抗していた。
だが、とうとう認めざるを得ない日がやってきた。
ふらりと立ち寄った本屋に、ゲイ雑誌が並んでいたのだ。
「なんだこれは! と衝撃を受けました。と同時に、それを見て興奮している自分に気づいて、ああ、やっぱりそうなのかと」
それからは、その手の雑誌を買うようになったが、それでもまだどこかに自分がゲイであることを認めたくない気持ちが残っていた。
「雑誌を買っては捨て、買っては捨ての繰り返し。夜、近所のスーパーのゴミ箱にこっそり捨てに行ったりしていました。そんな自分がまた、情けない。自分なんてこの世からいなくなればいいんじゃないかと、人生に絶望していましたね。何かちょっとでも嫌なことがあると、『死んじゃいたい』と思っていたんです」
そんな、大学1年生のある日、高校の陸上部の1つ下の後輩が、自ら命を絶ったという知らせが入る。
「彼女は、県大会で入賞するような子だったし、すごくかわいくて、彼氏もいたんですよ。だから、なぜそんなことに? ってあまりにショックで、頭の中が混乱してしまいました。その時、ああ、自分が死んだら周囲の人たちをこんな気持ちにさせるのか、だったら絶対に死んだらダメだと思いました」
「彼女が僕を引き止めてくれたんです。僕が今あるのは、彼女のおかげ。感謝しています」
03自分を受容できるようにはなったけれど
初めて ”仲間” ができた
自分の中から「自殺」という選択肢は消えたが、それ以外は何も変わらない。
実は、後輩の死の少し前から、ゲイが集まっていると言われる公園に通うようになっていた。
「最初は、とにかく誰かと話がしたくて通っていました。ゲイの人が集まっているのだから、自分は誰からも『キモい』と思われない。そこにいる間は自分のことを否定せずにいられたから、気持ちが少し軽くなりました」
だが、それでも心に平安は訪れない。
相変わらず寂しかった。
2年生になってから、雑誌の文通欄を使ってある人に手紙を書いたが返事は来ず、空振りに終わった。
「自分がゲイであることを他人に明かした最初の経験でした。実際に会わないとはいえ、けっこう勇気を出して手紙を書いたので、返事がこなくて傷ついてしまって。でも、実は返信は来ていたんです。ただ、母がポストから取り出したまま忘れていた郵便物の中に紛れていて、僕の手元に届いたのは消印の日付から3ヵ月たってから。だから、彼は全然悪くない(笑)」
でも、求めているのはこれじゃない
この文通がきっかけで、少しずつ「ゲイである自分」を受け入れられるように。
大学公認の性的マイノリティサークルにも参加した。
「ただ、そこには ”オネエ” タイプの人がたくさんいて、『踊りに行くわよー』って新宿2丁目のクラブに連れて行かれ、いきなり『踊んなさいよ!』って。ついこの間まで、郊外の高校でただ走っていただけの素朴な体育会系だった僕にとって、それはあまりにも強烈でした。怖かったあ(笑)」
それでも、気兼ねなく話ができる友達ができてうれしくて、週に2、3回は2丁目に遊びに行っていた。
「でも、なんか心に穴が開いている感じがして。夜、わいわい騒いでその時はたしかに気持ちも上がるんだけど、それってしょせん、その場かぎりの楽しさなんですよね」
多くの人は、やはり何かしらの思いや事情を抱えていて、昼間は鬱屈としていた。
だからこそ夜、憂さ晴らしをしなければやっていられないのだが、何か違うような気がした。
「僕は、夜だけじゃなくて昼間も明るく、大手を振って外を歩きたかった。そのことに気づいてから、2丁目にも大学のサークルにもだんだん行かなくなりました」
04まずはひとりの人間として生きていくために
この先、自分はどうなってしまうのだろう
心に空洞を抱えたまま、ただ大学に通うだけの日々が続いた。
やがて就職活動の時期を迎え、どこか企業に入ろうという気持ちはあったが、当時は「就職氷河期」。
大学生活の中でとくに打ち込めるものも見つけられなかった。人様にアピールできるものが何もなく、就職活動をしてもどこにも採用されないだろうと思ったという。
「それでも一応、公務員試験を受けてみようと参考書を買ったんです。でも、大学でまったく勉強しなかったから、法律やら経済やらさっぱりわからない。これはダメだと、すぐにあきらめました」
では、いったい何をすればいいのか。
ゲイであることとは別にひとりの人間として、この先、どう生きていけばいいのか。
以前のように絶望はしなかったが、次なる一歩が踏み出せない。
もうしばらく、このままでいたい・・・・・・。
「モラトリアム、っていうやつですね。なんとか働かないですむ方法はないか、いろいろ調べました。新たに勉強をしたいと言えば親も許してくれるだろうと考えて、理学療法士の専門学校に入ることにしました。理学療法にさほど興味があったわけではないのですが、学費が安かったし学生寮があったので、自分で稼いだお金で、学費も生活費もまかなえるんじゃないかと」
理学療法士の道へ、逃げ込む
理学療法士は積極的選択ではなく、逃げ道だった。
もっとも、最初から「これ」といった道が見つけられ、迷わず突き進める人はそうそういない。
多くの人は逃げ道だったり消去法だったり、「これしか残らなかったから」と仕方なく選ばざるを得なかった道をとりあえず進んでいくものなのかもしれない。
「ただ、なかなかモチベーションは上がらず、こんな勉強やめてやる! って100回くらいは思いました。1回目は入学直後。当時つきあっていた人が理学療法士だったのですが、彼に振られて、もうやってられない! って(笑)」
「最後は3年生で実習があったとき。実習がしんどくて、先生に学校を辞めますと言ったら『ここまでがんばったんだから、あと半年がまんして国家資格だけは取りなさい』と。思えば、あの時先生が引き止めてくれたからこそ今こうして生きていけているわけだから、先生に感謝感謝、です」
専門学校卒業後、理学療法士として15年間、病院2か所、老人保健施設、老人ホームなどで働いた。
おもに高齢者のリハビリテーション(リハビリ)に携わったほか、スポーツ選手のリハビリも。
子どものリハビリ以外はすべて経験した。
05自分にダメ出しをし続ける日々
もっと、もっと
リハビリは、患者と理学療法士とマンツーマンで行うものだ。
そこでは当然、コミュニケーション能力が問われることになる。
諏訪さんは頭の回転が速く、話をしていて相手を飽きさせることがない。
「でも、自分はこの仕事に向いていないと、ずっと思っていました。理学療法士は『理学』というくらいだから、物理学的だったり科学的な部分の多い仕事なんです。僕はもともと理系ではないので、それが苦痛で」
また、患者に多く接すれば接するほど、リハビリの他にも何かできることがあるのではないかと感じた。
そこで、理学療法以外のアプローチ方法を模索しはじめる。
アロマテラピー、リフレクソロジー、カラーセラピー・・・・・・ etc。取得した資格の数は両手でも足りない。
「仕事をしながら勉強して、たくさん資格を取ってすごいねと言われるんですけど、要は一つに絞れなかっただけ。治療者としては、何か『これ』というもので確実に患者さんを治したい。その『これ』を見つけたくて、いろいろなことをやってみました。ところが実際に自分がその療法を施してもらっても、どれもさほど効果が感じられない。自分が納得できないものを人に提供するのがいやで、結局、資格を取って終わってしまうわけです」
心の中の不安を「資格」で埋めたかった
もっとも、そうやって資格取得に走ったのは、自分に自信が持てないでいたからなのかもしれない。
「自分には価値がない、何か資格を持っていないと人には認めてもらえない、という気持ちが強かったのだと思います。その焦りから、あれこれ手を出していたんじゃないかな。何か肩書がなければ自分という人間には価値が無い、誰にも認められないのではないかと。認めていなかったのは、自分自身だったんですけどね」
そこに、セクシュアリティの問題は影響していないだろうか。
自分を認められないというのは、すなわち自分を否定することだ。
「セクシュアリティとは別の話だと思う。これじゃダメだと、自分自身に対してダメ出しをするという意味では重なるかもしれませんが。ううむ、どうなんだろう・・・・・・。ただ、セクシュアリティの問題に関しても、数年前位からいよいよ限界という感じになってきていました。自分がゲイであることを自分が認めるのはもちろんのこと、人にも認められたいというか。いや、誰かに認められたいというより、周りに隠していることに耐えられなくなったということかな」
後編INDEX
06 仮面をはずした日
07 本当の自分が動き出した
08 カミングアウト、その後
09 より自分らしく生きるには
10 誰もが生きやすい世の中になるために、自分ができること