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ゲイの僕がドキュメンタリーを撮るのは、誰かに “希望” を届けたいから【前編】

ほのぼのとした雰囲気を放つ松岡弘明さんは、ドキュメンタリー映画の監督も務める映像クリエイター。カメラを向けるとユニークな表情やポーズで笑わせてくれる松岡さんだが、大切な人に本当の自分を打ち明けられなかった過去を抱えていた。悔いを残した経験があるからこそ、今を生きる人たちとの関係を大切にできる。

2024/07/17/Wed
Photo : Tomoki Suzuki Text : Ryosuke Aritak
松岡 弘明 / Hiroaki Matsuoka

1986年、奈良県生まれ。小学1年生で自身のセクシュアリティを自覚。大学院を卒業し、IT企業や映像制作会社に勤めた後、フリーランスで映像制作を開始。2020年にカミハグプロダクションを設立し、LGBTQ関連団体の映像制作やカミングアウトをテーマにした映像作品の制作を中心に行っている。

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INDEX
01 高齢の両親とテレビっ子の僕
02 小学1年生で気づいたゲイの自分
03 学業で抑え込んだ感情
04 海外に出て知ったLGBTQのオープンな生活
05 隠さなくていい「ゲイであること」
==================(後編)========================
06 初めてのカミングアウト
07 大切な人に告げないという選択
08 親に本当の自分を伝える理由
09 今の自分だからできるLGBTQの活動
10 “人生” を映像に残す仕事

01高齢の両親とテレビっ子の僕

意外すぎる両親の出会い

僕が奈良県で産声を上げた時、両親は30代後半の学生だった。

「お父さんもお母さんも高校を卒業して、一度就職してから、学歴の必要性に気づいたそうです」

「お互い、同じタイミングに同じ30代後半で大学を志して、同じ予備校に通い始めて出会ったと聞きました」

大学合格を目指す10~20代の子が通う予備校に、30代後半の男女が2人。

お互いに惹かれ合い、自然と交際に至ったという。

「僕が生まれた時には、お父さんが大学に通っていて、母方のおばあちゃんも一緒に住んでたんです」

「お母さんが働いていて、僕は保育園に通ってました」

「高齢出産だし、ひとりっ子だったので、かわいがってもらった記憶があります」

楽しい日々だったが、自分が小学2年生の頃、父と別居することになった。

テレビ中毒だった少年期

幼い頃の自分は、自他ともに認めるテレビっ子だった。

「テレビを見すぎて、勉強もしないし習い事にも行かないような子だったんです」

「お笑い番組も好きだったし、アニメ映画はヒマさえあればずっと見てました」

録画してもらった『ドラえもん』の映画は、何十回も繰り返し見た。

「お母さんも、これじゃダメだ、って思ったみたいで、テレビを倉庫に封印されました(笑)」

テレビを隠した倉庫には鍵がかけられ、母が休みの週末だけ、テレビが解禁された。

自分はおとなしく約束を守っていたわけではなく、母の目をかいくぐってテレビを見た。

「お母さんが隠してる鍵を見つけて、倉庫からテレビを出して見てました(笑)」

「そうなると鍵を別のところに隠されて、それを見つけてって、攻防を繰り広げてましたね」

高校を卒業するまで、テレビは自由に見せてもらえなかった。

「僕も試験や受験の時期は、『勉強の邪魔になるから隠して』って、言ってました」

テレビを自由に見せてもらえない分、母はよく映画に連れていってくれた。

「お母さんが奈良駅のほうに英語を習いに行っていて、そこについていくと、『映画を見て待ってなさい』って、連れていってくれたんです」

02小学1年生で気づいたゲイの自分

女々しく思われたくない

小学生の頃は背が低かったため、いじめられないように気を張っていた。

「基本的には明るく天真爛漫で、友だちも多かったと思います。でも、小さいからってバカにされたくない、みたいな思いもあったんです」

小学校低学年の頃は、女の子と一緒に『セーラームーン』の絵を描いていた。

「それを見た男の子から、『何そんなん書いてんねん!』って、言われるんですよ」

「それがうっとうしいと思う一方で、男らしくないって思われたらイヤだ、みたいな抵抗感もありました」

わざと女の子にちょっかいを出し、「自分は男の子なんだぞ」と主張してみることもあった。

「男の子として見られたい、女々しく思われたくない、って気持ちがあったんだと思います」

ゲイとしての自覚

女々しく思われたくない、と感じたのは、自分のセクシュアリティに気づいていたから。

「小学1年生の時、自分は男性が好きなんだ、って気づいたんです」

きっかけは、幼い頃から見ていた戦隊ものの特撮番組。

保育園に通っていた頃は、僕もヒーローになりたい、と思っていた。

しかし、小学生になると、タイトなスーツを着た悪役に目が留まる。

「これだ! って、雷に打たれるような感覚があって、男性的な姿にドキッとしてる自分がいたんです」

「幼いながらに、自分の性的な指向に対する確信みたいなものがありました」

「ただ、このことは人に話したらダメだ、って感覚も強くあったんです」

普段は母に学校であったことを事細かに話していたが、「戦隊ものを見て興奮した」とは言えなかった。

こっそり秘めた好意

航空会社に勤めていた母は、海外旅行が好きで、オーストラリアやイタリアなどに連れていってくれた。

母の意向でホームステイすることが多く、現地の人と触れ合う機会にあふれていた。

「第二次性徴が始まる小学5年生くらいから、外国で出会う男性に目が行くようになったんです」

ホームステイ先のおじさんを見て、ドキッとすることが多かった。

「無邪気な振りをしておじさんにハグしたり、プールで遊びながら胸毛を触ったりしてました(笑)」

「その時も、お母さんにはバレちゃいけない、って思ってて、いかにバレずにスキンシップを取るかみたいなゲーム感覚でしたね(笑)」

03学業で抑え込んだ感情

自ら取り組んだ勉強

中学に進んでからは、勉強に打ち込んだ。

「僕は勉強が好きだったみたいです。中学受験をする友だちを見て、自分ももっと問題を解けるようになりたい、って思ったんですよね」

30代後半で大学を受験したり英語を学んだりと、知的好奇心の強い母は、息子の頑張りを喜んでくれた。

母に「塾に行きたい」と言うと、「行きなさい」と通わせてくれた。

「お母さんは学歴コンプレックスがあったからか、息子に期待してるところもあったように思います」

「中学生になってから進学塾に通い始めて、成績も上のほうでした」

「学校のテニス部に所属してたけど、塾を優先するような子だったんです」

フタをした感情

中学生になると、男友だちが「あの子かわいいよね」と、女の子の話をし始める。

中には、男女でつき合い始める子たちもいた。

「僕も同じようになりたい、女の子とつき合ってステータスを保ちたい、って気持ちが湧きました」

しゃべりやすく、お笑いの好みが似ている女の子がいた。周囲には、「あの子が好きかも」と告げた。

「今振り返ると、女の子が好き、って思い込もうとしてたような気がします」

「性的指向は男性に向いてたけど、恋愛感情はよくわかってなかったんです」

高校生になり、一度女の子に告白したが、その時は「友だちでいたい」と断られた。

「振られた時に、女性との恋愛はもうないかも、って思ったことを覚えてます」

「僕は気持ちが顔や態度に出ちゃうタイプなんですけど、女の子に対する “好き” は相手に伝わってなかった。ということは、そこまで強い気持ちじゃないんだなって」

中高生の頃も、男性に目が向かなかったわけではない。

「どっちかっていうと、年上の男性に目が行きましたね。塾の先生かっこいいな、みたいな(笑)」

「気になる男性を見てると、楽しい、うれしい、って気持ちが湧くから、そんな自分に嫌悪感を抱いたり抗ったりすることはなかったです」

ただ、感情のままに流されていくと、欲望にどっぷりハマってしまいそうな予感もあった。

「性的なことに意識を持っていかれないように、勉強に打ちこんでた感覚もありました」

「勉強で結果を出してから、やりたいと思うことをやっていったほうがいいのかな、って考えてたんです」

修復した両親の関係

中学生の頃、別居していた父から母宛の手紙が届いていた。

不穏な雰囲気を感じ取り、手紙の封を開けると、「離婚しよう」と書いてあった。

「すぐにその手紙を捨てて、お母さんに『3人でごはん食べに行きたい!』って、言ってみたんです」

その言葉がきっかけで、数年ぶりに3人で食事をすることになった。

「そこから徐々に3人で会うようになって、僕が高校に受かった時は、3人でタイ旅行に行きました」

一緒に暮らすことはなかったが、両親の仲は以前よりも修復された。

04海外に出て知ったLGBTQのオープンな生活

ようやく知った恋愛感情

高校卒業後、大阪大学に進み、大阪で一人暮らしを始める。

親元を離れ、自分だけの部屋で自分だけのパソコンを使えるようになった。

「浪人時代から、こっそりゲイの人が集まるネット掲示板を見るようになったんです」

「大学に受かったら出会いを求めて活動しよう、って思いがあって、実際にネット掲示板で知り合った人と会うようになりました」

そこで初めて恋愛感情を経験する。

「知り合った人に対して、なんで連絡くれないの、って苦しい気持ちになって、これが恋愛感情か! って知りました」

「実際に会ってみると、なんでこの人に恋してたんだろう、って冷めることがほとんどだったんですけどね(笑)」

出会いは求めたが、大学では自分のセクシュアリティを隠した。

「世間の目を考えて、彼女がいるほうがいいのかな、って考えることはありました」

アメリカのLGBTQタウン

大学に進んですぐ、母に「一人旅がしたい」と相談する。

「お母さんは『いいよ』って許してくれたので、自分で宿を探して、アメリカに行きました」

大学1年生の夏休み、向かった先はニューヨークとサンフランシスコ。

「アメリカでゲイの人はどう暮らしているんだろう、って気になったんです」

ニューヨークに1週間滞在した後、サンフランシスコに移動し、カストロストリートを目指す。

事前に調べ、カストロストリートがLGBTQフレンドリーな街だと知り、興味が湧いていた。

「実際にカストロストリートに行くと、至るところにレインボーフラッグが掲げられていて、オープンな街だと実感しました」

表通りから一本入った住宅街では、ベランダにもレインボーフラッグが掲げられていた。

「アメリカでは、自分のセクシュアリティをオープンにして、プライドを持って生きてるんや、っていい意味でショックを受けました」

当時2006年の日本は、ゲイであることをオープンにできる雰囲気ではなかった。

大阪のLGBTQタウンとして知られる堂山町の近辺を歩くだけで、ドキドキしたことを覚えている。

「日本でも隠さないで生きていけるようになったらいいな、って思いましたね」

リアルなゲイカップルの暮らし

カストロストリートを歩いていると、現地の男性から「何してるの?」と声をかけられた。

「その人もゲイで、パートナーと暮らしてるってことだったので、家に遊びに行ったんです」

キラキラした派手な印象の家は、カップル2人で暮らしている生活感があふれていた。

「それまでホームステイで行った家とは全然違うし、ゲイの人たちのリアルな生活に触れられて、楽しかったです」

カストロストリートには本屋もあり、ゲイライフを楽しむための書籍が並んでいた。

「何も隠さずに生きている様子が新鮮で、その本屋さんには半日くらいいました」

05隠さなくていい「ゲイであること」

LGBTQのパレード

アメリカのゲイライフを体感したからといって、日本での生活を悲観することはなかった。

「どちらかというと、日本も同じように変わっていけばいいな、って期待のほうが大きかったです」

大学2年生のとき、知り合いを増やしたくてゲイのテニスサークルに入った。

ゲイコミュニティを広げていく中で、東京でLGBTQのパレードがあることを知る。

「LGBTQ当事者が街中でパレードをするなんて聞いたことがなかったので、どんなんなんやろ、ってすごく興味が湧きました」

2007年、大学2年生の夏休み、代々木公園で開催された東京レインボーパレード(現東京レインボープライド)を見に行った。

ゲイである自分を認められた

「見に行くだけじゃなくて、僕もパレードに参加して、歩くことになったんです」

ゲイだけでなく、さまざまなセクシュアルマイノリティの人が参加していた。

パレードの一員として歩いていると、沿道からたくさんの人が手を振ってくれた。

「これまではゲイの自分を隠して、ストレート男性の振りをして街を歩いてました」

「でも、パレードでは、ゲイの自分として道の真ん中を歩けた。認められた気がしましたね」

「周りにはセクシュアルマイノリティがいて、一緒に歩く連帯感もあって、一人じゃないんだ、って心強かったです」

自分は自分のままでいいんだ、と思うことができた。

「当たり前のように自分を隠してきたけど、アメリカの光景やパレードを目の当たりにすると、オープンにするってめっちゃいいやん、って心が開かれる感覚がありました」

「自分が隠していたように、周りにも同じような人がいるかもしれない、って気づくこともできたんです」

 

<<<後編 2024/07/21/Sun>>>

INDEX
06 初めてのカミングアウト
07 大切な人に告げないという選択
08 親に本当の自分を伝える理由
09 今の自分だからできるLGBTQの活動
10 “人生” を映像に残す仕事

 

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