INTERVIEW
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彼と養子縁組して良かった。家族の安心感があるから。【前編】

ハツラツとした笑顔が爽やかな宮田大さんは、撮影中にさまざまなポーズをお願いするとノリノリで応えてくれた。名前の通り “大きな心” を感じさせてくれる宮田さんは、聴覚障害者であること、そしてゲイであること、2つのアイデンティティを抱えている。思い悩むことなく生きてこられたのは、時にやさしく、時に厳しく接してくれたみんなのおかげ。

2019/07/21/Sun
Photo : Ikuko Ishida Text : Ryosuke Aritake
宮田 大 / Dai Miyata

1967年、熊本県生まれ。生まれながらに聴覚に障害があるが、小学校から高校にかけて健聴者と同じ学校に通う。中学卒業後、昼は調理師専門学校、夜は定時制高校という生活を送り、19歳で上京。料亭で8年間修業した後、一度熊本に戻り、33歳の時に再び上京。現在は、養子縁組をした11歳下の男性パートナーと生活を送りながら、趣味の自転車競技に精を出している。

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INDEX
01 あらゆる面で支えてくれた家族
02 不満も悩みもない平穏な小学生時代
03 ただただ走ることに夢中だった少年
04 「家を継ぐ」という確固たる未来
05 知りたい自分のセクシュアリティ
==================(後編)========================
06 理想的な結婚とゲイとしての自覚
07 居心地のいい場所と関係
08 大切な人と “家族” になること
09 ありのままを認めてくれる環境
10 当たり前に抱ける夢と未来

01あらゆる面で支えてくれた家族

海の街の旅館

生まれ育ったのは、熊本県玉名郡、海の街。

「海苔を養殖しているので、夏になると町全体が海苔の匂いがするんです」

「養殖場があるからキレイな海ってわけじゃないけど、よく家の目の前で釣りをしてました」

穏やかな町で、両親は旅館を経営していた。

「おばあちゃんの代から続いている、10部屋ぐらいの小さな旅館です」

「宴会場のふすまを外せば大広間になって、結婚式もやったり」

忙しい時は、調理場の手伝いをすることもあった。

「両親が経営しながら、調理場の仕事もしてたので、自分も自然と料理の道に進むと思ってました」

観光する場所も少ない町だったため、旅館の経営は少しずつ傾いていく。

「今は旅館ではなく小料理屋みたいになっていて、叔父さんの家族が引き継いで、営業してます」

口語で育ててくれた両親

家族で聴覚に障害があるのは、自分だけ。

「両親が気づいたのは、自分が1歳の時です」

話しかけても反応がなく、床を叩くと振り返る息子を見て、おかしいと思ったようだ。

病院に連れていくと、耳が聞こえないことがわかった。

「聞こえないことが当たり前で育ったので、不便に感じたことはないです」

「補聴器をすれば、音楽を聞いたりできたので」

歌詞を見ながら、音楽を聞くことが多い。歌詞を覚えれば、なんとなく音楽がわかるようになる。

「両親は手話を使わずに話しかけて、自分がしゃべれるように育ててくれました」

言葉を発した時のろうそくの炎の揺れを見ながら、文字を覚えていった記憶がある。

「あとは、親の喉を触りながら、声の出し方を学ぶこともありました」

「書道の段を持っている母は、文字の書き方に厳しい人でした。しゃべり方にも厳しかった気がするけど、どう叱られたかは覚えてないです」

双子のような頼れる妹

熊本市にあるろう学校の幼稚部に通うため、母と妹と3人で実家を離れる。

「父は実家での仕事があったので、週に1回だけ会いに来る感じでした」

「実家にいる時も、父はほとんど仕事場にいたので、あんまりコミュニケーションを取ってないんです」

1歳下の妹とは顔が似ていたため、よく双子と間違われた。

「昔から仲がいいし、頼もしいんです」

小学校に上がると、耳が聞こえない兄がいじめられていないか確かめるため、よく教室まで来てくれていた。

小学5年で始めた野球も、妹と一緒に練習した。

「1日中、ずっと一緒にいることが多かったです」

02不満も悩みもない平穏な小学生時代

耳が聞こえる同級生

小学校に上がるタイミングで実家に戻り、健聴者も通う地元の学校に通い始める。

「両親は、社会に出た時に耳が聞こえる人と当たり前に話せるよう、小学校のうちから聞こえる人と過ごした方がいい、って考えだったみたいです」

「幼稚部で手話を知ったんですが、このままろう学校で育つと、しゃべれなくなると思ったんでしょうね」

いざ小学校に入ると、同級生はゆっくりはっきりとしゃべってくれた。

「でも、1人でいることが多かったです」

「友だちとコミュニケーションが取りづらい寂しさはあったけど、特に思い悩まずに過ごしてました」

「でも、ときどき神社に行って、聞こえるようになりますように、ってお祈りしてました」

深く考えたことはなかったが、心の底では、みんなと同じがいい、と思っていたのかもしれない。

当たり前の学校生活

勉強の内容がわからないまま、授業が終わることも多い。

「小学校の担任の先生は、6年間で2人いたんですけど、2人ともやさしい先生でした」

「学校が終わってから、1対1で復習してくれたんです」

休日に担任の家に行き、勉強を教えてもらうこともあった。

「いじめられたことがないのも、先生が守ってくれていたからかもしれません」

好きな教科は、家庭科。

「旅館の調理場の仕事を手伝っていたこともあって、じゃがいもの皮むきとかはできたんです」

「包丁の使い方は、クラスの中ではうまい方だったと思います」

「あと、体育も好きでした。小4までは足が遅くて、運動会が嫌いだったけど(苦笑)」

小学4年の時に野球部に入り、運動を始めてから、足が速くなっていく。

「巨人の王貞治選手に憧れて、野球部に入って、高校まで続けました」

「ポジションはライト。目が良かったから、目でボールを追いかけて取る感じです」

男の子に反応する体

小学校高学年の頃から、男の子に興味を持っていたように思う。

「プールで着替える時に、男の子を見て、反応しちゃったんです(笑)」

「周りから変な目で見られて、友だちから『すけべ』みたいなことを言われました(笑)」

「でも、自分としては別にって感じで、気にしてなかったかな」

反応しちゃって変だな、とは思ったが、おかしいと感じる理由がわからなかった。

「当たり前ですけど、当時は自分がゲイだとは気づいてなかったから」

03ただただ走ることに夢中だった少年

スポーツ中心の生活

地元の中学に進むと、学内には自分と同じろう者が4人いた。

「全員、普通のクラスに混ざって勉強してて、たまに耳が聞こえない生徒だけ集まって勉強してました」

「中学でも友だちと遊ぶことが好きでしたけど、会話は少なかったと思います」

「体を動かすことで、発散しているような感じでした」

中学でも野球部に入り、ますます熱中する。

「どんどん足が速くなって、走ることに夢中になっていきました」

「家から学校まで9kmあったから、バス通学が多かったけど、たまに自転車で行ったこともあります」

スポーツに注力していた分、真面目に勉強した記憶はほとんどない。

「中学の先生は厳しい人ばかりでしたけど、勉強はやらなかったです(笑)」

「母にも『勉強しなさい』って、言われたけど、聞いてませんでした(笑)」

母も旅館の仕事で忙しかったため、しつこく叱られることはなかった。

「小学校高学年ぐらいから、自分自身で物事を判断しなさい、って感じで自由に育てられました」

性的なことへの目覚め

中学生になると、男性にも女性にも性的な興味を抱いていた。

「だけど、恋愛対象になるような人は出てこなかったです」

一度だけ、男の子相手にドキドキしたことがある。

中学1年生の時に、家族や友だちと一緒に行ったキャンプでのできごと。

「小学5、6年生のかわいい男の子がいて、寝る時に抱きついたんです」

「その子も拒否するような素振りはなくて、お互いに触り合うというか、じゃれ合うみたいな」

「誰にも気づかれないように、注意してやってた気がします」

「今思えば、抵抗しなかったその子も、自分と同じような感じだったのかな」

その時もまだ、ゲイという自覚はない。

恋愛対象として見ているというよりは、ちょっかいを出し合うような感覚だった。

「中学3年の終わりまで、性欲の処理の方法も知らなかったです。誰も教えてくれなかったし(笑)」

話のきっかけで、ろう者の友だちが、自慰のやり方を身振りで表していた。

その方法を真似すると、気持ち良くなった。

「処理の方法を知ったのは、遅い方だと思います」

04「家を継ぐ」という確固たる未来

疑わなかった将来

母から、よく「旅館を継いでほしい」と、言われていた。

「両親の期待は、普通にあったと思います。だから、料理の道に入るのは当たり前、って感じでした」

中学卒業後も、当然のように調理師専門学校に進んだ。

「昼間は調理師学校に通って、夜は定時制高校に通ってました。学校と学校の間に、料理屋でアルバイトもしました」

仕出しのアルバイトを始め、実家からバイト先の寮に引っ越した。
当時は、旅館を継ぐことしか考えていなかった。

「どこかの料亭で働いてみたい、って思いは特になかったです」

21時に定時制高校の授業が終わり、長い1日が終わる日々。

「毎日、忙しかったですね」

念願のホームラン

学校とアルバイトに追われる日々の励みは、高校で入っていた野球部の活動。

「1日1回の野球を、楽しみにしてました」

「高校1年の時に、全国大会に参加できたんです」

中学生までは、ヒットを打つこともできなかった。

高校に上がり、1人暮らしを始めてから、帰宅後に素振りを欠かさずに続けた。

「その成果か、高校3年の時にはホームランが打てるようになったんです」

一方で、恋愛をするような時間はなかった。

小さくなっていく情熱

17歳の時、父が旅館の仕事を辞め、町長に就任した。

「父の仕事を継ぐことが当たり前として育ったから、戸惑いましたね。そこで、料理を続ける、っていう気持ちが減ってしまいました」

それでも、調理師学校やアルバイトを辞めるまでは、至らなかった。

「適当にすることはなかったですけど、ほどほどに続けるって感じでした」

幼い頃から当たり前のように目指してきた道が、閉ざしてしまうような気がした。

05知りたい自分のセクシュアリティ

疲れ果てた東京

調理師に対するモチベーションは下がってしまったが、修行のために19歳で上京した。

「熊本でも修行先を探したんですけど、採用してくれるお店がなかったんです」

「それなら、料理を習うために東京に出ていこう、って感じでした」

父が見習いを務めた料亭に、自分も入らせてもらうことが決まる。

「修行のために8年間東京にいて、その間にふぐ調理師免許を取るために、一度お店を変わりました」

厳しい日々の中で、料理へのモチベーションが戻ることはなかった。

「料理自体は好きだったんですけど、仕事で入るのが嫌でした。とにかく厳しかったから・・・・・・」

しかし、仕事を放棄することはせず、真面目にこなしていった。

見習い生活の中で1人だけ、気になる存在がいた。

「自分が働いている料亭に、皿洗いのアルバイトで来ていた女の人です」

まだ大学生だったが、芯の通った強い女性。

「その頃、料理に対する気持ちに迷いがあったので、芯の通ったブレない人に憧れがあったんです」

「恋人まではいかないけど、一緒にドライブに行くような関係でした」

しかし、2人の関係が進展することはなかった。

仕事にも疲れ、熊本に帰ることを決める。

「自分探しのために帰ったようなところがあります」

「料理の仕事に疲れたはずなのに、帰ってからは、実家の調理場を手伝ってましたね(苦笑)」

同性愛は恥ずかしいもの

料亭で働いている頃、先輩から「お前、ホモだろ?」と、言われたことがある。

「その時は『違うよ』って、否定しました」

高校生の頃、テレビのバラエティ番組に「保毛尾田保毛男」という、ゲイをパロディ化したようなキャラクターが出ていた。

このキャラクターを見て、男が好きな男は恥ずかしいものなんだ、と誤解してしまった。

「だから、ゲイだと勘違いされないように隠さないといけない、って思ったんです」

先輩から指摘された理由は、自分の動きにあったのだろう。

「同僚の男性を、じろじろ見ていたからだと思うんです(苦笑)」

「口では『違う』って否定しても、内心は男性を見たい気持ちがありました」

一度、同僚の1人から「一緒に寝たい」と、言われたこともある。

「その時も『僕は違うから』って、断りました」

「同じ仲間に見られたのかな、って感じました」

その頃はゲイという言葉を知らず、自分自身を否定していたから、拒むしかなかった。

見つからなかった新宿二丁目

「その頃は『ホモ』って言葉が主流で、新宿二丁目がホモの街だってことは、なんとなく知っていたんです」

「実際に二丁目に行って、いろいろ知りたい、って気持ちが強かったです」

そもそもゲイとはどういうものなのか、自分のセクシュアリティは何か、知れるかもしれない。

いざ新宿に向かうと、二丁目がどこにあるのか、まったくわからない。

「当時は携帯電話もないし、二丁目の情報がまったくなかったので、新宿をうろうろしただけで帰りました」

「新宿って広いですよね(苦笑)」

東京にいる間に二丁目に行くことは叶わず、熊本に帰る日になってしまう。

 

<<<後編 2019/07/24/Wed>>>
INDEX

06 理想的な結婚とゲイとしての自覚
07 居心地のいい場所と関係
08 大切な人と “家族” になること
09 ありのままを認めてくれる環境
10 当たり前に抱ける夢と未来

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