02 上下関係が超厳しいソフトボール部
03 出会い系を使って沖縄の男子と知り合う
04 もしかしてレズビアン?
05 レズビアンじゃなくて、トランスジェンダーなんだ
==================(後編)========================
06 リスカがバレてカミングアウト
07 「ゴッドファーザー」に出てくる男が本物の男!?
08 おなべバーでのアルバイト
09 待ちに待ったホルモン療法開始!
10 パートナーとは養子縁組を選択
06リスカがバレてカミングアウト
「マミはマミだ。オレたちの子だ」
悩みから抜け出す突破口が見つからず、リストカットは、ますますひどくなっていく。
「血のついたティッシュを見て、最初、母は鼻血だと思ってたんですよ。子どもの頃からマミは鼻血が多かったからって(笑)」
しかし、ある日、枕の下が血だらけになっているのを発見。さすがに、これはおかしいと勘づいた。
「学校にいってないのもバレて・・・・・・。それで家族会議になって、自分はトランスジェンダーなんだってカミングアウトしました」
母は、「私の育て方が悪かったのでは?」と自分の責任のように落ち込んだ。
「そのときに父が、『マミはマミで、オレたちの子であることは変わらない』って認めてくれたんです。あの時代にそういえた父は、本当にすごいと思います」
父は「これはマミの個性なんだ」とも発言した。
「でもぼくは、これは個性じゃない。障害なんだ! 病気なんだ! って主張しました。当時は ”治さなければいけない” と思い込んでいたので、父の発言が理解できなかったんですよね」
カウンセリングでは解決しない
家族会議では、学校の問題とセクシュアリティの問題を分けて考えようということになった。
「中卒だと先々、厳しくなるだろうということで、別の学校に転校することになりました」
セクシュアリティに関しては、はじめ大学病院を受診したが、統合失調症などの精神疾患と診断されてしまうばかりで埒があかない。
そこで、専門のクリニックに通い始めたが、カウンセリングは毎回、3分で終わってしまった。
「ほかの精神疾患じゃないことを確認してからじゃないと、治療を始められないんです。10種類以上の薬を出されて、それを飲むだけでした」
すでにホルモン療法や性適合手術についての知識も、ある程度、身につけていた。
「そのときは、早く手術まで済ませたいって思ってました」
あとで聞いたことだが、両親は「マミが生きていてくれれば、それでいい」と心配を募らせていたという。
07 「ゴッドファーザー」に出てくる男が本物の男!?
悲劇の主人公
新しい高校に通い始めると、親友と思える友だちもできてストレスは軽くなった。
「ちょっと変わってるけど、マミはマミだ。こういう子なんだって認められた感じでした」
居心地は格段によくなったが、リスカは止められなかった。
「切るとスッキリするんですよ。母が家中から刃物をなくしたんですけど、百均ですぐに手に入るじゃないですか。それから、ぼくは彫刻刀を使ってました・・・・・・」
バレないように気をつけながら、夜な夜な彫刻刀で自傷を続けた。
「自分がこの世で一番、かわいそうなんだっていう、悲劇の主人公状態になっていたんです。誰かが声をかけてくれても、自分の殻に閉じこもってしまいました」
初めてのつき合いは部活の後輩
新しい高校でもソフトボール部に入ったが、前のチームに比べたら「草ソフト」レベルだった。
「レベルは低かったですけど、いじめもないし、楽しんでやってました」
初めてつき合った相手は、ソフト部の後輩だった。
「その頃、北海道土産の『熊出没注意』っていうTシャツを着てたんで、『熊』っていうあだ名になったんです」
後輩からは「熊先輩、熊先輩」といって慕われていた。
「つき合ったのは、そんな慕ってくる後輩の一人でした。他に気になる人もいたんですけど、付き合う経験をしてみたいと思って(笑)」
誰かと一度はつき合ってみたい、という気持ちがあったのは事実だった。
「放課後に一緒にご飯を食べたり、ゲーセンにいったりしてましたね。みんなには隠してましたけど」
裏切られた信頼
別れる原因となったのは、信頼していた部活の先生だった。
「その先生は、生徒を自宅に呼んでご飯を食べさせたりする、昔ながらのいい先生だったんです。ぼくも先生の家に、何度もお邪魔してました」
その先生になら、リストカットのこともトランスジェンダーのことも、包み隠さず話すことができた。
ところが、後輩と付き合っていることを知ると、先生は「同性愛は病気だから、お前もおかしい。犯罪と同じことをしている。お前は犯罪者と一緒だ」と。
「しかも、『ゴッドファーザーに出てくるような男が本物の男だ。お前は男じゃない。本当の男は女を見たらムラムラするものだ。お前にはそれがないだろう』とまでいわれました」
信頼していた先生に裏切られたショックは、とてつもなく大きかった。
08 “おなべバー” でのアルバイト
男子とのつき合い方が分からない
将来の目標がはっきりと見えないまま高校を卒業。和光大学の人間関係学部に進学する。
大学では通称名が使えるというので、本名の「摩美」から「摩巳」に改名した。
「いろいろなしがらみから解放されて、大学では自由になれると期待したんですが、そうはいきませんでした」
一番の原因は、6年ぶりの共学だった。同級生の男子とどうつき合ったらいいのか、まったく分からなかったのだ。
「女の子とは話せるんですけど、男同士のノリが本当に理解できなかったです」
男性になろうとして男ものの服を着ても、ボーイッシュな女にしかみえない。自由になるはずだった大学には居場所が見つからなかった。
「それで考えたのが “おなべバー” でした。まったく経験はないし、新宿二丁目にいったこともないのに、いきなりお店に電話をして、おなべバーの面接を受けました」
そこにいけば、自分と同じ人に会える、きっとカッコいい人たちに会える。そんな期待を抱いてのチャレンジだった。
誇張された男性像を強要された
思い切って飛び込んだおなべバー、最初のうちは楽しく働くことができた。
「自分と同じ人がいて、ようやく居場所を見つけることができたって感じました。ここなら自分らしくしていられるって、思いました」
しかし、それは長続きしなかった。
「座り方、歩き方、飲み方、すべてにこうしなければいけない、という型があるんですよ。例えばハンバーガーを食べるときは、上から叩いて潰してから食べるんですよ。それが男らしいって。信じられますか(笑)」
誇張された「男」を演じなければいけない。それを強要されるうちに、だんだん息苦しくなっていく。
「自分のパートナーのことは、『女』って呼ばなきゃいけないんです。それも嫌でした」
それだけではない。
「本物のトランスジェンダー男性は・・・・・・」という教えまであった。女性だった過去は捨てろ、戸籍を変えて埋没しなきゃ男じゃない、と押しつけられたのだ。
「彼らは、自分たちのことをトランスとか、トラって呼んでましたね。まだ、ホルモンを打ってないっていったら、そういう場所に連れていかれて、早く打てって急かされました」
当時の彼らの流儀でいえば、ガイドラインに乗らない移行のほうが “カッコいい”
のだった。
「ぼくも本当は早くホルモン療法をしたかったんですけど、ガイドラインで進めたい気持ちも強かったので、今のタイミングで打っちゃ絶対にダメだって、なんとか我慢しました」
09待ちに待ったホルモン療法開始!
髭が生えてきた!
おなべバーで働くうち、金髪、サングラス、オーストリッチのセカンドバッグという姿になっていた。
「その格好で大学にもいってました(笑)。でも、個性的な学生が多い大学だったから、それほど目立ちませんでしたよ」
「財布を持たない主義の年上の人とつき合っていたことがあって、そのときはお金が必要だったんで、大道芸で稼いでいました。いいときはかなり稼げるようになってました」
そして、20歳のとき、ついに性同一性障害の診断が降りてホルモン療法を始めることになる。
「両親も、やっとだねって喜んでくれました」
ホルモン療法の効果として、憧れていたもののひとつが髭だった。
「生えない人もいるって聞いていたので、髭が生えてきたときはうれしかったですね。髭を濃くする方法を調べて、いろいろ試してみたりしました」
試行錯誤してきた一人称も、晴れて「ぼく」「オレ」を使うようになった。
ろう者のアイデンティティを知る
大学3年生のときに、ひとりのろう者との出会いがあった。
「初対面のとき、その人にいきなり『あなた、工事終わったの?』って手話で聞かれたんですよ。本当にびっくりしましたね」
「工事、終わったの?」は、「もう手術したの?」という意味だ。
初対面の人からストレートに投げかけられた質問を、自分も不思議なほど素直に受け止めることができた。
「FTMですけど、手術はまだなんですよって自然に答えられたんです。その会話が、とても心地よかったんです。ろうの人たちのマイノリティ性が、自分たちと似ている、とも思いました」
その出会いをきっかけに手話を言語としてとらえ、ろう者の文化を理解するようになっていく。
「彼らには、ろう者というアイデンティティがあり、文化があるんです。ぼくにとってのアイデンティティはトランスジェンダーであることだ、って気づくキッカケになったんです」
福祉関係のキャリアをスタート
大学を5年半かけて卒業。
手話関係の仕事は通訳くらいしかなかったため、業種を問わず、積極的に就職活動を行った。
「面接では『男なの? 女なの? はっきりしなよ』とか差別的な扱いを受けたこともありました」
「女ならスカートを履いてきなよ」
「女子の制服を着るならいいよ」
心ない言葉もかけられた。
そして、なんとか見つけた仕事がLGBT当事者向けの相談員だった。
「しばらくして、先輩の紹介で福祉施設の仕事の話が回ってきました。でも、いってみると、畑のボランティアだったんです。虫が嫌いなんでできませんって断っちゃいました(笑)」
おなべバーで働いていたときに、福祉関係で働くお客さんのネガティブなな言動に何度も接し、業界に対していい印象がなかったことも、断った理由だったと思う。
「それから半年して、同じ施設から営業職を募集しているけど、どうですか? って連絡があったんです。手話も使えるし、やってみようかなと思いました」
会社に入ってみると、営業だけではなく利用者の面談などの仕事も担当した。
「だんだん福祉に対するバイアスもなくなって、今の仕事につながる基盤ができました」
10パートナーとは養子縁組を選択
天然で面白い人
福祉の職場にひとり、面白い女性がいた。
「ぼくをリクルートした人なんですけど、天然ですごく面白い人なんです」
両親にその人のことを話すと、「今どき、そんな純真な人がいるのか。会ってみたい」ということになり、職場の人として実家に連れて行った。
そのうちにつき合いが始まった。
「実は、その人が、今のパートナーなんです」
それまで家に連れてきていた女性とはメイクや服装が全く異なっていたので、母の反応は「あんたのタイプじゃないけど、いい子だね」だった。
「ちょうど引っ越したばかりの二世帯住宅に彼女が引っ越してきてくれて、同棲生活が始まりました」
メスを入れるリスクを回避
福祉施設で働き始めた25歳のとき、念願だった胸を取る手術を行なった。
「ずっとSRS(性別適合手術)もしたい、30歳までに男性として結婚したいって思ってきたんですけど、だんだん考え方が変わっていきました」
体にメスを入れることで負うリスクは、まだ明らかになっていない。かつては40歳までしか生きられない、といわれていたこともあった。
女性、男性どちらの戸籍でも違和感はぬぐえず、いっそトランスジェンダーいう戸籍があった方がしっくりくるとも思った。
「それに自分が生きていく上では、戸籍を変更するメリットはないなと思ったんですよ。トランスジェンダーとして生きたいという夢は、もう叶ってます」
「ずっと一緒にいたいパートナーもできました。それだったら、このままでいいんじゃないかって」
パートナーも迷っているならメスを入れないで欲しいと、意見が一致している。
「ただ、彼女には法律上の家族になりたいという希望がありました。それで法律事務所に相談したら、養子縁組を提案されたんです。いろいろ話を聞くと、それが一番スッキリしました」
まず、父の戸籍から分籍し、新しく作った戸籍に養女として彼女を迎えた。夫婦ではないが、法律上の家族になることができた。
「鹿児島にいるパートナーのお母さんにもきちんと話して理解してもらいました」
LGBTが福祉を使える社会を目指す
現在は、精神保健福祉士の資格を取り、認定NPO法人ReBitが運営する、日本初のLGBTQフレンドリーな就労移行支援事業所「ダイバーシティキャリアセンター」で管理者として勤務している。
「就職を希望する障害がある人に対して就職するための訓練を行う、障害福祉サービスのひとつです。精神障害や発達障害があるLGBTQの人たちからの相談が、全国から届いてます」
就職を目指す人たちの履歴書の添削や面接練習をしたり、就職してからは職場で自分らしく働けるために定着支援をしたり、福祉従事者への講演など、仕事は多岐にわたる。
「だれもが人生のなかで福祉を利用するタイミングがあります。LGBTQもその時々で必要な福祉サービスを安全安心に利用することで、自分らしく生きられる社会を目指したいですね」
そして、過去の自分を消し去ろうとは思わない。
「女性として生活した経験と過去があるから、今の自分があるんです」
今は、「男性ですか?」と聞かれたら、素直に「トランスジェンダーです」ということができる。
「一番しっくりくる言い方は、『トランスジェンダー男性』です」
セクシュアリティに悩んだ自分の半生を振り返ると、嫌だったことも含めてすべての経験が大事だったという思いが強い。
生き方には、たくさんの選択肢があることを伝えたい。