INTERVIEW
等身大の「私」を、まだ出会っていない人たちへ届けませんか?
サイト登場者(エルジービーター)募集

ボロボロだった自分でも、見方を変えたら幸せになれた【後編】

ボロボロだった自分でも、見方を変えたら幸せになれた【前編】はこちら

2017/04/03/Mon
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Mana Kono
河合 純 / Jun Kawai

1984年、東京都生まれ。短大のクラフトデザイン科を卒業し、木工職人を目指すために伝統工芸を学ぶ。しかし、「自分に職人は向いていない」と感じてその夢を断念。しばらくはイベント業界のスタッフ業務などに従事するも、学生時代の学童保育でのアルバイト経験から、保育の道を志すように。その後、幼稚園教諭第二種と保育士の資格を取得。現在はフリーランスのベビーシッターとして働いている。

USERS LOVED LOVE IT! 63
INDEX
01 内弁慶な幼少期
02 みんなの輪に入れない
03 男の体になりたい
04 過保護な母への不満
05 親に内緒でホルモン治療をスタート
==================(後編)========================
06 彼女と同棲した3年間
07 ピースボートで得たもの
08 見方を変えることで広がる世界
09 自分らしくいられる仕事
10 人生は捨てたもんじゃない

06彼女と同棲した3年間

6

実家から解放されたい

京都の学校に2年通って卒業したものの、職人になるという道は考えられなかった。

もちろん就職もしていないから収入もないし、これから住む場所もない。そうしたら、また実家に戻らないと生きていけない。

「家族が嫌いだったから、自分をまた殺さないとあの家では生きていけないって思いました」

「僕にとって、実家は戦場だったんです」

そうして嫌々実家に戻った折に、京都で知り合った友人が、たまたま自分と同じ境遇の友人を紹介してくれた。

彼は、初対面の自分に対しても、臆面なくカミングアウトしていた。名乗った後、「君と同じおなべだよ」と。

そんな態度に、とにかくびっくりしたのを覚えている。

「LGBTをよく知らない相手にも、会って二言目にはそんなことを言うんです。衝撃と違和感がごちゃまぜで、どういうこと!?って思いました」

「当時は、性同一性障害をカミングアウトしている人は、新宿二丁目とかで夜職をしている人が多かったような時代だったんです。だけど、彼は珍しく昼職をしていました」

居酒屋の店長で、とにかく仕事ができる人間だった彼。

そんな彼と徐々に親しくなって、外出することも増えた。

「すると、また親の過干渉が始まってしまって・・・・・・。僕宛にきた郵便物とかも勝手に開けるんですよ」

「そういうのが嫌で、とうとう家出したんです」

恋人との3年間

24歳で実家を出て、その後3年間両親とは一切連絡を取らなかった。

「何も持たずに家を出たんですよ。家もないし仕事もない」

おなべだと自己紹介した友人の居酒屋で働かせてもらうことになり、仕事はどうにかなった。

残るは住む場所だ。

しかし、それもたまたまタイミング良くイベントで女の子と知り合ったことで、無事解決することとなる。

「彼女は看護師で、性同一性障害についても知っていたんです」

「自分の状況についても全部話したら、『そういうことならとりあえずうちに来れば?』と言われて、そのまま3年間一緒に暮らしました」

もちろん、その3年間彼女とは恋人関係だった。

「彼女が今の僕を育ててくれたっていうくらい、本当にすごい人でした」

「彼女は、僕にただ手を差し伸べるんじゃなくて、人との接し方や生きざまを背中で見せてくれるんです」

人と喧嘩する方法も、はじめて彼女が教えてくれた。

「彼女と結婚するかもしれないって思ったんです」

彼女のために、性別適合手術を受けようと思った。

お金なんて全然なかったけれど、借金をしても今手術を受けようと思った。

「それで、子宮・卵巣摘出の手術を受ける ために、タイに行きました」

家族には何も伝えていなかった。

「彼女は、オペに付き合うためにタイにも同行してくれました」

「でも・・・・・・無事手術を終えてからも、僕は派遣で働いてたんです」

「手術で作った借金は完済しましたけど、正社員になるわけでもなく、どうするわけでもなく・・・・・・それで彼女とは結局別れちゃったんです」

別れてしまったけれど、彼女への感謝の気持ちは今でも決して忘れてはいない。

彼女がいてくれたから、今の自分があるんだ。

07ピースボートで得たもの

彼女が見た景色を見たい

「別れてからも、僕は彼女のことが大好きだったんですよ」

彼女と付き合っていた頃、彼女が以前乗ったというピースボートの話を聞くことが多かった。

「ピースボートから見た星空がすごく綺麗だったっていう話をされたし、ピースボートで知り合った友達と遊びにいったりすることも多かったんです」

彼女が見た世界、魅了された世界を見てみたいと思った。

彼女が言っていた「時間はあるのは武器だし、経験できるのは今しかない」という言葉も頭をよぎった。

そして、当時働いていた職場でどうにか1ヶ月休みをもらって、ピースボートに乗ることを決意した。

2年前のことだった。

船でのトークショー

「ピースボートの空間って、本当になんでもありなんですよね」

船では、16歳から93歳まで、年齢も生まれ育ちもさまざまな人たちだらけだった。

「いろんな人生があって当たり前なんだって思いました」

自分は、確かに性に対してはマイノリティだった。

でも、周囲を見渡せばいろんな境遇の人が山ほど存在するのだと、はじめて気づくことができた。

そうした中で、自ら企画を出して、船でトークショーを開催しようと思い立った。

「自分は早くからホルモン治療をしているので、その影響で病気になったり早死にするかもしれないってずっと思ってたんです」

それなら、死ぬまでにどこかで名前を残したいと思った。

「別に有名人になりたいっていうわけではなくて、『こういう面白いやつが生きていました』って何かの形で残せれば、それだけでよかったんです」

トークショー当日、会場に集まった聴衆はなんと100人以上。

「2、3人しか来ないんじゃないかって思ってたから、本当に驚きました」

自分の生い立ち、FTMであることやLGBTについて、包み隠さず赤裸々に語った。

「そうしたら、トークショーが終わった後にたくさんの人たちにハグされて、『あなたの言葉にすごく勇気付けられました』という言葉もいただいたんです」

自分の言葉が誰かに伝わって、それが誰かの勇気になる。

「ああ、生きててよかったなって思いました」

今までは、自分だけが苦しいと思っていたし、だからこそずっと殻にこもっていた。

でも、自分は誰かの役に立つことができた。

「トークショーをしたことで、自己肯定感が生まれてきたんです。今までそういうのは一切なかったんですよ」

ようやく、自分で自分を認めてあげられたような気がした。

08見方を変えることで広がる世界

8

家族思いの彼女

トークショーの成功以外にも、ピースボートでは大きな出会いもあった。

船で知り合った女性と恋が芽生えたのだ。

「彼女はすごく繊細で、俺よりも繊細で、とにかく家族思いだったんです」

「お母さんを大切にするために私は生まれてきた」、「お母さんはすごく大変な思いをしてきたから、今は私が幸せにしたい」、そんな言葉を何度も口にしていた彼女。

「でも、当時はその思いの素晴らしさに全然気づかなかったんです。ウザいこと言ってんなーって思ってたんですよ」

なぜなら、自分は彼女の考え方に共感できなかったから。

共感はできないけれど、家族と距離が近くて仲がいい彼女を羨ましいと思うことはあった。

「だから、家族の話で喧嘩になることも多かったです」

「家族を大切にしないのなら、あなたとは将来結婚できない」、そう言われたこともある。

彼女がなぜそんなことを言うのか、当時はまったく理解できなかった。

「でも、別れてからわかりました」

「彼女とはもう別れちゃったんですけど、別れてから、彼女ってすごく俺の本質を見ていたんだなっていうのがすごくよくわかりました」

自分は、彼女のことを何も見ていなかった。

彼女の本質を見極める目を、まだ持っていなかったのだ。

「そう気づいた時に、『じゃあそれって、家族も一緒じゃね?』って、すごくクリアに見えてきたんです」

家族と向き合う

付き合っている最中は、彼女が持つ素晴らしい側面に気付くことができなかった。

じゃあそれと同じように、これまで大嫌いだった家族にも本当は素敵な部分がたくさんあって、自分がそれにまだ気付いていないだけなのかもしれない。

「そこから、母への接し方もちょっと変わりました」

「これまで自分の話し方はすげーキツかったんだなあって思って、ちょっと優しくなったりもしました」

悪く言えば毒舌、良く言えばディスカッションする家庭だったから、ついつい言葉が強くなってしまいがちだった。

そして、売り言葉に買い言葉で、どんどん言い合いがヒートアップしてしまうのだ。

「だけど、そうやって言い合うんじゃなくて、黙っている時間も大事なんだなっていうことに気づいたんです」

感情に任せて言葉を連ねるのではなく、いったん黙って相手の意見を聞くことで、円滑なコミュニケーションを取れるようになった。

「そうしたちょっとした歩み寄りが積み重なって、今は家族ともすごくいい関係を築けています」

「今は家族が大好きなんです」

心に余裕ができたことで、友人から「純変わったね、丸くなったね」と言われることも増えた。

09自分らしくいられる仕事

フリーランスのベビーシッターとして

紆余曲折を経て、現在はフリーランスのベビーシッターとして働いている。

「職人を目指そうとしていた時もあったけど、才能がないなって自分で気づいたんですよね」

そうしてシッターをしているが、もともと子どもが好きだったというわけではない。

「むしろ、子どもは大嫌いだったんです(笑)だって、泣いたり騒いだりうるさいじゃないですか?」

「でも、泣いてる乳児のそばを僕が通るだけで、子どもが泣き止む。そんなことがすごく続いたことがあって、18歳の時に学童のバイトをしたんです」

当時の経験もあって、再び保育業界を目指すようになった。

今では、幼稚園教諭第二種と保育士の資格を取得している。

「自分でも、まさかこうなるとは思っていませんでした」

生き生きと働けること

フリーランスで働くことは、性に合っている。

「僕、トラブルメーカーなので、どこかに所属すると結局うまくいかなくなっちゃうんですよね(笑)自己主張が激しくて」

「でも、ゆくゆくは自分の幼稚園が欲しいと思っているんです」

そのために、これからまた大学に編入し、幼稚園教諭第一種の免許を取得する予定だ。

「オーナーをやるにしても、一回施設長なり園長なりやらないと現場がわからないので、そのための免許を取ろうと思っています」

これまではバイトも含めてなかなか仕事が長続きしなかったけれど、今の仕事はとても楽しい。

「仕事だと全然思ってないんです。仕事っていうよりも癒しですね」

「子どもと同じ目線で楽しんでいます。今はベビーシッターをやらせてもらえて、すっごい幸せです!」

何かと孤立したり少数派になる事が多かった人生。女性が多い保育業界の中でも、自分は男性というだけでマイノリティだ。

「だけど、自分らしくいられる場所、自分が笑っていられる場所は、ここかなって思ってます」

10人生は捨てたもんじゃない

_MG_0875(800✕500)

予想外の結末

「今までずーっと自己中に生きてきてやりたいこと三昧だったので、今やりたいことがないんですよ(笑)」

「やりたいことリストを100個作ろうとしてるんですけど、まだ25個ぐらいしか書けてないんです」

ピースボートでの経験や、さまざまな人たちと出会って愛情を与えられたことで、これまで空っぽだった心が満たされていったのかもしれない。

「18歳の時の自分だったら、家族との縁を切ってひとりで生きていく道もあったと思うんです」

「でも今は家族が大好きだし、こんな結末があるんだって自分でも信じられないくらいですよ」

性のことももちろん悩んでいたけれど、それと同じくらい、家族への悩みが大きかったこれまでの人生。

「母親に対して、本当にずっとネガティブなフィルターがかかっていました。それがゼロになるなんて、人生って本当に捨てたもんじゃないなって思いますね」

変化は特別なことじゃない

悲惨だった昔と比べたら、今の世界は本当に柔らかい。

「前に『幸せって布団のようなものだよ』って言われたことがあって、ずっと理解できなかったんですけど、今ならわかります」

幸せは、あたたかな布団みたいに実は近くにあるものだ。

考え方や見方次第で、ネガティブが一瞬でポジティブに変わることもある。

自分も昔はボロボロだったけど、それがこんなにも幸せになれるんだから。

「だから、この記事を読んだ人も、何か迷うことがあったら『僕にもできるかもしれない』って、なんとなーく感じてもらえたらいいなって思いますね」

「僕は実際にその変化を経験できたけど、別にこれは特別なことじゃなくて、誰にだってできることなんです」

「そんなのは自分にはできない、無理だ」と諦めて、殻にこもってしまうことは簡単だ。

でも、そこから一歩を踏み出せば、大きな世界が広がっている。

あとがき
「空気みたいに扱われていました」と、いじめに遭っていたころを語る純さん。そんな話しのときも表情が曇ることはなく、自戒も込めて笑いも誘った■純さんの強みは、人を信頼して委ねられるところ。大人も子どもも、信じて任せられた人はみな自信をもって事に当たれる。出会えた人たちから教わった体験なのかもしれない■生き方のモデルは、けっこう近くにある。上手に学びながら、でもそれに近づかなくたっていい。純さんのまま歩けばいい。(編集部)

関連記事

array(1) { [0]=> int(25) }