02 大好きな母とのお出かけ
03 どうして離ればなれに?
04 児童養護施設での日々
05 早くここから出たい
==================(後編)========================
06 やっと解放された
07 生きづらさの理由は?
08 私はMTFなんだ!
09 心を大切にしていきたい
10 女性らしく生きる
066. やっと解放された
大人が怖い
中学校を卒業した後、職業訓練校を経て、プラスチックメーカーに就職。
大阪にある寮から、奈良の工場に通う日々が始まった。
「ようやく、施設から解放される。嬉しい気持ちでいっぱいでした」
「仕事に精を出して生きよう、と少しは前向きに考えられるようにもなりました」
毎日、生産ラインに立ち、水道管の継ぎ手を製造する仕事だった。新たな生活は順調に滑り出したかに見えたが、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。
「今まで出会ってきた大人といえば、学校の先生を除けば、施設の職員だけでした」
「『大人=職員』というイメージが染み付いていて、職場の人と接するたびに、怖くて仕方がなかったんです」
同僚や先輩が辛くあたったり、態度が冷たい、というわけでもなかった。
とにかく大人というだけで、恐ろしくて、おどおどしてしまうのだ。
「そのうち職場に出勤することができなくなりました。でも会社を休む時には、理由を上長に告げねばならない。迷いに迷って『心の病』と書きました」
意を決して
自分が欠勤しがちになっている。その情報は、施設の職員の耳に入った。
「児童養護施設を出ても、その後の何年間かは施設が親代わり、と聞いていました。」
ある時、仕事中に施設の先生が来てるよと言われ、作業服のまま工場を飛び出した。お金も持っていなかったので、逃げるに逃げられず工場に戻ったところ、結局、見つかってしまう。
施設にいた時と同様に、説教されることになる。とりわけ「心の病」を欠勤の理由にしたことが、職員の逆鱗に触れたようだった。
「社会人として新たな生活を始めても、結局、施設から逃れられないんだ、と気づき、絶望しました」
「でも、やっぱり職場の人が怖くて、出勤できない。かといって、また休むと職員が来て、説教される。会社を辞めれば、なおのこと激怒されるし」
前にも後ろにも行けない、迷いの日々だった。しかしあるとき、意を決して行動する。
「会社に欠勤届を出して、その間にこっそりと逃げるように荷物をすべてまとめ、寮を離れました」
そのまま母親がいる実家に向かう。
「その頃、母は私の実父と暮らしていました。突然、大荷物を持って帰って来た我が子を見て、すごく驚いていました」
「『今から施設に行って、縁を切って来て!』。必死の形相で、母に頼みました」
施設にいるとき、「ここから出して欲しい」とあれほど頼んでも応じてくれなかった母親が、このときばかりは、なぜか自分の願いを受け入れてくれた。
「母はすぐ施設に行って、私を引き取る手続きを取ってくれました。『前の晩、あんたが引っ越ししている夢を見たと思ったら、本当に来た』と、素直に私に従ってくれた理由を話していましたけれど」
「施設から出たい」。
小学校2年生から願い続けた夢が叶った。
07生きづらさの理由は?
新たな生活
母と実の父と3人、アパートでの暮らし。
毎日のなかに、昔から欲しかった、ごく普通の家族の風景が並び始めた。
「実父と暮らすのは初めてだったけれど、優しい人でした。私も自立しないと思い、1年で家を出たので、一緒にいられたのは、わずかな時間でしたが」
その実父も自分が二十歳になる前に、病気で死んだ。
実家に帰ってしばらくして、戸籍上の父親(異父)も亡くなっていた。
仕事はアルバイトを転々としていた。
ハガキ・ポスターの出荷作業、新聞配達など。生活をするために選んだ職で、好き嫌いで選んだ訳ではない。
正社員として働いたこともあり、鉄工所には3年勤めた。
「上下グレーの作業着に、帽子を被って。事務作業などもありましたが、工場で働くことが多かったです」
「今の私なら、そういう格好で働くことは想像できないのですが、その頃は自分は男だと思って疑わなかったし、まだ違和感には気づいていませんでした」
男として
しかし、なかなか一つの職場で定着することができなかった。
「施設で育った経験から、他者への恐怖心がどうしても消えない。基本、人間関係を構築するのが苦手だったんです」
「あと。そのときは考えもしなかったんですけど、もしかしたら男として生きることに、どこかストレスを感じていたのかもしれないです」
男として生きる以外、選択肢を知らなかった。
加えて、世の中に対する恐怖の念をなんとか拭わないと。
全てを施設のせいにしていたから、それ以外の可能性に目が向かなかったのかもしれない。
「性同一性障害なんて言葉も、知らなかった。テレビで女装した芸能人を見ることはあっても、当時はまだ面白おかしく扱われているだけだったので、私はこれではないと感じ、気に留めることもありませんでした」
女性との恋愛も経験した。
どの人とも付き合えば3年くらいく続いたが、あくまで受け身だった。
「一度だけ、出会い系の雑誌に応募して、女性と出会ったこともあります。結局、その時は結婚するまでには至らなかったけど」
意識するまでもないくらい、男として生きる選択しか知らなかった。
それ以上のことは、考えなかった。
08私はMTFなんだ!
施設の影
「人間関係がうまくいかないなか、どうして自分は生きているんだろう、そればかりを考えていました」
いつまでも答えが出ないままに悩んでいたら、いつしか精神が蝕まれていた。
心療内科を受診すると、不安神経症との診断が出た。しかし治療を始めても、気持ちは晴れない。
「身も心もアップアップした状態が、何年も続きました」
やはり児童養護施設でのトラウマは癒えない。
母親に施設に預けられ、塗炭の苦しみを味わった経験から、仕事に通うことすら、外部の人間に預けられることのように思えてくるのだ。
「職場に行けば、どうしても外向けの自分を演じなければならない。施設で上級生や職員に嫌われないように、己を押し殺していた日々が思い出されるんです」
不安に襲われる日々が続く。
「どの職場でも、上司から見たら私は頑張って働いているように見えたようです。でも、そう思われれば思われるほど、自分を演じていることになるので、複雑な感情になりました」
施設での記憶をどうしても葬ることができない。
気持ちが押しつぶされそうになっていたとき、予期せぬ展開が待ち受けていた。
GIDって?
「今から2年前のこと。不意に目眩がしたり、呼吸困難になることが続いたんです。元々、不安神経症で心療内科には通っていましたが、経験したことのない症状で」
「総合病院に行っても、原因不明と言われたんです」
孤独感と不安から、毎日毎日、自分は死ぬんだ、と追い詰められる気持ちをネットの掲示板に書き込んだ。
あまりに混乱して、自分がどの掲示板に書き込んでいるかも、理解できていなかった。
気づいたら、セクシュアリティの掲示板に、自らの不安を綴っていた。
「どんなことを書き込んだのかも、今となっては覚えていません。返事をくれた人と電話で話していたら、あんた性同一性障害なんじゃないの?と言われたんです」
初めて性同一性障害という言葉を聞いて動揺したのか、今度はゲイの掲示板に何かを書き込み、「あなたはゲイではないよ」と言われた。
「だんだんとGIDの意味がわかってきて、そうかもしれないと思いました。振り返れば、確かに私は外見的にも性格的にも、そうであることに気付いたんです」
「普段、作務衣を着ている時に、女子に間違われたこともあり、それも性同一性障害と関係があったのかなと思いました」
止まっていた人生が動き出した。
09心を大切にしていきたい
深まる性自認
「知人に性同一性障害かもしれないと指摘され、どうしたらいいかな?と聞いたら、女装バーへ行ってみたらいいんじゃない?と言われました。話の展開が早すぎて、付いて行けなかったのですが、かといってGIDの人が集まる場所も知らないし、試しに足を運んでみることにしたんです」
まだ性への違和感に気づいたばかりだ。知人だけでなく自分も、まだ女装家とGID当事者の区別が付いていなかった。
それに専門医の診察を受けてみなければ、本当に性同一性障害かどうか、分からない。
「実際に女装バーに足を運んでみて、興味を持ちました。自分の中の何かが解き放たれるかもしれない。そう思って、働くことにしました」
女性の服を着て、化粧もしてみた。中性的な顔立ちも手伝ってか、思った以上にしっくりきた。
「ママは女装をしていたけれど、ヘテロセクシュアルだと言っていました。最初は居心地が良かったんですけど、働くうちに、女装家のお客さんと自分との違いが浮き彫りになってきたんです」
お客さんの大半は女の子に憧れて女装している人だった。
「私は外見じゃなくて、女性の心を大切にしたいんだなと思ったんです。女装して性的な行為をしたい訳でもなく、自分の中に女性の気持ちがあることに気づいたんです」
仕事を通して、性別違和、性同一性障害への理解がぐっと深まった。と同時に、自分のような人が集まれるお店を作りたいと思った。
「その女装バーは、女装家が集まる場所だというだけで、お酒のメニューも充実していなかったので。きちんとした店で、GIDや理解を示してくれる人、一般のお客さんも、もてなしたいと考えたんです」
使命感をもって
まずは自分の家を開放して、GID当事者やアライが集まれるサロンにした。
「でもまだ自分の名前を覚えてもらっているうちにお店を出さないと、と思ったんです。女装バーのお客さんの中には、自分の性別に違和感を持つ人もいたからです」
幸い、支援者が見つかった。店の経営方針は自分の好きなようにしていい、とも言ってくれた。
「はじめは女装さんもオーケーにしていました。でも、女装業界の上下関係を押し付けてくる人もいて、一般の人が入りにくい雰囲気になってしまったんです。あと、一時の交際相手を漁る人も現れ始めて」
とにかく「こころ」を扱いたいと思っていた。
自分と同じ気持ちで苦しんでいるGIDが来られたら、と。
その上で純粋にみんなが楽しめる場所、垣根のないお店にしたかった。
「昨年7月にオープンしたものの、一旦クローズして、10月から紹介制にしたんです。自分の理想のお店に近づいた気がします」
女装バーで働いているときに必要性を感じた、来る人の心を大切にする店。
使命感、背中を押される感じがして、人生で久しぶりに思い切った行動に出た。
どうやらそれは、間違いではなかったようだ。
10女性らしく生きる
カミングアウト
2016年は激動の1年だった。
性同一性障害への気づき、お店を始めただけでなく、家族へのカミングアウトも済ませた。
カミングアウトには、ある人の言葉が支えになった。
「お店の常連の男の人に誘われて、ドライブに行ったんです。そのときに『女性として魅力的だよ』と言われました」
「まだ当時は、プライベートでは中性的な格好をしていたし、褒められることになれてないから、どんな顔をしていいか分からなくて」
戸惑う自分を見て、その人は言ってくれた。「『かわいい』って言われるのは、女の子の特権なんだから、『ありがとう』って言っておけばいいんだよ」と。
「思わず、大粒の涙を落として大泣きしたんです」
自分はMTFだとストンと落ちた、確信の瞬間だった。
しばらくして姉、母親にカミングアウトした。
「母は良い意味で、無反応でした。あっそうなんだ、みたいな。姉は『そう言われればそうだね』という反応でした」
友達も「わかる〜」というリアクションだった。
自宅近くの商店街の人たちも同じだ。
理解の輪が、広がっていった。
心を磨いて
「性同一性障害だって気づいてから、めまいや呼吸困難も治ったんです」
自らのセクシュアリティへの理解が、心にも良い作用を生んでいる。
2017年に入ってすぐ、2人目の医師から性同一性障害の診断が下りた。2月下旬には性別適合医療の判定会議にも通り、ホルモン投与治療もスタートさせた。
「もっと若いときにセクシュアリティに違和感を持てたら、治療も早かった。性別適合手術も受けて、今ごろは、戸籍の上でも女性として生きていたかもしれない。そう思うこともあります」
「淋しくて、悲しくて、苦しくて・・・・・・。だから自分のセクシュアリティの問題にまで、目が向かなかったんです」
だから迷う。
セカンドオピニオンが出たことを喜びながら、この歳になって治療を始め、女性の身体を手に入れることに意味があるのだろうかと戸惑うこともあった。
それでも手に入れてみたいとは思う。が、全部得ることはできなくてもいいとも感じる。それは女性として元気でいることが大切だと思うから。
「今はさまざまな選択肢があるけれど、基本は心かな、と考えています。女性の心を磨いていきたい。治療のことは、身体と財布に相談して考えようと思います」
「心といえば、施設で育って一つだけ良かったことがあるんです」
「大人の気持ちを考えながら大きくなったから、人の心を察することのできる人間になれたと思います。お店で接客するときに、役立っている気がするんです」
セクシュアリティへの気付きはそれぞれ
GID当事者がよく口にする、幼い時からの違和感や身体への嫌悪。
それは具体的な行動や感情として表れ、服装やランドセルを嫌がったという人は多い。
だから「性同一性障害かもしれない」と口にすると、医師も周囲も、幼少からの違和感の移ろいを追おうとする。
でも、そのような感情の変化を辿らなかった自分だから、性別への違和感について理由を質問されると、戸惑うこともある。
それは今もそうで、これからも続くかもしれない。
「生」を求めてどうにか生き続ける苦しい毎日に、「性」の悩みさえ入る余地はなかった。
けれど遠回りしても、本当の心に出会うことができたのだ。迷ってもいい、その事実さえあれば、きっと前を向いて歩けるはずだから。