02 支えてくれた母と友
03 自らの力で聾の道を切り拓く
04 音のある世界に別れを告げる
05 ゲイを自認するまでの葛藤
==================(後編)========================
06 カミングアウトとその後
07 聾LGBT団体を立ち上げる
08 自分に誇りを持って生きる
09 プライベートの充実
10 お父さんへのカミングアウト
01生後6か月で聾になる
届かない入学通知
川端さんの聴力に異変があったのは、生後6か月頃だった。
ある日、高熱を発し、なかなか熱が下がらなかった。その後、ハイハイやお座りなど、活発に動き始めるようになる9か月頃、両親が名前を読んでも振り向かないことで、耳の異常に気が付いた。
心配して病院に連れて行くと、難聴の診断が下されたのだ。
「両親は、いずれ全く聞こえなくなると医者から伝えられ、『聾学校に進ませることを考えてください』と言われたそうです」
そのため聾学校の幼稚部に3年通ったのだが、ご両親はできれば一般の小学校に通わせたいと考えていた。
しかし、通常は新一年生がいる家庭に届くはずの入学通知は、川端さんのもとに届くことはなかった。一般の小学校に入学するためには、教育委員会の承認が必要だったのだ。
「両親は僕を連れて教育委員会や小学校に行って、入学可能かどうか相談をしたらしい。当時は、聴力も補聴器を付ければ多少は聞こえる程度にはあった。それでやっと入学できることにはなったのですが、今度は特殊学級か普通学級かという判断がありました。その時、入学後に担任になる50代の女の先生が、普通学級に通えるのではと言ってくれたんです」
入学すると、先生の唇を読んで理解できるように、教室の一番前に机を置くなど学校の配慮も得られた。集団での会話についていけないことはあったものの、学校生活に支障をきたすようなことはほとんどなかった。
「物心つくときから、ほとんど聞こえずに育ってますから、ハンデがあるということ自体を、意識していなかったかもしれません」
可愛い子には旅をさせよ
しかし、子供の世界は残酷だ。
早くも2年生になる頃には、耳が聞こえにくいことをからかうイジメが始まった。
イジメは中学校を卒業するまで続いた。中学校では、それまでの耳が聞こえないことだけでなく、「オカマ」と呼ばれてイジメられることもあった。
「後ろから何かを言っているらしくても、僕は聞こえないので何を言われてもわからない。トイレの個室に入っていると、物を投げ込まれるようなこともありました。イジメのことは、母は気付いていたし、僕も相談したけれども、学校に何か言ったりすることはなかった。もしかすると、どう対応していいのかわからなかったのかもしれません」
だからと言って、お母さんが何もしなかったわけではない。
いや、むしろハンデがあるからこそイジメに負けない、強い人間に育てようと一所懸命考えていたのだろう。例えば、クリスマス会や餅つき大会など、子供会のイベントがあれば、積極的に川端さんを参加させた。町内組織なので、当然イジメっ子たちも参加する。
「『可愛い子には旅をさせよ』という教育方針で、どんどん外に出て、聞こえる人からどんどん学びなさいと思っていたのかもしれません。いずれ大人になって社会に出る事を考えて、聾だからといって狭い世界に留まることがないように、いろいろ経験させたいという想いを持っていたのだと思います」
ときには辛いこともあったが、今となってはそれが自分のチャレンジ精神やバイタリティを育んだのだと感じ、お母さんに感謝している。
02支えてくれた母と友
親戚からのバッシング
農家の長男、跡取り息子の耳が聞こえないことで、お母さんは周囲から随分バッシングにあった。お母さんは、いざとなったら家を出て、母子2人で暮らすことも覚悟していたという。
「そのことは、大人になってから母から聞きました。苦労があったと思いますが、どんな時でも僕を守ってくれていたことは、子供ながらに感じました。母は本来社交的な人で、親戚付き合いもそつなくこなしていた。その姿は僕から見ても、たくましい人だなと思いましたね。そんな母からの影響が、僕の心の強さを育てたのかもしれません」
お母さんは今、川端さんのことを「自慢の息子」と言ってくれる。
その理由の一つには、自分が大学院まで進んだことがあるかもしれない、と話す。一族で初めての大学院生であることは、当時のバッシングを振り返れば、誇らしさもひとしおに違いない。
仲良し4人組
もう一つ、幼少期に大きな心の支えとなったのが “仲良し4人組” の存在だ。
近所に住んでいた “勇ちゃん” “よっちゃん” “秀ちゃん” の3人は、イジメに加わることなく、いつも一緒に遊んでくれる仲間だった。
「よっちゃんは、4人の中で一番賢かった子。クラスが同じで一緒にいることが多かったし、授業でいろいろ教えてもらった記憶があります。一番背が高かった秀ちゃんは、苗字が同じ川端で、ひいおじいちゃん同士が親戚だった。勇ちゃんは、勉強は好きじゃないけど、野球好きで活発な子だった」
特に、勇ちゃんは家が隣同士で、学校からいつも一緒に帰っていた。
道すがらイジメの相談に乗ってくれたり、慰めてくれた。他の2人は高校に進学してからは疎遠になってしまったが、勇ちゃんとは今でも実家に帰ると必ず会うという。もちろん、ゲイであることも知っている。
「勇ちゃんは手話が全くできないから口話で話しますけど、ずっと一緒にいて性格も十分わかり合っているので、お互いに言いたいことがわかる。勇ちゃんも家庭の事情が大変だったみたいで、30歳過ぎてからようやく解放されたようです。そんなこともあって、お互いに頑張ろうという意識があって結びつきが強くなったのかもしれませんね」
お母さんや勇ちゃんのように、絶対的に受け止めてくれる人の存在が、耳の聞こえやイジメという困難に遭っても、内にこもることなく、常に前向きな川端さんの性格を作り上げたのだろう。
03自らの力で聾の道を切り拓く
今を生きること
その前向きさは高校進学の際にも垣間見える。
公立高校の入学試験では、英語のヒアリングテストが必須。川端さんにとって、英語も唇を読んだ方がわかりやすく、音だけで判断するというのは、努力ではどうにもならないことだった。その結果、公立高校は不合格。滑り止めで受けていた埼玉県の私立高校に通うことになった。
「でも、私立も自分が行きたいと思って選んだ学校だったので、それほど落ち込みはしませんでしたね」
中学まで続いたイジメは、高校ではピタッとなくなった。
成績がトップクラスで一目置かれたこともあるのだろう。それどころか、クラスでは活発な存在で、1年生から2年生にかけては、生徒会の書記を務めるなど、リーダーシップを発揮していた。
このリーダーシップは、後に聾LGBTの支援団体を立ち上げる際の礎にもなっているという。
またこの頃、学業以外にも、将来に生かせるスキルを身につけようと、簿記2級の資格を取得した。障碍があっても、現実を受け止めながら、その中で出来ることを見つけて取り組むというのが、今も変わらない川端さんのスタイルだ。
この高校時代、人生に大きな影響を与える言葉にも出会えた。
「『今できること、今しかできないこと』。卒業文集の中で、一人の先生が卒業生に向けた言葉の中にあったんです。その先生は体育の先生で、バレー部の顧問だった。あまり接したことはない先生でしたが、その言葉にすごく刺激を受けました。その言葉を可能な限り実践してきたつもりだし、だからこそ今の僕がいると思う」
仕事のイメージを、塗り替える
高校も卒業が近づいて、進路をどうするかを考えた。でも、身近に聾者として目指したいと思える人は見当たらなかった。
小学校6年生から通う手話サークルの先輩は、ほとんどが3交代勤務の工場などの仕事に就き、彼らの顔を見ると皆一様に疲れていた。聾者の仕事といえばそうしたイメージしかなかったのだ。
自分はそれでいいのか。いや、自分は昼間の仕事に就きたい。
そのためには学歴も重要だと考えて、短大の経営学部に進学する。
「幸い自分は大学を出ることができました。進学したことで、多くの出会いに恵まれ、卒業後も聾者のさまざまなモデルを知ることができたんです。それによって、自分が活躍する場所のイメージができたのだと思います」
04音のある世界に別れを告げる
完全に聞こえなくなる覚悟
小学校6年生から手話を学び始めるのは、聾者の中ではかなり早いという。
補聴器を付ければ、一応会話ができる程度の聴力はあったが、それでも手話が必要になる時がいつか来る、という意識を早くから持っていたからだ。
「僕の場合、年齢とともに聴力が落ちていくことは分かっていました。もし知らなかったら、おそらく習得はもっと遅れていたでしょうね。物心つく前からほとんど聞こえない世界に生きてますから、あまり恐怖は感じなかったけど、無音の世界で生きなければならなくなるという覚悟は、常に持って生活していました」
実際に、25歳頃に聴力が一気に落ちた。
一般的にも、この年齢で下がり始めることが多いのだという。
ついに訪れた、その時
「聴力が落ちるだけなら覚悟もありましたが、困ったのはそれと同時にひどく耳鳴りがするようになったこと。耳鳴りは今でも続いています。今はもう慣れましたが、当時は夜も眠れないくらいに辛かった。補聴器を付けていると、耳鳴りに加えて生活音も入ってくるので、すごく不快になる。なので、補聴器を外してしまいました。それ以来、全く音のない生活が続いています。補聴器のない生活に慣れるまでに3年かかりましたが、聞こえないから社会で何もできないということはない。そう思って頑張ってきました」
聾と聞くと、一般には耳が聞こえないことだと思われがちだが、それだけではない苦労があるのだ。
ちなみに25歳というのは、川端さんに初めて「彼氏」ができた年でもある。
05ゲイを自認するまでの葛藤
思わず手に取った『薔薇族』
同性が好きという性指向は、小学校時代からすでに芽生えていた。
元々、男女の別が強くない低学年の頃から、女子的な趣向があったという。外では仲良し4人組でダルマさんが転んだや、鬼ごっこで遊んでいたが、家では妹やその友達とママゴト遊びをすることもあった。
自動車など男の子が好きになるようなものには全く興味を示さずに、妹のオモチャで遊んでいた。
「卒業文集でも将来の夢は花屋さんかパティシエですから、まるっきり女子ですよね(笑)」
高学年になると、自分でも「あれ!?」と思うことがあった。ジャニーズ好きの妹が買った雑誌を見てドキドキしたり、夏のプールの授業では、つい男子のほうを見てしまう自分がいた。
「ゲイ雑誌の『薔薇族』を初めて買ったのもこの頃です。今でも不思議ですけど、普通の本屋で売っていた(笑)。スポーツ関連の本を見ていたんですが、そのコーナーの端のほうに、何故か男の裸の本が置いてあったんです」
川端さんは、思わず手に取り買ってしまう。
こういう世界があるのだという驚き。そして、男女という社会的な刷り込みに起因する、これで自分はいいのだろうかという思いが交錯した。
男女それぞれとの性体験
自分が男性に興味をもつことに、漠然と「おかしいな」という疑問は持ち続けていたものの、いつか治るものだろうと、深くは考えないまま時が過ぎていく。
しかし、男性に対する関心は、いつまでたっても消えることはなかった。その一方で、高校の時に女の子と付き合うということもあった。
「 “女の子を好きにならなければ ” と、意識したわけではないんです。ただ逆に、男性と付き合ってみたいという想いが、より強くなったのも確か。だって、比べてみないことには、どっちがいいのかわからないでしょう」
初めての性体験は短大に入ってすぐ。
相手は男性だった。しかし、そうなると今度は、こんな思いにも駆られる。
「ゲイが聾者のロールモデルになれるのか?」
「そんな葛藤の中、4年制大学に編入した3年次には、女性と付き合ってセックスも経験しました。自分のセクシュアリティをどうすればいいのか、正しい在り方がよくわからなかったんです」
その答えは、25歳で初めて同性の恋人ができた時に、ようやく見つかった。
女性と付き合っているときよりも、気持ちが落ち着くことに気が付いた。自分は男性のほうが好きなのだ、それは否定のしようがないと自己規定できたのだった。
後編INDEX
06 カミングアウトとその後
07 聾LGBT団体を立ち上げる
08 自分に誇りを持って生きる
09 プライベートの充実
10 お父さんへのカミングアウト