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聾LGBTERのロールモデルを示したい【後編】

聾LGBTERのロールモデルを示したい【前編】はこちら

2016/02/03/Wed
Photo : Mayumi Suzuki Text : Masaki Sugiyama
川端 伸哉 / Shinya Kawabata

1979年、群馬県生まれ。生後6か月で聴力をほぼ失う。大学卒業後、スポーツクラブ勤務などを経て、現在は大学職員として勤務する。働きながら日本社会事業大学大学院で学び、日本で初めて、手話の動画による修士論文を提出することで、メディアでも取り上げられた。2014年10月に、聾LGBTの支援を目的とする〈Tokyo Deaf LGBT bond〉を設立し、「かえで」というニックネームで活動している。

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INDEX
01 生後6か月で聾になる
02 支えてくれた母と友
03 自らの力で聾の道を切り拓く
04 音のある世界に別れを告げる
05 ゲイを自認するまでの葛藤
==================(後編)========================
06 カミングアウトとその後
07 聾LGBT団体を立ち上げる
08 自分に誇りを持って生きる
09 プライベートの充実
10 お父さんへのカミングアウト

06カミングアウトとその後

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予定外の母へのカミングアウト

川端さんは大学卒業後、水泳インストラクターとして東京のスポーツクラブに就職したが、1年ほどで退職して群馬に戻り、両親の農作業を手伝っていた。

新宿2丁目には、群馬にいたときも定期的に通っていた。東京で働いていたときに知り合ったゲイの友達に会い、日帰りの時もあれば、一泊することもあった。

こうした生活を続けるうちに、このまま群馬にいていいのかと思うようになった。LGBTの中でも、絶対数の少ない聾者同士の出会いの機会は非常に限られているからだ。

「聾LGBTERにとって、居場所が2丁目にしかなかったんです。だって、群馬では聾でゲイという人は見つからない。初めての彼氏も、手話は多少できたけど聴者でしたし。東京に行かないと情報もないし、出会いもない。だから、25歳で再び東京に出てきてからは、毎週のように通いました。自分と同じダブルマイノリティの人たちとの繋がりも拡がって、それまでの抑圧から、ようやく解放されました」

ゲイライフを謳歌していた川端さんは、27歳の時に初めてカミングアウトをした。

相手は妹だった。

お父さんから早く結婚しろとうるさく言われ、そろそろ家族にも言わなければいけないかなと思った時期だったという。妹にカミングアウトできれば、母にも言う勇気もでるだろうと、まずメールで妹に伝えたのだ。

ところが、思いもよらなかったことが起こった。

なんと、妹がすぐにお母さんに報告してしまったのだ。

「まさか母に言うとは思ってなくて、『オイオイ』って感じでしたけど、母は意外にも『いいんじゃないの?』という反応でしたね。昔、持っていたゲイ雑誌を見つかったことがあったし、結婚しろと言われたこともなかったから、たぶん気づいてはいたんだと思います。カミングアウトから10年経ちますが、もう今では彼氏のことをメールしても、あまり気にしていない様子です。でも、思い返してみれば、複雑な気持ちだったと思いますよ。たぶん、僕が家族内で孤立してしまうことを心配して、認める素振りをしてくれたんじゃないかな」

ちなみに、お父さんは、結婚しろとはもう言わなくなった。

妹が結婚して妊娠したので、孫の顔を見るのが楽しみだと、今はそちらにばかり気が向いているという。

3年間音信不通だった妹

一方、カミングアウトした妹とは、3年間音信不通になった。

川端さんは、反応が怖くて、自分から連絡を取ることもできなかったという。ところが、3年後、突然「お兄ちゃんは、お兄ちゃんのままでいいよ」というメールが送られてきた。

「後から聞くと、妹は当時付き合っていた彼氏(現在の義弟)にも話していたんですね。でも、彼は『よくあることで、別に構わないんじゃないか』と言って、ゲイの世界とはどんなものか、肯定的に説明してくれたそうです。だから、実は割と早くから妹は納得してたそうなんだけど、そのことをわざわざ連絡することもないか、と思ってたらしい。僕は3年の間、受け入れてもらえないでいるんじゃないかと思ってたけど、温度差があったみたい(笑)。まあ、『本当は知ってたけど、何でもっと早く言ってくれなかったんだ』というメールのやり取りを先週したばかりなので、妹なりに悩んだのかなとは思いますが」

現在も兄妹仲は良好で、子供が生まれたら「女子力の高いお兄ちゃんに子守を頼む」と言われている。

07聾LGBT団体を立ち上げる

LGBTERのDV問題

川端さんはかつて、自殺を考えたことがあるという。

23,24歳の頃というから、ちょうど、聾とセクシュアリティの問題で葛藤していた時期だ。

「自殺を考えるほどに悩みが深刻化してしまう大きな理由の一つ。それは聾LGBTが社会の中で生き生きと活動している姿が示されていないからだと思うんです。目指そうと思える形があれば、それが救いになる」

また、32歳のときに、ゲイの元友人からのDV被害に悩まされたことがあった。

毎週会うことを求められ、だんだんと乱暴な言葉遣いや暴力行為が始まり、お金もせびられた。

当時、DV自体はすでに社会的に認知されていて、公的機関による救済システムもあった。しかし、同性間のDVについては、法的にも整備されていない。LGBTへの偏見が払拭されていない日本の現状では、当事者もなかなか表ざたにしにくい事情もある。

「当時は、公的機関に訴えても取り上げてもらえない。レズビアン同士のDVが認められなかった例を知っていたので、僕の場合も多分ダメだろうと判っていました。今では同性同士でもDVが認められて、裁判でも戦えるので、かなり前進したと思います」

聾LGBTのロールモデルを作りたいという考えに至ったのには、こうした経験も関係しているという。

「僕のほかにも、そういう辛い経験をしている人がいるかもしれない。そういう人たちを助けたいと思うきっかけにもなりました。その後、僕と同じく聾LGBTERで、大阪を中心に聾LGBTERの支援活動をしている山本芙由美さんに出会った。彼女からいろいろアドバイスを頂いて、僕も団体を立ち上げることにしたんです」

すべての聾LGBTERが集まれる場所

LGBTERの中でも、聴者と聾者とではあまり接点がない。その理由として、やはり手話などが必要になるなど、コミュニケーション上のハードルが高くなることがあげられる。

それは団体でも同じで、グッドエイジングエールズという団体と、たまに情報交換をするくらいだという。数多くあるLGBT関連の組織も、聾LGBTERならではの問題ついては、あまり詳しいとは言えないだろう。

そのため、聾LGBTERの支援をより効果的に行うには、既存のLGBT団体に所属するのではなく、自分で立ち上げる必要があった。そうして2014年10月、聾LGBTの団体〈Tokyo Deaf LGBT bond〉を設立したのだ。

「以前から、聾でありゲイである人たちの団体はありましたが、そこはゲイだけが集まる団体なんですね。でも、私が知っている聾者はレズビアンもいるし、トランスジェンダーもいる。だから、ゲイだけではなく、すべてのセクシュアルマイノリティが集まれる場所が必要じゃないかと思ったんです」

〈Tokyo Deaf LGBT bond〉では、3つのことに主眼を置いて活動している。

まずは、講演活動などを通じて聾LGBTに対する理解を啓発していくこと。次にLGBTERの相談窓口となるピアカウンセリング、それからLGBTのことを正しく理解した手話通訳者の養成だ。

現在はLGBTについて詳しい手話通訳者は、ほとんどいない。このことは、一般社会と聾者、LGBTERが相互理解を深めるにあたって、大きな足かせとなっている。

大学院の修士論文を「ろうLGBTの支援~日本手話を通して~」というテーマにしたのも、LGBTの知識がある手話通訳者の養成が、喫緊の課題であると認識したから。また、ソーシャルワーカーの啓発にもつながっていくと思ったからだ。

08誇りを持って生きる

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知られていない複合的な少数者のこと

以前と比べれば、社会のLGBTに関する認識は拡がったが、聾LGBTの存在は、まだまだ周知されていない。絶対数が少ないだけに、どうしても社会に声が届きにくくなってしまう。

そのため、いまだに窮屈に生きざるを得ない状況に置かれている。

「本当は、聾者の中にも、LGBTはもっと大勢いるはずです。だけど、まだそれをオープンにできる環境が整っていない。僕のように、聾LGBTERであることを誇りに思ってオープン出来る人は少ないので、自分が率先して示すと言う目的もあります。僕は今、ハッピーな人生を送れていると思う。いろんな辛い経験もしてきたし、そうした経験を含めて幸せだと感じている。それを誇りに思える自分がいますから、その姿を見せて勇気を与えたい」

そうした努力は、少しずつ実を結びつつある。

今年6月には、川端さんも協力した、聾LGBTERが集う初の全国大会が開かれた。来年、仙台で開催する予定の第二回大会でも、川端さんは事務局として関わる予定だ。

「かつてない試みで、非常に有意義な情報交換ができました。今回は手話通訳者養成については提案されていないので、来年は、ぜひ議題に載せたいと思います」

マイノリティの中の差別

残念ながら、聾者同士でもLGBTに対する差別や偏見は存在しているという。

例えば、今でも “ホモ” や “レズ” を指す、差別的な手話がある。手話の語彙は聴者が使っている言葉が元になるからだ。一般社会でLGBTが正しく認識されていなければ、手話にもそれは表れるのだ。

「調べてみると、ホモという差別的な手話は世界共通みたいです。日本手話や、アメリカ手話では、それぞれにゲイを示す手話があって、これには差別的な意味はありません」

差別されがちなマイノリティが、その中でのマイノリティを受け入れない。悲しい話だが、それもまた人間が持つ一面かもしれない。しかし、その状況を変えていく方法はきっとあるはずだ。

「僕と同世代以下の人だと、まだ理解もありますが、50代60代の年配世代になると、今でも差別的な手話を使う人がいます。頭の中ではわかっていても、感覚的にどこかに差別的な意識があって、そういう手話を使ってしまう。でも、私の講演などを通じて、少しずつでもLGBTのことを正しく理解してもらえれば有難い」

聾コミュニティでのLGBT啓発、これはまさに川端さんにしか担えない役割だ。

一般社会に理解浸透させるだけでなく、やるべきことが山ほどあって、これかますます忙しくなっていくことだろう。

09プライベートの充実

論文を手話録画で提出

聾LGBTER支援の活動に奔走する一方で、プライベートも充実した日々を送っている。

働きながら通う大学院では、前述のテーマで修士論文を作成中。この論文は日本で初めて手話を録画する形で提出するということで、多くのメディアでも取り上げられている。

もちろん、大事なパートナーの存在も。月に1回のペースで会う、同じく聾者のパートナーとは、付き合って2年になる。

「彼は大学院卒で30歳。やっと仕事に就いて、社会人になってまだ2年。僕のほうが年上で社会経験も長いから、暖かく見守っている感じですね。彼にはもっと社会経験を積んでもらって、僕は僕でLGBTの活動を拡げていく。お互いに叱咤激励している感じ。今はそういういい関係が続いています」

浮気は容認!?

ただ、一緒に住むなど、将来の話はあまりしないという。

「一緒に暮らせたらいいなとは思いますけど、現状は難しいかもしれませんね。元々彼は都会暮らしが苦手な人で。食わず嫌いしないで、一回都会に住んでみるのも社会経験だと思うんだけど(笑)」

一方で、彼はまだゲイであることを完全にはオープンにはしていない。それもあって、常に2人でいるというのも、いろいろとハードルが高いのだろうと、彼を気に掛ける。

また、パートナーにとっては川端さんが初めての彼氏だという。ほかにも恋愛体験をしてみたいという気持ちがあるのではないかとも思っているので、「僕は浮気容認なので、どうぞという感じです(笑)。ただ、病気には気を付けなさいとは言っています」

10お父さんへのカミングアウト

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新聞を読んだ親戚から電話が

「今を生きる」ことに邁進する川端さんだが、一つやり残していることがある。

それはお父さんへのカミングアウト。自身は言ってもいいと考えているのだが、お母さんから「お父さんには絶対言わないようにしよう」と、半ば止められているのだ。

「父は寡黙で、仕事一筋の人。父の性格を知る母なりの判断でしょう。母は『墓場まで持っていく』と言っています。人は死んだ直後は、まだ聴力が残っているという話を聞いたことがあるので、父が息を引き取ったその時にカミングアウトしようかと、母に相談したこともあります」

とはいえ、今後ますます新聞やテレビに出る機会が増えるかもしれない。そうなれば、それだけお父さんが知る可能性が高くなるということだ。

先日もこんなことがあった。

「修士論文の手話提出について全国紙に記事が掲載されたとき、親戚から電話があったらしいんです。電話を受けたのが母だったので、父には知らなれなかったみたいだけど。でも、僕は耳に入ったら入ったで、それでもいいかなと思っているんです。僕としては逆にその方が有難いくらいで。でも、父は悩むかもしれないな。知った後の反応は気になるところではあります」

しかし、ここまでずっと、全てを守り続けてくれたお母さんに、これ以上心理的な負担をかけたくないという気持ちもある。

父への手紙

今は自然の成り行きにまかせようと決めた。ただ、いつかこのインタビュー記事を、お父さんが読むこともあるだろう。

その時、直接は伝えられなかった気持ちを残しておくのも、いいのかもしれない。川端さんの率直な想いを書き綴った一文だった。

お父さんへ

生まれた時から、耳が聞こえないこと。
当時は受け入れることに、時間がかかったように思います。
いろいろ本当にありがとう。

そして、もう一つ。ゲイであること。
小学生時代からいくつもの葛藤と悩みを抱えてきたけれど、
今、オープンに生きる自分があるのは、
どんな時も味方でいてくれたお父さん、お母さん、妹、弟、
家族がいたからです。

お父さんは寡黙ではあるが、知り合いに会うと饒舌になり、酒も進む。
そんなお父さんが大好きでした。

お父さんとお母さんの社交性を引き継ぎ、大切にしながら、
葛藤と悩みを抱えているろうLGBTの人たちへの支援を、
応援していきたいと思っています。

もしもこのサイトを読んでくれたら、お父さんの悩みを作ることになり、
受け入れるのは大変なのかもしれません。

お母さんは、聴覚障害とゲイである僕に寛大で、
社会へと背中を押してくれました。

でも、お父さん。すぐに理解しようとしなくてもいい。

ただ、ゲイであることが悲観することではなく、
他の人と何ら変わりなく、素晴らしいものがある、輝くものがある。

そんな未来があるということを知ってほしい。

体には気をつけて。
読んでくれてありがとう。

あなたの息子しんや より

このメッセージを読んだとき、お父さんはどんな想いで受け止めてくれるだろうか。

あとがき
“せめて挨拶は手話で” と、直前に駅の鏡でおさらい。正しくできたのかは怪しく・・・。それでも、かえでさんは最上の微笑みをくれた。パソコンを並べて、初めて話したカフェでのこと■通訳さんを介したインタビュー。全身を使って届けられた想いに、ココロも目も離せなかった。エピソードの終わりには「・・・でも、どうにかなると思いました(笑)」と、大抵加えられた。そんなかえでさんの軌跡には、いつも、ずっと家族がいた。(編集部より)

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