02 探し続けた “苦痛から逃れる術”
03 “働く女性” に厳しい時代
04 私を求めてくれる場所
==================(後編)========================
05 親として子どものためにできること
06 末っ子はトランスジェンダー
07 子どもたちとの向き合い方
08 私があなたに伝えられること
01我が子に与えたいものは「自由」
生き甲斐のような仕事
現在のライフワークとなっている企業研修は、全国各地で行っている。
「2020年の頭までは、ほぼ毎日出張で、週に1回家に帰るような日々でした。仕事をしてる自分が好きなんです」
「担当する企業は多岐に渡って、コミュニケーションスキルだったりロジカルシンキングだったり、研修の中身はさまざまです」
「製造業で生産管理の研修をしたり、住宅メーカーでプラン図を描くセミナーをしたりすることもありますよ」
もともと伝えることが好きだから、この仕事は天職かもしれない。
「ありがたいことに、一度依頼していただいた企業は、そのまま継続してくれるところが多いんです」
生き甲斐のような仕事も、新型コロナウイルスの影響で一時ストップとなった。
「20年ぶりくらいに休みました。前の会社を退職してから、初めての休みかも(笑)」
「子どもたちから『お母さんがこんなに家にいるなんて』って、驚かれましたね(笑)」
自立と自律
子どもは3人。大学生の長男、高校生の長女、中学生の次男。
「3人とも、めちゃくちゃ自立してるんですよ」
出張で長く家を空けても、子どもたちは自分でごはんを作り、掃除をしてくれる。
「長男を産んだ時から、私はいずれガンガン働き出すだろうから、何もできない子どもだと困る、と思ってたんです」
「だから、 “自立と自律” というテーマで、子育てしてきました」
その中で行ったことの1つが、子どもの質問に答えないこと。
「子どもに『これどうしたらいい?』って聞かれたら、『どうしたらいいんやろうね?』って聞き返すんです」
「子どもが自分で考えた方法に対しては、どんな方法でも『すごい! 天才やん!』って、言ってきました」
「その積み重ねで子どもは、自分でなんでもできる、って感じていくと思うんです」
「その結果、特に上の2人は、私には相談するのではなく、ほとんどやったことの事後報告をしてくれます(笑)」
子どもが生きやすい道
3番目の次男は、トランスジェンダー(FTM)。
「女の子で産まれましたけど、幼い頃からなんだかおかしいと思っていました」
一緒に遊ぶ友だちは男の子ばかりで、七五三には袴を着たがった。
「3人目だったし、すでに男も女もいるから、真ん中がおってもいいかって(笑)」
「ただ、本当にそうなら、この子が生きやすい道を考えておかないとな、とは思ってました」
子どもたちには自由でいてほしい、という気持ちがある。
「幼い頃の私には自由がなかった分、子どもたちには『うちは自由よ』って、伝えてます」
02探し続けた “苦痛から逃れる術”
理由のない虐待
自分は、生まれも育ちも関西。
「小さい時から兵庫、大阪、京都を行ったり来たりしてたんで、3つの方言が混ざったあやしい関西弁なんです(笑)」
今でこそしゃべることが大好きだが、幼い頃は引っ込み思案だった。
「私は、母親から虐待されてたんです。今でいう、虐待サバイバーですね」
理由もなく、革のベルトや硬い毛のブラシで叩かれ、真冬に水をかけられたこともあった。
「血が出ると血を出すなとまた怒られる。なんでやねん、と思いましたが何も言えませんでした」
「殺される!」と外に向かって大声で叫んでも、誰も助けには来てくれない。
「親戚も血の気の多い人ばっかりだったから、どうしたら怒られないか、逃げられるか、ご機嫌にさせることができるか・・・・・・。対処方法をパターン化して考える子どもでした」
「当時は、小さいながらに死にたい、消えたいと思ってましたね。でも、方法がわからなかった・・・・・・」
「危険だ、このままじゃいけない。親から離れなきゃ、って思いは強く持っていた気がします」
差別的な言葉
今思えば、両親は偏見の塊のような人だったように感じる。
「外国人に差別的なことを言ったり、『この職業の人はどうこう』って言ったりしてました。多分、その頃に両親がLGBTを知っていたら、偏見を持っていたと思います」
「両親の話を聞いて、なんでそういうことを言うのかな、って思ってましたね」
幼いながらに、両親の差別的な発言を、受け入れることはできなかった。
「妹もいるんですけど、私たち姉妹は、親の考えには染まらなかったです」
両親が、反面教師になってくれたのかもしれない。
ステキな勘違い
引っ込み思案な自分に、転機が訪れる。
小学2年生で人形劇をすることになり、王様の役を担当する。
「それを見ていた先生や友だちのお母さんが『王様の役、めっちゃ上手かったわ!』って、褒めてくれたんです」
「何人かに評価されて、私ってしゃべりが上手いのかもしれへん、って思いましたね。 “ステキな勘違い” ですよ(笑)」
テレビでアナウンサーを見て、しゃべり方を研究する日々が始まった。
徐々に自信がつき始め、学級委員に立候補するなど、前に出ていくようになる。
「家では虐待が続いていて、5年生の時にふと、このままだとやられ続ける、って思ったんです」
「やめて」と言っても虐待がおさまらないなら、逆の反応を示したらどうか、と思いつく。
「思い切って『さぁ、やるならやれ! 気が済むまでやれ!』って、笑顔で、ニタニタと笑いながら言ったんですよ。そしたら母に『気持ち悪っ』って言われて、それから母に叩かれることはなくなりました」
「もしかしたら母は、娘に負ける、って思ったのかもしれないですね」
アナウンサーという夢を抱き、中学では放送部に入った。
少しずつ “悩みがなさそう”“いつも明るい”“元気” と評される子に成長していく。
03 “働く女性” に厳しい時代
まさかの就職先
短大生時代、タレント事務所に入り、キャンペーンガールやラジオリポーターの仕事にのめり込む。
「芸能界に入りたかったわけじゃなくて、しゃべる仕事ならなんでも良かったんです。当時は、自分を活かす場所が欲しかったんだと思います」
「卒業後もその仕事を続けるつもりだったんですが、親に『変な虫がつく』って、反対されました」
アナウンサーの夢を諦め、就職活動をすることになり、就職誌でたまたま開いたページがIT企業だった。
「その企業はショールームがあったんです。そこならしゃべれると思って、採用試験を受けました」
「もし落ちたら、『どこも雇ってくれないから、このままタレント事務所にいます』って、親に言い訳もできるな、と思って(笑)」
そんな思いとは裏腹に、600人中16人という狭き門を突破してしまう。
「面接をオーディションだと思って楽しくしゃべったら、受かってしまったんですよ(苦笑)」
しかし、就職したショールームではしゃべる業務はほとんどなく、コンピューターにも興味が湧かない。
「めちゃめちゃやる気のない社員で、研修の講師によく怒られてました」
23歳での結婚
最初はやる気が出なかったものの、画像処理ソフトにハマったことがきっかけで、パソコン自体に興味が湧き始める。
自分でパソコンを作るほどにめり込んでいき、仕事に面白みを見出していった。
「あの頃は、女性は結婚して、子どもを産んで、家庭に入る、って考え方が一般的でしたよね」
「私もそうなるんやろうな、って思ってました」
占いにハマっていた母から、「20歳と23歳の婚期を逃がすと行き遅れる」と、しつこく言われていた。
「その言葉は気にしていなかったけど、母に『婚期を逃がした』と言われ続けるのは地獄だと思ったから、絶対23歳で結婚しよう、って決めてました」
「結婚して、実家を出ることができれば、あとはどうにでもなるかなって」
短大生の頃にスキー場で出会った男性と恋に落ち、予定通り23歳で結婚。
その男性こそ、現在の夫。
「実は、結婚相手の条件を50個くらい考えてたんですけど、主人は100%クリアしてました」
それは「私を尊重してくれる」「話を聴いてくれる」「暴力をふるわない」など、幼少期よりも良い生活を営むための最低限の条件だった。
予想だにしないリストラ
会社からは、「結婚後も仕事を続けていい」と、言われていた。
結婚から数年が経ち、1人目の子どもを授かる。
「妊娠したら、担当していた仕事を取り上げられたんですよ。会社は『仕事続けていい』って言ってたはずなのに、『そんなん言ったっけ?』ってかわされて」
「しまいには『妊婦がガニ股で歩く格好が見苦しい』なんて言われて、奈落の底に落とされた感覚でした・・・・・・」
ショックを受け落ち込んだものの、ただ悲しみに暮れるだけでは終わらない。
「落ち込んでいる時にふと思ったんです。在籍してる間は、席に座っているだけ。何もせんでも給料くれるってめっちゃラッキーやん、って考え直したんです(笑)」
「これから絶対に役に立つと思って、退職するまでの間に大きなおなかを抱えIT系の資格を取りまくりました」
04私を求めてくれる場所
産後2カ月での復帰
「長男が産まれた時は、当分は専業主婦でいよう、と思ってたんです」
「でも、産後すぐに、家にいるのは私には向いていない、ヒマすぎて無理だって気づいて、2カ月後に働き始めることにしました」
「ITの資格をたくさん持っていたことから、ちょうどよいタイミングで仕事のオファーがきたんです」
自分の遺伝子を残したい、という思いは、ずっと抱いていた。
だから、子どもが産まれたことは、とてもうれしかった。
「ただ、子どもと2人きりでいたら、私の母のようになってしまうんじゃないか、って不安もあったんです」
夫も子育てに積極的で、働きに出ることも許してくれた。
「家事はそこまで大変さを感じなかったし、主人には、働かせてくれてありがとう、って気持ちしかないですね」
起業人生のスタート
会社を退職する際、「どうせ女って何にも出来ないんだよね」と上司に言われたことが頭に残っていた。
「そうだよな、子どもを産んだばかりの人なんて誰も雇ってくれないに違いない。なら、自分ですればいっか」
そう漠然と考えていた。
イベントの企画やソフトウェア開発、キャンペーンガールの派遣など、さまざまな事業を始め、いくつかの会社を興した。
「主人は、私が起業までするとは考えてなかったと思います(苦笑)」
「当時は出張はなかったけど、ガンガン仕事の現場に行って、よく家を空けてましたからね」
「ただ、派遣業をやっていた時は、土日関係なくトラブル対応の電話が鳴って、この状況はさすがに精神的によろしくないな、と思いました」
派遣会社は人に譲り、新たに企業研修の事業を始めると、順調に業績が伸びていく。
「派遣業の時はマネジメント業務が主でした。マネジメントという裏方より、講師として表に出る方が自分には合ってるな、って実感しました(笑)」
ワーカホリックな理由
「仕事は、私の居場所かな、って思ってます」
幼い頃、自分に居場所はない、と感じていた。
親から「お前なんかいらん」「橋の下で拾ってきたんや」と、言われ続けたから。
「幼い頃からずっと、心に穴が開いてるような感覚なんですよね」
「何かで満たしていかないと、その穴から全部漏れていくような感じがするんです」
「仕事場でかけてもらえる『岡さんが来てくれて良かった』って言葉が、自分を満たす要素の1つなんです」
仕事をしていると、人から求められることに安心感を覚え、居場所があるのだと感じられる。
「きっと、この穴はずっと塞がらない気がするから、ワーカホリックになっちゃうんでしょうね」
<<<後編 2021/06/16/Wed>>>
INDEX
05 親として子どものためにできること
06 末っ子はトランスジェンダー
07 子どもたちとの向き合い方
08 私があなたに伝えられること