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末っ子はFTM。それが、この子の自由を妨げる理由にはならない。【前編】

溢れ出る華やかさと親しみやすい雰囲気、やわらかな関西弁で、初対面とは感じさせない岡佐紀子さん。日本各地を飛び回るキャリアウーマンであると同時に、3人の子どもの母親でもある岡さんのモットーは “できないじゃなくて、どうやったらできるか考える” 。3番目の子どもがトランスジェンダーではないかと感じた時、まず考えたのは、子どもが生きやすい道を選べるように準備しておくこと。

2021/06/09/Wed
Photo : Rina Kawabata Text : Ryosuke Aritake
岡 佐紀子 / Sakiko Oka

1973年、兵庫県生まれ。3児の母であり、企業研修やセミナーを行う株式会社オフィスブルームの代表でもある。幼少期や会社員時代の経験を活かし、人材開発や接客応対、生産管理、ロジカルシンキング、苦情処理など、幅広い研修を行う。3番目の子どもはトランスジェンダー(FTM)。ありのままの子どもを受け止め、情報発信のサポートを行っている。

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INDEX
01 我が子に与えたいものは「自由」
02 探し続けた “苦痛から逃れる術”
03 “働く女性” に厳しい時代
04 私を求めてくれる場所
==================(後編)========================
05 親として子どものためにできること
06 末っ子はトランスジェンダー
07 子どもたちとの向き合い方
08 私があなたに伝えられること

01我が子に与えたいものは「自由」

生き甲斐のような仕事

現在のライフワークとなっている企業研修は、全国各地で行っている。

「2020年の頭までは、ほぼ毎日出張で、週に1回家に帰るような日々でした。仕事をしてる自分が好きなんです」

「担当する企業は多岐に渡って、コミュニケーションスキルだったりロジカルシンキングだったり、研修の中身はさまざまです」

「製造業で生産管理の研修をしたり、住宅メーカーでプラン図を描くセミナーをしたりすることもありますよ」

もともと伝えることが好きだから、この仕事は天職かもしれない。

「ありがたいことに、一度依頼していただいた企業は、そのまま継続してくれるところが多いんです」

生き甲斐のような仕事も、新型コロナウイルスの影響で一時ストップとなった。

「20年ぶりくらいに休みました。前の会社を退職してから、初めての休みかも(笑)」

「子どもたちから『お母さんがこんなに家にいるなんて』って、驚かれましたね(笑)」

自立と自律

子どもは3人。大学生の長男、高校生の長女、中学生の次男。

「3人とも、めちゃくちゃ自立してるんですよ」

出張で長く家を空けても、子どもたちは自分でごはんを作り、掃除をしてくれる。

「長男を産んだ時から、私はいずれガンガン働き出すだろうから、何もできない子どもだと困る、と思ってたんです」

「だから、 “自立と自律” というテーマで、子育てしてきました」

その中で行ったことの1つが、子どもの質問に答えないこと。

「子どもに『これどうしたらいい?』って聞かれたら、『どうしたらいいんやろうね?』って聞き返すんです」

「子どもが自分で考えた方法に対しては、どんな方法でも『すごい! 天才やん!』って、言ってきました」

「その積み重ねで子どもは、自分でなんでもできる、って感じていくと思うんです」

「その結果、特に上の2人は、私には相談するのではなく、ほとんどやったことの事後報告をしてくれます(笑)」

子どもが生きやすい道

3番目の次男は、トランスジェンダー(FTM)。

「女の子で産まれましたけど、幼い頃からなんだかおかしいと思っていました」

一緒に遊ぶ友だちは男の子ばかりで、七五三には袴を着たがった。

「3人目だったし、すでに男も女もいるから、真ん中がおってもいいかって(笑)」

「ただ、本当にそうなら、この子が生きやすい道を考えておかないとな、とは思ってました」

子どもたちには自由でいてほしい、という気持ちがある。

「幼い頃の私には自由がなかった分、子どもたちには『うちは自由よ』って、伝えてます」

02探し続けた “苦痛から逃れる術”

理由のない虐待

自分は、生まれも育ちも関西。

「小さい時から兵庫、大阪、京都を行ったり来たりしてたんで、3つの方言が混ざったあやしい関西弁なんです(笑)」

今でこそしゃべることが大好きだが、幼い頃は引っ込み思案だった。

「私は、母親から虐待されてたんです。今でいう、虐待サバイバーですね」

理由もなく、革のベルトや硬い毛のブラシで叩かれ、真冬に水をかけられたこともあった。

「血が出ると血を出すなとまた怒られる。なんでやねん、と思いましたが何も言えませんでした」

「殺される!」と外に向かって大声で叫んでも、誰も助けには来てくれない。

「親戚も血の気の多い人ばっかりだったから、どうしたら怒られないか、逃げられるか、ご機嫌にさせることができるか・・・・・・。対処方法をパターン化して考える子どもでした」

「当時は、小さいながらに死にたい、消えたいと思ってましたね。でも、方法がわからなかった・・・・・・」

「危険だ、このままじゃいけない。親から離れなきゃ、って思いは強く持っていた気がします」

差別的な言葉

今思えば、両親は偏見の塊のような人だったように感じる。

「外国人に差別的なことを言ったり、『この職業の人はどうこう』って言ったりしてました。多分、その頃に両親がLGBTを知っていたら、偏見を持っていたと思います」

「両親の話を聞いて、なんでそういうことを言うのかな、って思ってましたね」

幼いながらに、両親の差別的な発言を、受け入れることはできなかった。

「妹もいるんですけど、私たち姉妹は、親の考えには染まらなかったです」

両親が、反面教師になってくれたのかもしれない。

ステキな勘違い

引っ込み思案な自分に、転機が訪れる。
小学2年生で人形劇をすることになり、王様の役を担当する。

「それを見ていた先生や友だちのお母さんが『王様の役、めっちゃ上手かったわ!』って、褒めてくれたんです」

「何人かに評価されて、私ってしゃべりが上手いのかもしれへん、って思いましたね。 “ステキな勘違い” ですよ(笑)」

テレビでアナウンサーを見て、しゃべり方を研究する日々が始まった。

徐々に自信がつき始め、学級委員に立候補するなど、前に出ていくようになる。

「家では虐待が続いていて、5年生の時にふと、このままだとやられ続ける、って思ったんです」

「やめて」と言っても虐待がおさまらないなら、逆の反応を示したらどうか、と思いつく。

「思い切って『さぁ、やるならやれ! 気が済むまでやれ!』って、笑顔で、ニタニタと笑いながら言ったんですよ。そしたら母に『気持ち悪っ』って言われて、それから母に叩かれることはなくなりました」

「もしかしたら母は、娘に負ける、って思ったのかもしれないですね」

アナウンサーという夢を抱き、中学では放送部に入った。

少しずつ “悩みがなさそう”“いつも明るい”“元気” と評される子に成長していく。

03 “働く女性” に厳しい時代

まさかの就職先

短大生時代、タレント事務所に入り、キャンペーンガールやラジオリポーターの仕事にのめり込む。

「芸能界に入りたかったわけじゃなくて、しゃべる仕事ならなんでも良かったんです。当時は、自分を活かす場所が欲しかったんだと思います」

「卒業後もその仕事を続けるつもりだったんですが、親に『変な虫がつく』って、反対されました」

アナウンサーの夢を諦め、就職活動をすることになり、就職誌でたまたま開いたページがIT企業だった。

「その企業はショールームがあったんです。そこならしゃべれると思って、採用試験を受けました」

「もし落ちたら、『どこも雇ってくれないから、このままタレント事務所にいます』って、親に言い訳もできるな、と思って(笑)」

そんな思いとは裏腹に、600人中16人という狭き門を突破してしまう。

「面接をオーディションだと思って楽しくしゃべったら、受かってしまったんですよ(苦笑)」

しかし、就職したショールームではしゃべる業務はほとんどなく、コンピューターにも興味が湧かない。

「めちゃめちゃやる気のない社員で、研修の講師によく怒られてました」

23歳での結婚

最初はやる気が出なかったものの、画像処理ソフトにハマったことがきっかけで、パソコン自体に興味が湧き始める。

自分でパソコンを作るほどにめり込んでいき、仕事に面白みを見出していった。

「あの頃は、女性は結婚して、子どもを産んで、家庭に入る、って考え方が一般的でしたよね」

「私もそうなるんやろうな、って思ってました」

占いにハマっていた母から、「20歳と23歳の婚期を逃がすと行き遅れる」と、しつこく言われていた。

「その言葉は気にしていなかったけど、母に『婚期を逃がした』と言われ続けるのは地獄だと思ったから、絶対23歳で結婚しよう、って決めてました」

「結婚して、実家を出ることができれば、あとはどうにでもなるかなって」

短大生の頃にスキー場で出会った男性と恋に落ち、予定通り23歳で結婚。

その男性こそ、現在の夫。

「実は、結婚相手の条件を50個くらい考えてたんですけど、主人は100%クリアしてました」

それは「私を尊重してくれる」「話を聴いてくれる」「暴力をふるわない」など、幼少期よりも良い生活を営むための最低限の条件だった。

予想だにしないリストラ

会社からは、「結婚後も仕事を続けていい」と、言われていた。

結婚から数年が経ち、1人目の子どもを授かる。

「妊娠したら、担当していた仕事を取り上げられたんですよ。会社は『仕事続けていい』って言ってたはずなのに、『そんなん言ったっけ?』ってかわされて」

「しまいには『妊婦がガニ股で歩く格好が見苦しい』なんて言われて、奈落の底に落とされた感覚でした・・・・・・」

ショックを受け落ち込んだものの、ただ悲しみに暮れるだけでは終わらない。

「落ち込んでいる時にふと思ったんです。在籍してる間は、席に座っているだけ。何もせんでも給料くれるってめっちゃラッキーやん、って考え直したんです(笑)」

「これから絶対に役に立つと思って、退職するまでの間に大きなおなかを抱えIT系の資格を取りまくりました」

04私を求めてくれる場所

産後2カ月での復帰

「長男が産まれた時は、当分は専業主婦でいよう、と思ってたんです」

「でも、産後すぐに、家にいるのは私には向いていない、ヒマすぎて無理だって気づいて、2カ月後に働き始めることにしました」

「ITの資格をたくさん持っていたことから、ちょうどよいタイミングで仕事のオファーがきたんです」

自分の遺伝子を残したい、という思いは、ずっと抱いていた。
だから、子どもが産まれたことは、とてもうれしかった。

「ただ、子どもと2人きりでいたら、私の母のようになってしまうんじゃないか、って不安もあったんです」

夫も子育てに積極的で、働きに出ることも許してくれた。

「家事はそこまで大変さを感じなかったし、主人には、働かせてくれてありがとう、って気持ちしかないですね」

起業人生のスタート

会社を退職する際、「どうせ女って何にも出来ないんだよね」と上司に言われたことが頭に残っていた。

「そうだよな、子どもを産んだばかりの人なんて誰も雇ってくれないに違いない。なら、自分ですればいっか」

そう漠然と考えていた。

イベントの企画やソフトウェア開発、キャンペーンガールの派遣など、さまざまな事業を始め、いくつかの会社を興した。

「主人は、私が起業までするとは考えてなかったと思います(苦笑)」

「当時は出張はなかったけど、ガンガン仕事の現場に行って、よく家を空けてましたからね」

「ただ、派遣業をやっていた時は、土日関係なくトラブル対応の電話が鳴って、この状況はさすがに精神的によろしくないな、と思いました」

派遣会社は人に譲り、新たに企業研修の事業を始めると、順調に業績が伸びていく。

「派遣業の時はマネジメント業務が主でした。マネジメントという裏方より、講師として表に出る方が自分には合ってるな、って実感しました(笑)」

ワーカホリックな理由

「仕事は、私の居場所かな、って思ってます」

幼い頃、自分に居場所はない、と感じていた。

親から「お前なんかいらん」「橋の下で拾ってきたんや」と、言われ続けたから。

「幼い頃からずっと、心に穴が開いてるような感覚なんですよね」

「何かで満たしていかないと、その穴から全部漏れていくような感じがするんです」

「仕事場でかけてもらえる『岡さんが来てくれて良かった』って言葉が、自分を満たす要素の1つなんです」

仕事をしていると、人から求められることに安心感を覚え、居場所があるのだと感じられる。

「きっと、この穴はずっと塞がらない気がするから、ワーカホリックになっちゃうんでしょうね」

 

<<<後編 2021/06/16/Wed>>>

INDEX
05 親として子どものためにできること
06 末っ子はトランスジェンダー
07 子どもたちとの向き合い方
08 私があなたに伝えられること

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