01とにかく男勝りで負けず嫌いな妹
なんでも全力
父親の仕事の都合で、長野、佐賀、香川と転校を繰り返して育った。
長い付き合いの友達ができないから、どこへ行っても妹の麻未が一番の遊び相手。
他の兄弟と比べると、仲の良い兄と妹だったはずだ。
「でも、しょっちゅう喧嘩をしていました。僕にその気はないんですけど、弟(麻斗)の方から、ちょっかいを出してきて。たとえば家の廊下ですれ違うと、ゴツンって全力で肘鉄を喰らわせてきたり(笑)」
「もうとにかく、いつも全力なんですよ。おやつの取り合いなんかも日常茶飯事で。喧嘩が絶えないからって、間に衝立をして食事させられたり」
「妹だから」「女の子だから」と遠慮していたが、一度だけ、叩き返したことがある。
「女の子に手を出すなんて、と母に真剣に怒られて。それ以降は手を上げることはありませんでした。けれど、当時の麻斗は学校では女社会にいたからか、口も立ったんですよね。言い返すこともできないから、悔しくて辞書を投げつけたことが、一回だけありました」
今、小学生の頃の写真を見返すと、自分がロボットで遊んでいる隣で、麻未は身体に戦隊モノの変身ベルトを巻いて佇んでいる。
「ドラゴンボールごっこをしよう」と、何度もねだられた記憶も脳裏にはあった。
男友達と遊ぶ
妹の活発さは家の中に止まらなかった。
転校先でできた自分の友達と、年下にもかかわらず、一緒になって遊ぼうとするのだ。
「サッカーでも鬼ごっこでも、僕以上に身体を動かして、楽しそうにしていました。僕はだんだん、ゲームとか室内遊びを好きになりだしたんですけど、麻斗はいつも外で遊んでいましたね」
当時は両親も、普通に女の子として育てようとしているから、麻未にはおもちゃのピアノや人形を買い与えていた。
しかし妹は、それで遊びたがらない。
欲しがるのは銃やゴジラの動くおもちゃ。唯一、興味を示したのが、おもちゃの注射を打つと涙を流す人形だった。
そこは麻斗の今の仕事、理学療法士に繋がっているような気がしている。
「スカートを履くのも嫌がっていましたね。小学生の時は半ズボンでも良かったけれど、中学校に上がると制服で、そうもいかなくなるから。でも女らしいコト、モノをどれだけ拒んでも、麻未は女の子だと、両親も僕も信じて疑わなかったです」
「性同一性障害という言葉は『3年B組金八先生』を観て知ってはいたけれど、まさか自分の娘が、妹がそうだとは、夢にも思わなかったですね」
02性同一性障害だと告白されて
妹のイジメ
ちょうど麻未が中学校に上がる頃、両親は我が子に定住の地をと思い、千葉へ転居した。
転校続きだった学生生活は終わり、代わりに父が単身赴任するようになった。
そして、実は麻未は小学生の頃から、自分や両親の知らないところで、いじめを受けていた。
「バケモノ」とか「オトコオンナ」と、その女らしくない素行を吊るし上げられて。それは中学校に上がって、さらに凄まじいものになっていた。
朝、登校したら上履きがなく、ゴミ箱やトイレやグラウンドに捨てられている。教室に入ったら机がなく、ベランダに出されている。
後で聞いて耳を覆いたくなる、いじめの惨状だった。
「麻斗が性同一性障害だと知ったずっと後に、本人が講演会で話しているのを聞いて、初めていじめられていたことを知りました。自分が教員だからこそ、いろいろ考えさせられました。麻斗も心配をかけたくないから、家族には言わなかった」
「僕もちょうど思春期で、自分の悩みだけでいっぱいいっぱいで、気付けなかった。自分がまだ『性同一性障害』という言葉すら知らない状況でいじめを受けていた麻斗を考えると、かわいそうでなりません」
いじめの原因はいじめる側にあるが、当人が助けを求めないとより事態を悪化させる。
今、教壇に立つ上で、児童が相談しやすい雰囲気を作ろう。
弟のいじめから学んだ教訓だ。
告白の瞬間
月日は流れて、自分は大学の3年生に。
妹の麻未は理学療法士の専門学校に通い始めた。
引き続きふたりとも、千葉の実家に住みながらの学生生活だった。
「麻斗からカミングアウトされた日のことは、今でもよく覚えています。自宅のリビングで遅めの夕食をとっていたら、目の前にやって来て。『お兄ちゃん、私、性同一性障害なんだ』。単刀直入に切り出されました」
込み上げてきた言葉は「わからない」という、自分の頭の状態を示すだけのものだった。
今、妹が置かれている状況が、全くもって頭に入ってこなかったのだ。
「その後に、怖いという感情が押し寄せてきて。妹はこれからどうなるのか。僕たち家族は、どう変わるのか。麻斗はいろいろ調べて、納得してのカミングアウトだったろうけど、僕は全然、性同一性障害への知識がなかったから」
「とにかく焦りと不安でいっぱいでした」
03僕が ”弟” のことを受け入れるまで
どんな身体に?
妹の麻未からカミングアウトされて、まず口から突いて出た言葉は、両親を想ってのものだった。
反対や同意の言葉ではなく。
「お父さんとお母さんは知っているの?と投げかけました。両親にはすでに相談していて、治療も始まっていることを知りました。そうすると、今度は急に自分だけ置いていかれているような気分になって」
「とにかく妹が置かれている状況を知りたいと思いました」
言われてみて、得心したこともある。
妹が昔から男勝りで、スカートを嫌がったのは、性同一性障害だったからなのだ、と。
「でも、とにかく心配で。女から男に生まれ変わることを決めた妹は、どんな身体になってしまうんだろう、って。ホルモン治療を受けるって言っていたけれど、どんなふうに顔付きが変わり、髭が生え、筋肉がつくのだろう。タイでの性別適合手術って、どんなモノが付くんだろう」
「ここに来て、不安の内容が具体的になってきたんです」
おそらく性格は変わらないだろう。
戸籍変更をするといっても、本人が変わるわけではない。
とにかく身体のことだけが心配だった。
本人と向き合う
賛成するでも反対するでもなく、ただ妹の「今」を理解したいと思った。
ただどうしても自分一人では抱えきれず、深刻な面持ちで友人に相談した。
「そんなことを話されてもなぁ、って困ったような表情を向けられて。それを聞いて『そりゃ、そうだよなぁ』と思いました。そして何より拒絶されなかったことが救いだったんです」
実は妹にカミングアウトされたとき、友人たちにどう説明しようという心配も首をもたげた。
性同一性障害の「障害」という言葉は、周囲にどう響くのか。
実際に話してみれば、自分と同じようにまずは驚く人がほとんどで、そこに拒絶や嫌悪の念はなかった。
「それからは必要があれば、麻未の事情を周りの人に話すようになりました。大方は理解を示してくれる人ばかりで。呼び方も ”妹” から ”弟” に、少しずつ変えていくようにしました。それに両親と麻未が話し合って、本人が ”麻斗” を名乗るようになりましたし」
喧嘩しても、理解できなくても兄弟。
身体に対する不安も、まずは素直に弟にぶつけてみようと思った。
ホルモン注射のこと、性別適合手術のこと。
本人と向き合うことで、徐々に不安は解消されていった。
04理解した上で忘れたくないもの
麻未はいない
その後、麻斗は日本での治療を重ねてタイで性別適合手術を受け、男性としての人生を歩み始めた。
理学療法士としても努力を重ね、今ではリハビリ特化型デイサービス施設にてセンター長を務めている。
「今も同居して、それぞれ社会人として生活していますが、休日には麻斗が実家に彼女を連れてきたりしています。あれ、いつの間に・・・・・・ (笑)」
性同一性障害を乗り越えて自分らしく生きる弟を微笑ましく思う一方、いなくなった妹、麻未を懐かしく思うこともある。
「男勝りで気の強い妹だったけど。いなくなって思ったんです。バイト代でプレゼントと思って、誕生日にかわいい女性用手袋をプレゼントしたりしていたのは、兄として本当に妹が可愛かったんだな、って」
「妹が幼稚園の先生に『麻未ちゃんは素敵なお兄さんがいていいね』って言われているのを聞いて、妙に誇らしかったことは今でも覚えていますし」
そんな思い出の中の麻未は、今、麻斗として力強く生きている。
でもやはり違う人間なのだ。
あのときの麻未のことが懐かしくて、無性に寂しくなる。
「男友達が妹の結婚式に出て泣いたっていう話をしていると、羨ましかったり。ああ僕はもう妹の結婚式には出られないんだ、麻未のウェディングドレス姿を観て泣きたかったな、ってしんみりしてしまうんです」
麻斗はいる
そんな思いに駆られるとき、決まって両親の顔が思い浮かぶ。
とくに父親の後ろ姿が。
「自分が結婚して、もし父と同じ立場になったら、どう思うんだろう。そう考えると、複雑な心境になるんです。もちろん父は今、麻斗の全てを受け入れ、応援しています。でもきっと、まだ娘だったころの麻斗、麻未のことを忘れていないと思うんです。それこそ近い年頃の女性が結婚したと聞けば、昔思い描いたであろう麻未の花嫁姿が頭を過るんじゃないか、と」
「どれだけ麻斗が幸せそうでも、両親にしたら娘、僕にしたら妹、麻未がいなくなったという事実は消しようがないんです。麻斗は叶えられた人だけど、叶えられない人、特に父のことを忘れちゃいけないと思うんです」
それでも麻斗はいる。
そして麻未が本当の姿になれたことは、家族みんなが祝福をしている。
05兄として教員として大切にしたいこと
親を思えば
それでも燻る喪失感。それと向き合うためにどうすればいいか、たまに杯を傾けながら、父と話す。
「これからどうなるんだろうね、って。でも、いつも共通しているのが『鈴木麻斗は嫌いじゃない、いや好きだ。でも…』っていう感情なんです。好きだ、で終わればいいのに、つい麻未だった頃を思い出してしまう。けれども両親も僕も、それでいいんだと思うようになりました」
「無理して全てをハッピーエンドにするより、負の気持ちを含めて、今を受け入れるのが大切なんだと。それに僕が麻未を忘れてしまったら、両親の味方がいなくなってしまう。だから、これでいいんです」
それに、両親も新たな息子の誕生を楽しんでいる。
自分も弟ができた面白みを感じている。
「やっぱり今の麻斗は本当に輝いているから。だから今、うちの家族はものすごく仲がいいです。たまに麻未がいなくなったという喪失感に苛まれても、父も僕も直接、麻斗にぶつけるようにしているんです」
「そうしたら弟は、最高の笑顔を返してくれるから」
「すぐに寂しい気持ちもなくなっちゃうんです」
裏切られてもいなければ、逆に麻斗から元気をもらっている。
それでもなお、自分に嘘をつくことなく、この喪失感とは付き合って行こうと考えている。
相談の場の大切さ
今、小学校で教鞭をとっている。
弟、麻斗が自らの体験を通して伝えてくれたことを、教育の現場で生かしたいと考える。
「今の小学校の方針では、性教育の授業で性同一性障害という言葉を用いることはありません。それでいいと思うんです。ただ、もし自分がそうかもしれないという児童が出てきたときに、いち早く相談できる先生でありたいと思っています」
「麻斗から学んだのは、家族の理解と周りの受け入れ態勢がいかに大切か、ということ。そのためには詮索はしないけれど、常に悩んでいる生徒はいないか、アンテナを高く日々の教え子に触れたいと考えています」
実際に相談を受けて困ったことがあれば、麻斗が助けてくれる。
本当に頼もしい弟だ。
性同一性障害だけではないだろう。教育現場で言えばいじめ、大きな社会でいえば自殺の問題なども、相談できる場が必要だ。それで救われる人もいるだろう。孝平さんと麻斗さん、その家族の理解の歩みには、他にも通じるヒントが埋まっている。