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兄、父、母がくれたカミングアウトへの言葉。今、新しい一歩を踏み出すとき【後編】

兄、父、母がくれたカミングアウトへの言葉。今、新しい一歩を踏み出すとき【前編】はこちら

2024/04/07/Sun
Photo : Tomoki Suzuki Text : Hikari Katano
内野 瑠三 / Ryuzo Uchino

1984年、鹿児島県生まれ。小さいころから体格に恵まれ、大学まで陸上競技に打ち込む。しかし、スポーツ選手の道を諦め、大学卒業後にFTM(トランスジェンダー男性)として治療を開始し、27歳で戸籍の性別を男性に変更。2017年のスピーチコンテスト出場をきっかけに講師業を務めるようになり、現在はカウンセラーとしても活動している。

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INDEX
01 目立つとすぐに広まる地元
02 相撲で優勝
03 チアリーディングのユニフォーム
04 鹿児島県の記録は通過点
05 自認するFTMとして過ごせる居場所
==================(後編)========================
06 FTMとしての就活
07 男として働いてみたい
08 今でも考え続けているよ
09 LGBTQ当事者として一歩目は踏み出したけれど
10 自分にできることは何か

06 FTMとしての就活

競技人生も名残惜しいけれど・・・

じん帯断裂後、約2年間の休養期間を経て、4年生のときにようやく競技復帰を果たす。

大学卒業後の進路を考えないといけない時期に差し掛かっていた。

「鹿児島の実業団からお声がけいただいて、卒業後もやり投げを続けるか、めちゃくちゃ悩みました」

やり投げを続けたい思いは、たしかにある。

でも、スポーツ選手として活動を続けるということは「女子」選手であり続けるということ。

つまり、スポーツ選手の間は、性同一性障害の治療を受けられない。

「これ以上、女子として競技は続けられないな、と」

実業団への参加を断り、一般企業に就職して男性として生きる決意を固めた。

FTMである ”娘” の秘密を一人で抱えていた母

大学の部活を引退後、社会人となって性同一性障害の治療を始めるにあたって、治療前には父にカミングアウトしようと決める。

「母親は、『最良のタイミングがあるはずだから』って、私がFTMであることを父親にずっと黙ってくれていました」

晩御飯の前、両親がテーブルに着く。いつも通り晩酌を始めようとする父を「ちょっと待って」と制した。

いつもと違う雰囲気にしびれを切らした父が「なんだ?」と口を開いた。

「これからは男性として生きたい、だから治療をしたい。こんな娘でごめんなさいって伝えました」

殴られる可能性もあると身構えていたが、すぐに事態を飲み込めなかった父は「どういうことや?」「よう分からん」と、それ以上の話し合いにはならなかった。

あれだけ強かった父が・・・

翌日、父と二人で飲みに行くことになった。

「私のなかの父親は、とにかく強い九州男児のイメージ。怒鳴られたり、説得されたりするかもしれないけど、絶対に負けちゃいけない! と身構えてました」

飲み始めても、父がなかなか口を開かないので「何を言われても、自分は男として生きていくから。説得は無理だよ」と、こちらから口火を切る。

「でも、父親は肩を落として『お前が心配じゃ。鹿児島に帰ってこい』って言うばかりで・・・・・・」

今まで見たことのない父の姿に愕然とした。
父への怒りにも近いエネルギーが、自分自身に向く瞬間だった。

「自分らしく生きたいと思ったがために、大事な人を傷つけてしまった。なんで自分なんかが生まれてきちゃったんだろうって・・・・・・」

07カミングアウトせずに働いてみたい

鹿児島では男性として生きられない

自分の想いを伝えたことで父を傷つけた。それでも、父の願い通り、鹿児島に帰ろうとは思わなかった。

「男性として生きる決意は揺るぎませんでした。当時、鹿児島は治療する環境が整ってないと思ったんです」

社会人として働きながら治療をするつもりだったため、就職活動は男性として行うことにする。

とはいえ、就活時に僕はまだまったく治療していない状態。

「ネクタイを締めて面接に行って、『私は性同一性障害で、御社に就職させていただきましたら、このような治療を経て男性になります』って、1から10まで説明しました」

・・・・・予想通り、ことごとく不採用。

「まぁこんなもんだよな、って思ってました」

だが、面接での説明から3日後、ある企業から「再びご来社ください」と連絡が来た。

「初めてのケースなのですが、トイレや更衣室など、どうされたいですか? ってヒアリングしてくださったんです」

選考を経て、男性としてその企業に就職することとなった。

社内で広くカミングアウト

社会人になって初めて就職した会社では、セクシュアリティを広くカミングアウトすることにした。

「あなたのことについて、主要なメンバーには伝えていますが、現場には伝えていません。どうするかは自分で決めてください、って会社から言われたんです」

「そこまで配慮してくれた会社でウソをついて働きたくないって思って、入社式でカミングアウトしました」

幸い、社内で否定的な反応はなく、みんな好意的に受け止めてくれた。

とはいえ、まだ「アウティング」という言葉もなく、ハラスメントに対しても現在ほど問題視されていない時代。

「職場で『お前、女なんだろ?』って言われることも平気でありました(苦笑)」

男として生きてみたい

1社目で働きながら、27歳のときに戸籍変更まで済ませた。

「戸籍上も男性になったときに、今までの僕のことを何も知らない場所で、男性としてどれだけできるかチャレンジしてみたい、って思い立って」

それまで勤めていた会社を退職し、カミングアウトせず男性として、愛知県内の別の会社に転職した。

「そのときには、男性として生きることを絶対的な目標に据えてました」

でも、自ら望んでクローズドで入社したはずなのに、少しずつ “ほころび” が出てくる。

「女性として生活してたときの話も、あたかもストレートの男性として生きてたかのようにウソをつかなきゃいけなくなってしまって・・・・・・」

女性として生きていたときには、男性であることを隠していた。

それなのに、男性として生きると、女性として生きてきたことを隠さなければならないのか・・・・・・。

新たなモヤモヤが生まれてしまった。

08今でも考え続けているよ

二人の兄、それぞれの受け止め方

「爆発」とも言える勢いで終えた、母へのカミングアウト。
そのあと、家族で2番目にカミングアウトしたのは、8歳上の2番目の兄だった。

「2番目の兄には、自分自身のことや、これからは男性として生きたいってことをメールで伝えました」

2番目の兄からは「お前は、周りの期待に応えようとしすぎているから、自分を見失っていないかだけが心配だ」と返信が来た。

「そのうえでお前が決めたことなら」と、中原中也の言葉が送られた。

―その志明らかなれば 冬の夜を、われは嘆かずー

「兄ちゃん、すごくかっこいいなって思いました」

1番上の兄には、父へのカミングアウトの前日に伝えた。

「兄弟3人でお酒を飲む場をセッティングして、実は・・・・・・って伝えました」

「1番目の兄は、『受け入れるのは簡単。だけど、俺の人生とお前の人生は別だから、否定も賛成もしない』って」

あくまで無関心なのではなく、独立した大人として尊重したうえでの発言に、うれしく感じた。

すると、居合わせた2番目の兄が「受け入れるのは簡単、か。オレは簡単じゃなかったけどな」と、ぼそっとつぶやいた。

「まさか、2番目の兄がそんな思いであのかっこいいメールを返してくれたなんて、そのときまで全然知りませんでした・・・・・・」

1番上の兄にカミングアウトする場に、2番目の兄も居合わせなければ、2番目の兄の想いを知ることもなかっただろう。

「るぅねぇ」から「るぅにぃ」に

二人の兄はすでに結婚していて、子どももいる。

「兄二人の子どもが、全員男の子なんです。僕も男性になったので、親族は母親以外、男だらけです」

甥っ子たちからは、以前は「るぅねぇ」と呼ばれていた。でも、いつの間にか「るぅにぃ」と呼ばれるように。

「自分のことを嫌だって思う子もいるだろうから、帰省を控えることもできるよ、って兄たちに伝えたこともありました」

「でも『子どもたちも知ってるし、いつでも帰っておいで』って言ってくれてます」

兄二人の協力に、自分は恵まれていると実感している。

親ってすごい

初めてのカミングアウトから約15年後、自分の講演会を開く際に、カミングアウトを受けたあとの気持ちを、両親に改めて尋ねる機会があった。

「正直、今も分からない。理解してる、って言ったらウソになる。今でもどうしたらいいのか考えてるって、母親が言ったんです」

「でも、申し訳ないなんて考えちゃいけない。責務に考えると、あんたが本当の姿で翔べなくなるから、って」

父はカミングアウトのあと、LGBTQに関する記事を見つけたら全部読んで、僕のことを知ろうとしてくれていた。

「自分たちのせいで娘がこんな風に生まれてしまったのでは、と考えるときもあったけど、そうじゃないんだよね。どっちも悪くない、お互い様なんよねって言われて・・・・・・」

「父親のその言葉が、僕のなかで赦しになりました」

自分自身、短くない期間、セクシュアリティについて葛藤してきた。

「両親にとっては、カミングアウトを受けてから5年くらいの間に、娘が息子に変化していっているわけで。そっちのほうがつらかったんじゃないかなって思うんですよね」

両親の深い愛情にはとてもかなわない。

09 LGBTQ当事者として一歩目は踏み出したけれど

スピーチでLGBTQ当事者として話しても、ためらいが消えなかった

2017年、10分間のスピーチコンテストに出場した。

「カミングアウトをテーマにして、自分のセクシュアリティについて話しました」

たしかに、ひとつのターニングポイントにはなった。その後、LGBTQについての講演をすることも増えた。

でも、SNSなどでセクシュアリティを完全にオープンにすることには躊躇していたのだ。

今思えば、LGBTQについて講演してもなお、LGBTQに対して僕自身が偏見を抱いていたのだと思う。

「当時は、男性として生きることを目的にしてたので、自分と同じセクシュアリティやLGBTQ当事者と関わりをもつことが怖かったんです」

過去も含めて伝えることが、自分にとっては自然

仕事の場では女性としての過去を隠し続けてきたが、方向転換を決意する。

「このまま自分を隠し続けて生きていくのか? いや、それは嫌だ! って」

初めて、LGBTQ当事者を含む人々に積極的に会いに行くように。

「LGBTERに掲載されてる人のなかに知り合いも結構います」

セクシュアリティに向き合い、オープンにしたことで、大きな気付きを得た。

「自分を素直に表現すると、相手も答えてくれて、いい関係性を築けるんですよね」

「自分で言うのもなんですけど、今のほうが、僕のことを本当に好きになってもらえてるなって、思います(笑)」

カミングアウトをする・しないは、個人の自由。自分はLGBTQ当事者です、と場所を問わず大声を張り上げる必要もない。

「僕の場合は、過去の経験も含めて伝えたほうが自然だなって思ってます」

10 自分にできることは何か

困っているLGBTQ当事者の一助に

現在は、個人事業主として都内を拠点にカウンセラーと講師業を行っている。

「セクシュアリティに関係なくさまざまな方のご相談をうかがってますが、人間関係に関する悩みが多いですね」

「LGBTQ当事者でなくても、自分が何者なのか、何をしたいのか分からないって人も少なくなくて。だれしも自分について悩むことがあるんだなって実感してます」

ある日、トランスジェンダーかもしれないという子どもを持つ母親からの相談を受けた。

「いつも全力でカウンセリングしてるんですけど、自分の親と同じ立場の方のお話を聞いてると、こっちもより熱が入ってしまって・・・・・・」

今後は、LGBTQ当事者のカウンセラーとして、当事者だけでなく、その親なども含めてサポートしたい。

「自分を表現することで、だれかの助けになったらいいなと思ってます」

SNSで発信するもう一つの理由

現在、インスタグラムを中心に、自分の活動を発信している。

いろんな人に活動を知ってもらうことが一番の目的だが、もう一つ理由がある。

「僕の頑張りを両親に伝えることで、恩返しになるかなって」

以前は「親孝行」と言えば、故郷に帰って両親の世話をすることだと考えていた。

「でも、母親から『自分らしく翔びなさい』って言葉をもらってから、都会で頑張ろうって思えるようになったんです」

80歳近い母が、僕のインスタグラムをチェックしている。

「心の部分を、家族が支えてくれてるなって感じてます」

セクシュアリティに向き合うようになれるまで、長い時間がかかった。

自分らしく翔んでいる姿を見せて、周りの人たちに恩を返したい。

あとがき
瑠三さんの穏やかな言葉遣いは、会っていてもメールでも同じ。相手の気持ちに、丁寧に寄り添おうと努める人なのだ。仕事の相談もできれば、気晴らしの雑談も楽しめる、そんな安心感のみなもとは家族にあった■爆弾のようなカミングアウトを静かに受け止めてくれたお母さん。「お前が心配じゃ。鹿児島にかえってこい」とお父さん。2人のお兄さんのおもい。甥っ子たちがかけたくれた「るぅにい」。家族のあたたかさは、出会う人を大切にできる糧になる。(編集部)

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