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友人のメールで気づいた性同一性障害。すぐに浮かんだやりたいことリスト【前編】

中1で志した体育教師を目指していた大学時代、女として花開かない自分の心身を見つめていた。そんなとき、友人から性同一性障害をカミングアウトするメールが届く。「これ、いいな」。生き生きとした文面から、ある答えが浮かび上がってきた。性自認から7年後、教員という立場からためらっていた治療を、2度の失恋を機に決意。男として第二の人生を切り拓く。

2021/03/09/Tue
Photo : Tomoki Suzuki Text : Shintaro Makino
新村 良 / Ryo Shinmura

1990年、愛媛県生まれ。幼稚園のときに2年間のアメリカ暮らしを経験。カトリック系の女子校で中高6年間を過ごし、キャプテンとしてバスケットボールに打ち込む。体育の先生になりたいという目標を達成し、7年間、母校で子どもたちを指導した。在職中にホルモン治療を開始。今はさらなるキャリアを求めて、新しい世界に踏み出す。

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INDEX
01 姉はいい子で、自分は悪い子?
02 憧れは男子用の海水パンツ
03 がむしゃらにバスケに打ち込む生活
04 信頼できた顧問の先生
05 後輩たちに慕われるキャプテン
==================(後編)========================
06 目標は日体大。体育教師を目指す
07 女らしい変化がなかった大学時代
08 友だちからのメールで気づいた性同一性障害
09 次の恋愛のときは男でいたい
10 ありのままの自分を見つける旅

01姉はいい子で、自分は悪い子?

幼少期の2年間をアメリカで過ごす

愛媛県、今治市生まれ。土木技師の父親が、しまなみ海道建設に関わっているときに誕生した。

「その後、父がアメリカのコロラド大学の大学院でもう一度、勉強をすることになって、3歳から2年間、デンバーで暮らしました」

3つ年上の姉は現地の小学校に通ったため、かなり英語を覚え、のちに留学もした。

「僕は幼稚園でしたから、ちょっと発音が海外っぽいけど、喋れないって感じです(笑)」

しかし、当時、コミュニケーションに困った記憶はない。アメリカ人の友だちとバットマン風のフェイスペイントをして遊んだのはいい思い出だ。

「この頃から自分の性的な指向がはっきりしてきたような気がします。スカートが嫌だとか、はっきりいうようになりました」

広大なロッキー山脈を背景に上半身裸で笑う、爽快な写真が残っている。

「シャツを脱いで、上半身裸になるのが、物心ついてからの憧れになりました」

キャッチボールの相手は母

母は活動的で、ポンポンポーンっと何でも話すタイプ。一方の父は穏やかで口数が少ない性格だ。

「小学校のときのキャッチボールの相手は、お母さんでしたからね」

父の穏やかな性格は姉が、母の元気で活発なところは自分が引き継いだ。

「当時、悪いことばっかりしてたんですよ(笑)。そんなとき叱るのも、必ず母でしたね」

コンビニの前に置いてあるガチャポンが壊れていると知るや、全部掻き出して友だちと山分けにした。

「やっちゃいけないところで焚き火をして、学校で立たされたこともありました(苦笑)」

そんなことがあると母に呼ばれ、家で正座をさせられた。

「何か謝ることがあるんじゃありませんか? っていわれるんですよ。何でもお見通しだったんですね」

幼稚園の先生だった母は、頭ごなしに叱るより自主性を尊重した。

「よく叱られましたけど、ずっと仲はよかったです」

姉妹で喧嘩をしたことは一度もない

その一方で、姉が怒られている姿は一度も見たことがない。

「姉はいい子で、自分は悪い子という図式が完全に出来上がってましたね。扱いがまったく違いました(笑)。僕がいたずらするから叱られるんだけど」

姉はバレエ教室で熱心に練習し、コンクールにもたびたび出場した。バレエは、母自身が習いたかった、母親の夢でもあった。

「姉はバレエを一生懸命にやっていて、家族で応援してました。僕も習っていたんですけど、おまけでついていったような感じでした」

姉は女の子らしい柔らかい動きが得意だったが、自分は男役のダンサーの力強い跳躍に憧れた。

「姉は子どもの頃から、女性らしいやさしい性格で・・・・・・。喧嘩をしたことはまったくないですね。タイプが違うというか、喧嘩をする相手じゃない、という感じでした」

02憧れは男子用の海水パンツ

リボンを投げ捨てる

アメリカから帰国し、八王子の幼稚園に通った。

「スカートが嫌だったんですけど、スカートをはいて登園するのが規則になっていて・・・・・・」

何とか先生に頼んで、幼稚園にいる間はズボンにはき替えることを許してもらった。

「小学校の入学式はスカートをはかされて、髪にリボンをつけられたんですよ」

あとで母に聞いた話だが、家に帰るなりリボンをむしり取って投げ捨てたそうだ。

「ランドセルも、当時は赤と黒しかありませんでした。自分は、当然、黒がよかったんですけど」

しかし、母から、「ほかの女の子はみんな赤なのに、一人だけ黒だといじめられるかもしれないよ」と諭された。

「自分だけが変、と思われたくなかったんでしょうね。結局、赤いランドセルで通いました」

男の子たちと公園でサッカー

小学校の低学年から髪を短くし、プーマなど当時の男子が好んだスポーツ系の服を着ていた。

「姉のかわいい服が下がってくることはありませんでした。好きなものを買ってくれました」

バレエ教室にもいわれるままに通ったが、本当に好きなのは水泳とサッカーだった。

「水泳では、女子用の水着が嫌で、男子用の海水パンツが履きたかったですね。上半身裸が憧れでしたから」

小学4年生のときに横浜に引っ越した。新しい小学校は、1学年1クラスの小さな学校だった。

「引っ越ししたんでバレエはやめて、公園で男の子たちとサッカーばっかりするようになりました」

なかでもよく遊ぶ男の子ふたりと3人組を作る。

「一人は真面目で大人しいタイプでしたけど、もう一人は茶髪にしてやんちゃな性格でしたね。一緒に焚き火をして怒られたのも、その子でした(笑)」

女の子とはたまに話をする程度。好きな子もできず、バレンタインにプレゼントを贈る相手も現れなかった。

03がむしゃらにバスケに打ち込む生活

カトリック系の女子校に進学

5年生のときに転校してきた子にバスケットボールを教えてもらうと、これが面白くて、すっかりハマってしまった。

「中学生になったら、絶対にバスケ部に入ろうと思いました」

ところが、進学する予定の公立中学にはバスケットボール部がなかった。

「母が勧めるカトリック系の私立女子校に進学することになりました」

母が私立を勧めた背景には、公立中学に入ると悪いことに流されるだろうということ、また優等生である姉と比較されないため、というおもいがあったようだ。

その点、丁寧にみてもらえる私立なら安心、というわけだった。

「うちの家族はクリスチャンなんです。キリスト教を広めたいとかいう気持ちはありませんけど、神様が見守っていてくれるという教えは心に持ってますね」

朝練、昼練、部活、帰宅後も

制服はボレロ。それまで着ていたプーマとは真逆な雰囲気だ。

「小学校の友だちに見られたくない、という気持ちは強かったですね」

入学式の朝、うっかりプーマのスニーカーを履いていきそうになり、「ローファー! ローファー!」と慌てたこともあった。

「バスケをやりたい気持ちが強くて、可愛らしい制服も我慢しました。順応性は、一応、あったんでしょうね」

中学での生活は、思い描いていたとおり、部活に専念する毎日だった。

「中高一貫なんで、高校生も一緒に練習するんです。中1の新入生にとって高校生の先輩はものすごく大人に見えました」

特に高校2年生の代が熱心に部活に打ち込んで、クラブを盛り上げていた。

「朝練をしてから授業を受けて、昼練をして、授業が終わったら部活をして体育館の掃除をして、家に帰ったらボールが見えなくなるまでドリブルの練習」

「とにかくがむしゃらでした」

その甲斐あって、1年生から試合に出られるようになり、ますますバスケが面白くなった。

04信頼できた顧問の先生

携帯禁止、立ち寄り禁止

バスケに熱中したせいもあり、クラスでの交友関係は希薄だった。

「席の近い子と話す程度で、特に仲のいい子はいませんでしたね」

校則が厳しく、携帯電話は禁止、放課後の立ち寄りも禁止だった。

「木曜にならないと週末の部活の予定が決まらないんで、土日の約束もできませんでした。それに、1学年3クラスなんですが、とても大人しいクラスだったんです」

バスケ部の同期がふたりいたが、彼女たちとの折り合いはよくなかった。

「3人いると、2対1になりやすいじゃないですか。自分は1のほうになっちゃって(苦笑)」

バスケの能力は、自分のほうがふたりより勝っていた。人間関係の辛さは、プレイに専念することで忘れることにした。

勝ちはご褒美

学園生活を送るなかで信頼できる人物に出会う。バスケット部の顧問をしてくれた男性の先生だ。

「技術よりも、人としてどう生きたらいいか、を教えてくれました」

指導のベースにあるのは、勝つことにフォーカスしないという姿勢だった。

「勝ちはご褒美、という考え方で、仲間を思いやる気持ちとか、努力の大切さを学びました。あの先生の影響が無茶苦茶大きかったですね。先生の言葉が、ひとつひとつ心に響きました」

先生は当時30歳くらい、世界史の教員だった。

「話が上手だったので、先生の授業も大好きでした」

後に同じ職場の上司という関係になっても、信頼関係を維持し続けた。

05後輩たちに慕われるキャプテン

バスケ部存続の危機

中学3年の5月、バスケ部に衝撃的な事件が起こった。

「ガツガツ引っ張ってくれていた代が引退した途端に、部活がだらけてしまったんです。その様子を見て、さすがに顧問の先生も怒って・・・・・・」

「やる気がないヤツは出ていけ。やるか辞めるか、どっちかにしろ!」と宣言してしまったのだ。

「これを聞いて1年上の先輩が全員、辞めちゃったんです。同期のふたりも辞めて、残ったのは自分と1年下の後輩3人の4人だけでした」

バスケ部存続が危ぶまれたが、新入生が8人入ってくれ、何とか活動を続けることが可能になった。

「突然、一番上になって、キャプテンという立場になりました。練習のメニュー作りなど、初めてのことにチャレンジしました」

後輩たちとのつき合いが糧となる

1年生が多いので、当然、基礎練が中心になる。

「頭にあったのは、模範にならなければならぬ、という使命感でしたね」

いい手本になり、後輩たちには、自分の背中を見てついてきてくれ、と願った。

「言葉でうるさくいうよりも、自分がしっかりとやって、それを真似してくれれば、と思ってました」

奮闘する新米キャプテンをサポートしてくれたのが、顧問の先生だった。部活の雰囲気は良くなり、新村先輩についていきたい、という後輩たちの気持ちもまとまっていく。

「正直なところ、それまでは先輩たちとのタテの関係に納得がいかないこともありました。自分が中心となって進めた新しいチーム作りに、次第に自信が沸いてきました」

後輩といっても、いろんな子がいる。

「それぞれとどう接したらいいか、いろいろと悩むこともありました。でも、とてもいい経験になりました」

キャプテンとしての立場が、後に教員となる際の糧となったことは間違いない。

下級生からファンレターをもらう

中2の頃から、ショートカットをさらに短くして、髪をツンツンと立たせていた。後輩から一目置かれる存在になる。

「練習を見にくる下級生がいたりして、けっこうモテましたね(笑)」

手紙をもらうこともあり、注目されるのはまんざらでもなかった。

「目立ちたい欲もあったんですけど、うれしさを前面に出さない硬派なイメージを守りました(笑)」

手紙をもらえばちゃんと返事を書いていた。

「なかには気に入った子もいたけど、つき合おうという話にはならなかったですね。とにかく部活に専念してましたから」

周囲に女同士のカップルがいてもよさそうなものだが、そのときはまったく気がつかなかった。

「学校生活では、男子と知り合うチャンスも全然ないわけですから、気になる相手といえば女性だったんでしょうけどね」

体の変化も「嫌だな」とは思ったけど、それ以上に深く悩むこともなかった。

「かわいい下着がほしいとは思わず、もっぱらスポーツ用をつけてました」

ボーイッシュな中学生の自分にセクシュアリティの悩みは、まだ忍び寄っていなかった。

 

<<<後編 2021/03/13/Sat>>>

INDEX
06 目標は日体大。体育教師を目指す
07 女らしい変化がなかった大学時代
08 友だちからのメールで気づいた性同一性障害
09 次の恋愛のときは男でいたい
10 ありのままの自分を見つける旅

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