02 得手・不得手
03 女子トイレへの抵抗感
04 性への違和感は「気の迷い」
05 学校に行きたくない
==================(後編)========================
06 昼の世界と夜の世界
07 自分はFTMだ
08 20歳の親孝行
09 母へのカミングアウト
10 あなたに生きていてほしい
01家族の空気
ダチョウは憧れの象徴
動物の中で一番好きなのは鳥だ。
子どもの頃、最初に買ってもらった本は鳥類図鑑だった。小学3年生の誕生日には、母からセキセイインコをプレゼントされた。
もしも、1種類だけ飼っていいと言われたら、ダチョウを選ぶだろう。
「ダチョウは1匹のオスと、3〜4羽のメスで群れをつくって生活します」
「メスの中にはリーダーがいて、それぞれのメスが産んだ卵を、リーダーがまとめて育てるんです」
「危機が迫ったり、食べられたりしそうになったりしたときは、ほかのメスたちが協力して守るんですよ」
2歳のときに両親が離婚し、子どもの頃は寂しさを感じることもあった。
だからこそ、ダチョウの結束力の高さに憧れ、惹かれるのかもしれない。
忙しい大人たち
生まれたのは北海道の札幌市。
両親の離婚をきっかけに、母方の祖父母が暮らす千葉県に移り住んだ。
離婚後、父には一度も会っていない。
かすかに記憶に残っているのは、まつ毛が長いとか、色が白いとか、もしゃもしゃのクセっ毛とか、ディテールだけ。
幼い頃に別れたせいか、会いたいと思ったことはない。
当時は、祖父母と母、叔母(母の妹)、自分、2歳下の妹の6人暮らし。
母は仕事が忙しく、叔母も学業が忙しかったため、家の中に遊んでくれる大人はいなかった。
「お母さんは当時、ファミレスなど飲食店の管理職として働いてました」
「家に帰って来てからも、電話で打ち合わせをしたり、常に忙しい人っていうイメージがありましたね」
「いま考えると、お母さんは、小さい子どもを2人抱えて必死だったと思います」
「何かあっても相談できないような空気感を、子どもながらに感じてました」
犬猿の仲
自分の干支は申年で、2歳下の妹は犬年に生まれた。
だから小さい頃、妹とケンカをすると、周りの大人たちに「あんたたちは本当に犬猿の仲だねぇ」と言われた。
確かに、すごく仲のいい姉妹ではなかったと思う。
「でも、心のどこかで、妹は守らなきゃいけない存在だと感じていました」
「妹をからかうような子が小学校にいたら、蹴りを入れたり(笑)」
「大人たちが忙しいぶん、自分がしっかり面倒見てあげなきゃって」
自分はお姉ちゃんだからしっかりしないといけない。妹を守らなきゃいけない。
そんなふうに考えて、「寂しい」と口に出すことはできなかった。
尊敬する祖父について
家の中では、祖父が唯一の男。
仕事に力を注ぐ一方で、家族の時間を大切にする人でもあった。
「祖父の仕事は、土木建築業です」
「朝、日が昇るくらいの時間に仕事に出て行き、7時くらいに朝ご飯を食べに帰ってくるんです」
「打ち合わせなどで遅くなるときは、必ず家に連絡を入れてましたね」
「仕事と家庭を両立する姿を、かっこいいなって思ってました」
祖父にはお茶目な一面もあった。
「病気で塩分を摂りすぎちゃダメと言われているのに、僕に『スルメ買って来て』って、こっそりお願いするんです」
「それがバレて、二人そろっておばあちゃんに怒られることもありました(笑)」
02得手・不得手
得意なことと苦手なこと
3歳のとき保育園に入った。
聞き分けがよく、先生に「譲ってあげて」と言われたら、ほかの子に譲ってあげられる子だった。
園庭にはさまざまな遊具があり、お気に入りは飛行機の形をしたジャングルジム。
子どもの頃のことを思い出そうとすると、そのジャングルジムに一人で上っている姿が浮かぶ。
誰かと一緒に遊ぶより、一人で遊ぶほうが好きな子どもだった。
コマ回しや竹とんぼなど、新しく教えてもらった遊びは、誰より先に上手にできるようになった。
フラフープを回せるようになったのも、ほかの子より早かった。
「先生たちには『器用ね』とよく言われていました」
「同じクラスの子たちからは『すごーい』とうらやましがられていましたね」
得意なことがたくさんあった一方で、何度練習しても上達しないこともあった。
「鉄棒やマット運動は苦手でした。野球など、道具を使うスポーツも」
「最初にコツがつかめなかったものは、その後も上手くできませんでしたね」
学校生活の始まり
保育園に通っていたときから、軽度の難聴だった。
左耳は進行性の難聴、右耳は突発性の難聴。全く聴こえないわけではないため、聾学校ではなく、公立の小学校に入学した。
「相手の口の動きを読んで、聴こえない部分を補うという習慣が、子どもの頃から身に付いていたと思います」
元来、真面目で嘘がつけない性格であり、先生の評価は良かった。
小学校低学年のときは、クラスを率先して引っ張っていく存在だったと思う。
休み時間は、男友だちと一緒に、サッカーやドッジボールをして遊ぶことが多かった。
しかし、小学校入学後、一つだけ苦労したことがある。
「小学校から家までが、すごく近かったんです」
「当時は、NHK『連続テレビ小説』の放映が7時45分から8時までだったんですね」
「それを見てから学校に行くクセが直らなくて・・・・・・」
「いつも教室に着くのが、朝の会が始まるギリギリの時間でした(笑)」
03女子トイレへの抵抗感
男子トイレに入って怒られる
6〜7歳のときは、男女の違いを意識していなかった。
「うちには、おじいちゃんしか男がいませんでした」
「だから、性別の違いをあまり感じていなかったんだと思います」
祖父との体の違いを見つけたときは、「成長したら自分もこういう体になるんだろう」と思っていた。
しかし、小学校に入学し、男女が分けられる状況に違和感を覚えることが多くなっていった。
何より抵抗感があったのは、女子トイレに入ること。
「ここは自分の入口とは違う、という感覚だったんです」
「でも、男子トイレに入ったら先生に怒られちゃいました」
「長い休み時間に、管理棟というあまり人がいない校舎のトイレまで行ってましたね」
学年が上がり、担任が変わるたびに、男子トイレの使用を一度は試みた。
しかし、毎回怒られるのは変わらない。
先生に直接発見されるときもあったし、トイレの中にいた男子に「佐々木さんが入ってきましたー」と告げ口されることもあった。
「対応の仕方は、先生によって違いました」
「女性トイレに行きなさいって、厳しく言われたり・・・・・・」
「この場所はあなたが行く場所じゃないって、回りくどく説明する先生もいましたね」
小5のクリスマス
小学4年生のときに宿泊学習があり、その直前に、生理に関する説明を受けた。
友だちの中には知っている子も多かったが、自分にとっては初めて聞く話だった。
「自分の体に起こることだとは思ってなかったですね」
「人間の体にそんなことが起きるんだなぁっていう感じ(笑)」
「全然、ピンときていませんでした」
実際に生理がきたのは、小学5年生のクリスマスの日。
経血に気づいたものの、なかなか言いだせず、家族でクリスマスパーティーをしたあと母にこっそり打ち明けた。
「家族全員に『おめでとう』ってずっと言われ続けていて」
「ちっともありがたくないと思ってましたね」
自分の体は女性であり、1ヵ月に1回生理がくるのだと、周りに知られるのが嫌だった。
だから生理痛がつらくても、体育の授業に無理矢理参加する。
水泳の授業でも「生理なので休みます」と言えず、頭痛や腹痛を訴えて休むようにしていた。
04性への違和感は「気の迷い」
LGBTという言葉を知ったきっかけ
性同一性障害について知ったのは、ドラマ「3年B組金八先生」で上戸彩さんの演じた役を見たときだ。
当時の感想は、「こういう人もいるんだ」という程度で、自分と結びつけて考えることはなかった。
そこから10代後半に差しかかるまで、LGBTやトランスジェンダーという言葉に触れる機会はなかった。
「女の子同士でくっついていたりすると、『レズ』とからかわれることがありますよね」
「男の子同士で頭を寄せ合って携帯を覗いていたりすると『ホモ』と言われたり」
「バイト先でそういう言葉を聞いて、『それって何だろう?』と思い調べたんです」
「そのときにようやく、LBGTという言葉を知りました」
「上戸彩さんの演じた役も、これに当てはまるんだなって、記憶と言葉がつながったんです」
自己表現できる人がうらやましい
テレビの中の鶴本直を、自分は単純に「羨ましい」と感じた。
「直は、自己表現がしっかりできる人物じゃないですか」
「スカートを履きたくないと思ったら、学ランにシフトしたり」
「自分に重ね合わせて、ああやって自己表現ができたらいいな・・・・・・と思ってましたね」
10代の頃は、たとえスカートを履きたくないと感じても、一時の気の迷いと思い込もうとしていた。
周りの女の子と同じアイドルやファッションを追いかけていれば、いつかはそれらに興味が湧くはずと言い聞かせていた。
頭に思い描く「女の子」の枠に、自分を押し込もうとしていたのだ。
05学校に行きたくない
人間関係の疲れ
小学5年生のとき、先生に頼まれて、児童会役員として活動することになった。
ところが、役員の中で派閥が生まれ、人間関係にうんざりすることが多くなる。
同じ時期、成績がどんどん落ちていった。
先生の話を聞きながら、同時にノートを取ることが苦手だったため、授業に追い付けなくなっていったのだ。
いま振り返ると、「マルチタスクが苦手」という発達障害の症状に当てはまる。
しかし当時は、対処の仕様がなく、ただ自信が失われていくばかりだった。
ノートを取らずに先生の話に耳を傾けていると、「ノートはきちんと取ってくださいね」と名指しで注意されてしまう。
「名指しで注意された子のことを、からかう子っているじゃないですか」
「いつも真面目を気取ってるくせに何だよ、っていう失笑のムードを感じると、やっぱりしんどいですよね」
自分の中で折り合いのつかないことが積み重なり、小学5年生の後半からは、保健室登校を繰り返すようになる。
「朝、保健室に登校すると、養護の先生が教室に連れて行ってくれてました」
「でも、5年生の終盤で養護の先生が変わり、その習慣がなくなっちゃったんです」
「6年生になっても相変わらず教室に行けなくて、朝、学校を通り抜けて公園とかで1日過ごしてましたね」
中学校に入学したものの・・・
小学6年生のときに祖父が亡くなり、引っ越しをすることになった。
中学校では、新しい環境の中で心機一転を図りたいと思っていた。
しかし、うまく学校になじむことができなかった。
「1年生のうちはこの靴下の長さだと生意気だとか、学校ごとに暗黙のルールがあるじゃないですか」
「友だちが誰もいない中、そういうことを手探りで把握していくことに疲れちゃったんです」
小学6年生のとき、小児うつの診断を受けていたため、学校に行かなくても許される雰囲気があった。
無理は禁物・・・・・・と休み続けているうちに、登校できない日が積み重なっていく。
そんな娘のことを、母は心配していたと思うし、自分も母に相談したいと思っていた。
でも、お互いに不器用で、面と向かって話し合える関係ではなかった。
入院
中学2年生になったとき、児童精神科にしばらく入院することが決まった。
母は日中仕事に出ており、娘の体調が悪くても、常時付いているわけにいかないからだ。
入院生活は、中学3年生の卒業時期まで続いた。
「本音を言えば、家に帰りたかったです」
「病院という狭い空間に同世代が集まるため、いじめもありました」
「院内学級もありましたが、僕は行きませんでした」
病室は4人部屋。
当然、ルームメイトは女の子ばかりだ。
カーテンなどもなかったため、着替えひとつにも気を遣った。
当時はとても太っていて、チュニックのような服しか似合わなかった。
自分の体形にもファッションにも不満だらけだった。
何もかもが嫌な時期。自分を見つめ直す余裕はない。
「そのころは、一番自由になれるのは、音楽を聴いているときでした」
「ドリ―ムズカムトゥルーや、中島美嘉さんの曲をよく聴いてましたね」
「小学生のときに習っていたエレクトーンを弾くことも」
「自分の中の埋められない穴を、音楽で埋めているような感覚だったんです」
<<<後編 2019/03/22/Fri>>>
INDEX
06 昼の世界と夜の世界
07 自分はFTMだ
08 20歳の親孝行
09 母へのカミングアウト
10 あなたに生きていてほしい