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「生きていてほしい」。シンプルなメッセージが与えてくれた安心【前編】

笑うと、大きな瞳が輝く。見る人の気持ちを和ませてくれる、愛嬌のある笑顔が、FTM佐々木琴乃さんのチャームポイントだ。現在、26歳。トランスジェンダーであると同時に、聴覚障害と発達障害を抱える複合マイノリティであり、10代の頃は混沌とした数年間を過ごしたこともあったという。「自分の存在を肯定できなかった」という佐々木さんが、大事な人からもらったある言葉とは。

2019/03/20/Wed
Photo : Rina Kawabata Text : Sui Toya
佐々木 琴乃 / Kotono Sasaki

1992年、北海道生まれ。サッカーやドッジボールなど球技が得意で、小学生のときは男子に混ざって遊んでいた。小学校高学年から中学3年生まで不登校が続き、定時制高校へ進学。20歳から一人暮らしを始めた。地元では、LGBTの存在が表に出ることは少なく、自分が発信することで誰かの勇気につなげたいと考えている。

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INDEX
01 家族の空気
02 得手・不得手
03 女子トイレへの抵抗感
04 性への違和感は「気の迷い」
05 学校に行きたくない
==================(後編)========================
06 昼の世界と夜の世界
07 自分はFTMだ
08 20歳の親孝行
09 母へのカミングアウト
10 あなたに生きていてほしい

01家族の空気

ダチョウは憧れの象徴

動物の中で一番好きなのは鳥だ。

子どもの頃、最初に買ってもらった本は鳥類図鑑だった。小学3年生の誕生日には、母からセキセイインコをプレゼントされた。

もしも、1種類だけ飼っていいと言われたら、ダチョウを選ぶだろう。

「ダチョウは1匹のオスと、3〜4羽のメスで群れをつくって生活します」

「メスの中にはリーダーがいて、それぞれのメスが産んだ卵を、リーダーがまとめて育てるんです」

「危機が迫ったり、食べられたりしそうになったりしたときは、ほかのメスたちが協力して守るんですよ」

2歳のときに両親が離婚し、子どもの頃は寂しさを感じることもあった。

だからこそ、ダチョウの結束力の高さに憧れ、惹かれるのかもしれない。

忙しい大人たち

生まれたのは北海道の札幌市。

両親の離婚をきっかけに、母方の祖父母が暮らす千葉県に移り住んだ。
離婚後、父には一度も会っていない。

かすかに記憶に残っているのは、まつ毛が長いとか、色が白いとか、もしゃもしゃのクセっ毛とか、ディテールだけ。

幼い頃に別れたせいか、会いたいと思ったことはない。

当時は、祖父母と母、叔母(母の妹)、自分、2歳下の妹の6人暮らし。

母は仕事が忙しく、叔母も学業が忙しかったため、家の中に遊んでくれる大人はいなかった。

「お母さんは当時、ファミレスなど飲食店の管理職として働いてました」

「家に帰って来てからも、電話で打ち合わせをしたり、常に忙しい人っていうイメージがありましたね」

「いま考えると、お母さんは、小さい子どもを2人抱えて必死だったと思います」

「何かあっても相談できないような空気感を、子どもながらに感じてました」

犬猿の仲

自分の干支は申年で、2歳下の妹は犬年に生まれた。

だから小さい頃、妹とケンカをすると、周りの大人たちに「あんたたちは本当に犬猿の仲だねぇ」と言われた。

確かに、すごく仲のいい姉妹ではなかったと思う。

「でも、心のどこかで、妹は守らなきゃいけない存在だと感じていました」

「妹をからかうような子が小学校にいたら、蹴りを入れたり(笑)」

「大人たちが忙しいぶん、自分がしっかり面倒見てあげなきゃって」

自分はお姉ちゃんだからしっかりしないといけない。妹を守らなきゃいけない。

そんなふうに考えて、「寂しい」と口に出すことはできなかった。

尊敬する祖父について

家の中では、祖父が唯一の男。
仕事に力を注ぐ一方で、家族の時間を大切にする人でもあった。

「祖父の仕事は、土木建築業です」

「朝、日が昇るくらいの時間に仕事に出て行き、7時くらいに朝ご飯を食べに帰ってくるんです」

「打ち合わせなどで遅くなるときは、必ず家に連絡を入れてましたね」

「仕事と家庭を両立する姿を、かっこいいなって思ってました」

祖父にはお茶目な一面もあった。

「病気で塩分を摂りすぎちゃダメと言われているのに、僕に『スルメ買って来て』って、こっそりお願いするんです」

「それがバレて、二人そろっておばあちゃんに怒られることもありました(笑)」

02得手・不得手

得意なことと苦手なこと

3歳のとき保育園に入った。

聞き分けがよく、先生に「譲ってあげて」と言われたら、ほかの子に譲ってあげられる子だった。

園庭にはさまざまな遊具があり、お気に入りは飛行機の形をしたジャングルジム。

子どもの頃のことを思い出そうとすると、そのジャングルジムに一人で上っている姿が浮かぶ。

誰かと一緒に遊ぶより、一人で遊ぶほうが好きな子どもだった。

コマ回しや竹とんぼなど、新しく教えてもらった遊びは、誰より先に上手にできるようになった。

フラフープを回せるようになったのも、ほかの子より早かった。

「先生たちには『器用ね』とよく言われていました」

「同じクラスの子たちからは『すごーい』とうらやましがられていましたね」

得意なことがたくさんあった一方で、何度練習しても上達しないこともあった。

「鉄棒やマット運動は苦手でした。野球など、道具を使うスポーツも」

「最初にコツがつかめなかったものは、その後も上手くできませんでしたね」

学校生活の始まり

保育園に通っていたときから、軽度の難聴だった。

左耳は進行性の難聴、右耳は突発性の難聴。全く聴こえないわけではないため、聾学校ではなく、公立の小学校に入学した。

「相手の口の動きを読んで、聴こえない部分を補うという習慣が、子どもの頃から身に付いていたと思います」

元来、真面目で嘘がつけない性格であり、先生の評価は良かった。
小学校低学年のときは、クラスを率先して引っ張っていく存在だったと思う。

休み時間は、男友だちと一緒に、サッカーやドッジボールをして遊ぶことが多かった。

しかし、小学校入学後、一つだけ苦労したことがある。

「小学校から家までが、すごく近かったんです」

「当時は、NHK『連続テレビ小説』の放映が7時45分から8時までだったんですね」

「それを見てから学校に行くクセが直らなくて・・・・・・」

「いつも教室に着くのが、朝の会が始まるギリギリの時間でした(笑)」

03女子トイレへの抵抗感

男子トイレに入って怒られる

6〜7歳のときは、男女の違いを意識していなかった。

「うちには、おじいちゃんしか男がいませんでした」

「だから、性別の違いをあまり感じていなかったんだと思います」

祖父との体の違いを見つけたときは、「成長したら自分もこういう体になるんだろう」と思っていた。

しかし、小学校に入学し、男女が分けられる状況に違和感を覚えることが多くなっていった。

何より抵抗感があったのは、女子トイレに入ること。

「ここは自分の入口とは違う、という感覚だったんです」

「でも、男子トイレに入ったら先生に怒られちゃいました」

「長い休み時間に、管理棟というあまり人がいない校舎のトイレまで行ってましたね」

学年が上がり、担任が変わるたびに、男子トイレの使用を一度は試みた。

しかし、毎回怒られるのは変わらない。

先生に直接発見されるときもあったし、トイレの中にいた男子に「佐々木さんが入ってきましたー」と告げ口されることもあった。

「対応の仕方は、先生によって違いました」

「女性トイレに行きなさいって、厳しく言われたり・・・・・・」

「この場所はあなたが行く場所じゃないって、回りくどく説明する先生もいましたね」

小5のクリスマス

小学4年生のときに宿泊学習があり、その直前に、生理に関する説明を受けた。

友だちの中には知っている子も多かったが、自分にとっては初めて聞く話だった。

「自分の体に起こることだとは思ってなかったですね」

「人間の体にそんなことが起きるんだなぁっていう感じ(笑)」

「全然、ピンときていませんでした」

実際に生理がきたのは、小学5年生のクリスマスの日。

経血に気づいたものの、なかなか言いだせず、家族でクリスマスパーティーをしたあと母にこっそり打ち明けた。

「家族全員に『おめでとう』ってずっと言われ続けていて」

「ちっともありがたくないと思ってましたね」

自分の体は女性であり、1ヵ月に1回生理がくるのだと、周りに知られるのが嫌だった。

だから生理痛がつらくても、体育の授業に無理矢理参加する。

水泳の授業でも「生理なので休みます」と言えず、頭痛や腹痛を訴えて休むようにしていた。

04性への違和感は「気の迷い」

LGBTという言葉を知ったきっかけ

性同一性障害について知ったのは、ドラマ「3年B組金八先生」で上戸彩さんの演じた役を見たときだ。

当時の感想は、「こういう人もいるんだ」という程度で、自分と結びつけて考えることはなかった。

そこから10代後半に差しかかるまで、LGBTやトランスジェンダーという言葉に触れる機会はなかった。

「女の子同士でくっついていたりすると、『レズ』とからかわれることがありますよね」

「男の子同士で頭を寄せ合って携帯を覗いていたりすると『ホモ』と言われたり」

「バイト先でそういう言葉を聞いて、『それって何だろう?』と思い調べたんです」

「そのときにようやく、LBGTという言葉を知りました」

「上戸彩さんの演じた役も、これに当てはまるんだなって、記憶と言葉がつながったんです」

自己表現できる人がうらやましい

テレビの中の鶴本直を、自分は単純に「羨ましい」と感じた。

「直は、自己表現がしっかりできる人物じゃないですか」

「スカートを履きたくないと思ったら、学ランにシフトしたり」

「自分に重ね合わせて、ああやって自己表現ができたらいいな・・・・・・と思ってましたね」

10代の頃は、たとえスカートを履きたくないと感じても、一時の気の迷いと思い込もうとしていた。

周りの女の子と同じアイドルやファッションを追いかけていれば、いつかはそれらに興味が湧くはずと言い聞かせていた。

頭に思い描く「女の子」の枠に、自分を押し込もうとしていたのだ。

05学校に行きたくない

人間関係の疲れ

小学5年生のとき、先生に頼まれて、児童会役員として活動することになった。

ところが、役員の中で派閥が生まれ、人間関係にうんざりすることが多くなる。

同じ時期、成績がどんどん落ちていった。

先生の話を聞きながら、同時にノートを取ることが苦手だったため、授業に追い付けなくなっていったのだ。

いま振り返ると、「マルチタスクが苦手」という発達障害の症状に当てはまる。

しかし当時は、対処の仕様がなく、ただ自信が失われていくばかりだった。

ノートを取らずに先生の話に耳を傾けていると、「ノートはきちんと取ってくださいね」と名指しで注意されてしまう。

「名指しで注意された子のことを、からかう子っているじゃないですか」

「いつも真面目を気取ってるくせに何だよ、っていう失笑のムードを感じると、やっぱりしんどいですよね」

自分の中で折り合いのつかないことが積み重なり、小学5年生の後半からは、保健室登校を繰り返すようになる。

「朝、保健室に登校すると、養護の先生が教室に連れて行ってくれてました」

「でも、5年生の終盤で養護の先生が変わり、その習慣がなくなっちゃったんです」

「6年生になっても相変わらず教室に行けなくて、朝、学校を通り抜けて公園とかで1日過ごしてましたね」

中学校に入学したものの・・・

小学6年生のときに祖父が亡くなり、引っ越しをすることになった。

中学校では、新しい環境の中で心機一転を図りたいと思っていた。

しかし、うまく学校になじむことができなかった。

「1年生のうちはこの靴下の長さだと生意気だとか、学校ごとに暗黙のルールがあるじゃないですか」

「友だちが誰もいない中、そういうことを手探りで把握していくことに疲れちゃったんです」

小学6年生のとき、小児うつの診断を受けていたため、学校に行かなくても許される雰囲気があった。

無理は禁物・・・・・・と休み続けているうちに、登校できない日が積み重なっていく。

そんな娘のことを、母は心配していたと思うし、自分も母に相談したいと思っていた。

でも、お互いに不器用で、面と向かって話し合える関係ではなかった。

入院

中学2年生になったとき、児童精神科にしばらく入院することが決まった。

母は日中仕事に出ており、娘の体調が悪くても、常時付いているわけにいかないからだ。

入院生活は、中学3年生の卒業時期まで続いた。

「本音を言えば、家に帰りたかったです」

「病院という狭い空間に同世代が集まるため、いじめもありました」

「院内学級もありましたが、僕は行きませんでした」

病室は4人部屋。
当然、ルームメイトは女の子ばかりだ。

カーテンなどもなかったため、着替えひとつにも気を遣った。

当時はとても太っていて、チュニックのような服しか似合わなかった。

自分の体形にもファッションにも不満だらけだった。

何もかもが嫌な時期。自分を見つめ直す余裕はない。

「そのころは、一番自由になれるのは、音楽を聴いているときでした」

「ドリ―ムズカムトゥルーや、中島美嘉さんの曲をよく聴いてましたね」

「小学生のときに習っていたエレクトーンを弾くことも」

「自分の中の埋められない穴を、音楽で埋めているような感覚だったんです」


<<<後編 2019/03/22/Fri>>>
INDEX

06 昼の世界と夜の世界
07 自分はFTMだ
08 20歳の親孝行
09 母へのカミングアウト
10 あなたに生きていてほしい

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