02 すべての悩みをバスケで発散
03 トゲトゲを極めた高校時代
04 厳しい寮生活で学んだこと
05 恋愛依存症をこじらせて
==================(後編)========================
06 学校での呼び名は “軍曹”
07 男として生きる決意
08 新しい自分の新しい生活
09 トントン拍子で結婚へ
10 夢に向かって一歩一歩
01控えめな兄、勝気な妹
兄のお下がりを着て
喧嘩のときは馬乗りになって兄を殴る。そんなアグレッシブな妹だった。
「兄が少年野球のチームに入っていたので、僕も練習について行って、たまに参加させてもらったりしていました」
「誰かがヒットを打ったら、代わりに一塁まで走らせてもらったりとか(笑)。でも、そこでアウトになったら本気で怒るくらいに勝気な子でした」
「兄よりも気が強かったので、喧嘩はいつも殴り合い。馬乗りになって、お互いにボッコボコにしてましたね」
兄妹の喧嘩といえば、妹が泣かされる様子が想像できるが、大久保家は例外だった。
小学校は私服だったので、常にパンツスタイル。兄のお下がりを着ていた。
スカートをはいたのは6年間でたった2度だけ。1年か2年生と、6年生の音楽会のときだけだ。
スカートをはくのは嫌だったけど、目立ちたがり屋でもあったので、周りにからかわれながらも「ま、いいか」と思った。
言ってはいけない “感情”
多くのボーイッシュな女の子がやんちゃな男の子からからかわれるように、やはり “おとこおんな とからかわれた。
しかし、喧嘩が強いこともあって、しつこくからかわれることも、男の子が自分から喧嘩をしかけてくることもなかった。
ガキ大将のような存在だったのだ。
男の子から嫌がらせを受けた女の子が、救いを求めてくることもあった。
“おとこおんな” という呼び名も、嫌ではなかった。
“おとこ” という言葉が入っていることで、女の子よりも強そうなイメージだったから。
男の子からも女の子からも一目置かれる存在であるボーイッシュな自分を、実は気に入っていた。
しかし6年生のとき、同級生の女の子を好きになってから小さな変化が起きる。
誰かに恋の相談をしたい。
あるとき、信頼できる友達に打ち明けた。
「友達は『いいんじゃない』と受け入れてくれました。そこで調子にのってしまって他の子にも言ったらクラス全体に広まってしまって、本人の耳にも届いてしまったんです」
女の子が女の子を好きだって言っている。
あの人はレズなんじゃないか。
「そんな風に噂されて、これは言ってはいけない感情なんだと思い、気持ちを隠すようになりました」
「仲間はずれにされるのは怖かったんです」
その気持ちを隠してさえいれば、学校生活は楽しかった。
02すべての悩みをバスケで発散
気まずい恋バナ時間
中学は私立の女子校へ進学。
バスケットボールがやりたくて、その学校が県で一番の強豪校だったからだ。お母さんの母校だったことも後押しとなった。
制服はセーラー服だった。
「入学式でセーラー服姿を見られるのが嫌で嫌で、モジモジしながら行ったんですが、周りは誰も気にしてなくて」
「自分だけがセーラー服を過剰に意識していただけでした」
それでもスカートに対する抵抗感は拭えなかったので、スカートの下には常に短パンをはいていた。
制服には抵抗感があったが、バスケは楽しかった。チームではセンターを務め、得点に大きく貢献した。
毎日毎日、練習に明け暮れた。
そんなとき、たまに気まずい時間が訪れることがあった。
それは、女の子同士の恋バナだ。「ドコソコ中学のダレソレくんが好き」、そんなことを言い合う時間だ。
「小学校のときに女の子を好きになって、周りから変な目で見られてから、やっぱり自分はおかしいのかなと、ずっとモヤモヤしてました」
「それからは、誰かを好きになるのはやめようと思って、気持ちを押し殺してました」
「自分のことが、よく分からなかった。レズなのか、なんなのか」
「男の子に対しては好きともなんとも思わなかったのに、『好きな男の子』の話題になると、友達同士では適当に、知ってる男の子の名前を好きな人の名前として挙げていました」
恋愛から自分を遠ざけて
友達の輪からはずれないように。ときには噓をついてまで、そう努めていたにもかかわらず、スポーツ万能でボーイッシュな自分に告白する女の子もいた。
「うれしい反面、ものすごく戸惑いました。また周りから変な目で見られるんじゃないか・・・・・・そう思ったら、その子と距離をおくしかなかった」
「僕が誰かに告白されたという噂さえ、もう広めたくなかったんです」
「誰にも言えない悩みをバスケで発散していました。バスケ部のなかでも、レギュラー争いが激しかったりして、恋愛どころではなかったし」
「それでも、相変わらず目立ちたがり屋でしたよ(笑)。体育委員長を買って出たりとか。でも、ブルマをはいて、みんなの前で体操させられるのが嫌で辞めました」
「ブルマが嫌だったのは、女性が身につけるものということもありましたが・・・・・・そもそもパンツですよね、アレ(笑)」
体育の時間はいつも、ブルマを忘れたと言って長ズボンをはいていた。
点数を引かれたとしても、怒られたとしても。
03トゲトゲを極めた高校時代
溜まった葛藤が爆発
高校でもバスケを続け、インターハイに出場し、国体選手にも選ばれた。
身長は167センチとバスケ選手としては高い方ではない。だからこそ、センターのポジションを必死で死守した。
そんなバスケ部のなかで、特に仲のよいチームメイトがいた。部活も一緒、クラスでも一緒だった。
すると次第に、自分以外の友達と一緒にいる彼女に対して憤りを感じるようになった。
この気持ちは、もしかして。
でも、誰かを好きになるなんてダメだ。
「自分のなかの葛藤が溜まりに溜まって、爆発してしまったんです。その子に怒りをぶつけて、大喧嘩してしまいました。何を言ったのか、あまり覚えていません。きっと支離滅裂だったと思います・・・・・・」
こんなに好きなのに、彼女は気づいてくれない。
こんなに好きなのに、気持ちを伝えられない。
こんなに好きなのに! こんなに好きなのに!
「喧嘩のせいで、その子はしばらく学校を休んでしまいました。きっと、僕が何に対して怒っていたのか、分かっていなかったはず」
「さらに、一緒に選ばれた国体の遠征先でも喧嘩をしてしまって、かなり気まずくなってしまいました。結局は自分から謝りましたが、やはり気まずいままでした」
「恋愛感情を抑えすぎていて、気持ちの伝え方が分からなかった。好きだという気持ちに苛立って、トゲトゲしていました」
「相談する相手もいませんでした」
「周りからは元気で明るいボーイッシュな子だと思われていたから、自分の負の部分を見せたくなかったんです」
成長していくにつれて、胸が大きくなることが嫌でたまらないことも、誰にも言えなかった。
両親への反抗
当時は、ニューハーフのことも、性別適合手術のことも、身近のこととして考えていなかったし、「男みたいだ」と言われて悪い気はしないけれど、「男になりたい」と考えることはなかった。
なにより、トイレも女子トイレだけ、制服もセーラー服だけ、という女性だけの女子校という環境のなかでは、性を特に意識することもなかった。
しかし、苛立ちは募っていく。
両親への反抗も激しくなっていった。
「遠方で練習があるときは、母親が車で迎えに来てくれていたんですが、『来るのが遅い』と文句を言ったこともあります。母は仕事のあと、疲れていても僕を迎えに来てくれていたのに・・・・・・」
「父には『お父さんが試合に来たときは、調子が悪い』って言ったり・・・・・・。それでも父は試合を見に来てくれていました」
押し殺してきた感情、抱えきれなくなった苛立ちが、トゲのある言葉となってあふれ、大切な人へ攻撃してしまっていたのかもしれない。
04厳しい寮生活で学んだこと
片膝と両手を床につけて
大学は大阪体育大学に進学。
バスケ部員は、実家から通うか寮生活かの二択だった。高知の実家から通えるはずもなく、寮生活が始まった。
練習が厳しいのはもちろん、部内も寮内も規律が厳しかった。
話しかけるときはまず「失礼します。今お時間よろしいでしょうか」。そして目線を合わせるため、相手が立っていたら立って、座っていたら片膝と両手を床につけて低い姿勢で。
相手が電話で話しているときは声をかけないで会釈のみ。言葉使いからタオルの置き方まで細かなルールがあった。
休みの日は一日中掃除。午前中は体育館のフロアをモップではなく雑巾で磨く。
午後は寮の掃除だ。ルールに従えない者がいたら、全員がミーティングに呼び出される。連帯責任だと注意を受けた。
「監督はいつも、『ここで厳しい生活に耐えたら、どこでもやっていける』と言っていました。今となっては、確かにそうだなと」
「辛くて辞めてしまう人もいましたが、僕は大学4年間でバスケや礼儀や・・・・・・いろんなことを学んだと思います」
上には上がいる。そのことも学んだ。
「高知では一番の強豪校でやってきたし、もっと強いところでやりたいと思って大学まで来たけれど、全国から選手が集まっているだけあって、最初に鼻をへし折られました」
「選手は上からABCとランクがつけられるんですが、僕は、最初はCだったんです。それで、なんとか上にいきたい一心で4年間必死にバスケに打ち込みました」
「その甲斐あって、4年生のときにはなんとかAまでいきました。運もよかったんですけどね(笑)」
1年生でカミングアウトする人も
バスケに没頭していた大学4年間。
中学でも高校でも、合宿ではチームメイトに体を見られたくなくてバスタオルで隠したまま風呂に入っていたが、大学では時間に追われているため、寮の風呂場でそんなことを気にしている暇もなかった。
「実は、1〜2年生のときは男女でクラスが分けられるので、1年の初めにカミングアウトする子もいたんです」
「でも、自分はまだレズビアンなのかトランスジェンダーなのか、分かっていなかったし、カミングアウトするなんて思ったこともありませんでした」
「親友の同級生に、手術して戸籍を変えた人もいるとも聞いたときは、『ほんまにそんな人がおるんや』と衝撃を受けましたが、自分とつなげて考えることはありませんでした」
「あの頃は、とにかくバスケのことばかり考えていたんです」
05恋愛依存症をこじらせて
気持ちの伝え方が分からない
大学では、初めて恋愛を経験した。相手は同じバスケ部の同級生の女の子。
仲良くなって、お互いが好きだと確認し合って、付き合うようになった。
「大学では、セクシュアリティをオープンにして付き合っているゲイの人とかもいたんですが、僕たちはバスケ部同士だったし、周りにバレるわけにはいかなかったんです」
「周りから『急に仲良くなったね、付き合ってんじゃないの?』と聞かれることがあっても、必ず否定していました」
周りに言えないストレスからだろうか、その関係は2ヶ月も続かなかった。
「今まで恋愛をしないように生きてきたので、気持ちの伝え方が分からないし、相手に対する嫉妬もすごくて、恋愛依存症みたいになっていました」
「しかも、あまのじゃくだしトゲトゲしかったし、プライドが高くて、ちょっと馬鹿にされただけでスグ怒ってたので喧嘩ばかりでしたね」
苦しい恋の結末
そんななか、後輩の女の子に恋をした。
好きだ、付き合おう、と想いも告げた。
しかし、相手からの返事は「好きだけど、恋愛の好きじゃない」。
それでも仲良く一緒にいた。それこそ、まるで付き合っているかのように。
それが、逆に苦しかった。
こんなに一緒にいるのに、付き合えないなんて。
卒業してからも一緒に過ごすことはあったが、次第に相手から避けられるようになった。
どうして、うまくいかないんだろう。
好きなのに付き合えない。付き合えたとしても女性同士だから結婚できない。
この先の人生は真っ暗だ。
こんな人生なら、もう死んでしまいたい。
そして、手首を切った。
「きっと本気で死のうという覚悟はなかったんだと思います。自分を傷つけて、辛い気持ちをごまかそうとしていたんだと」
「手首を切ったあと親友に電話をしたら、すぐに駆けつけてくれて・・・・・・めっちゃ怒られました」
「そんなことがあったのと、地元で教職の話をいただいていたこともあって、それから実家に帰りました」
「手首の傷は絆創膏で隠していたんですが、きっと母親は気づいていたんだと思います。でも、『なんで帰ってきたの?』とはきくけれど、絆創膏については触れてきませんでした」
それは、お母さんの優しさだったのだろう。
傷が癒えたころ、地元で彼女もできた。そのことを親友に報告したら、厳しい言葉が返ってきた。
「今後も女の子と付き合っていって、親に言えるの? 親に言えないならやめたほうがいい。さらにこの先、結婚したいのなら戸籍を変えないと。戸籍を変える覚悟はあるの?」
正直なところ、そのときはまだピンときていなかった。
<<<後編 2017/01/25/Wed>>>
INDEX
06 学校での呼び名は “軍曹”
07 男として生きる決意
08 新しい自分の新しい生活
09 トントン拍子で結婚へ
10 夢に向かって一歩一歩