02 憧れは男子用の海水パンツ
03 がむしゃらにバスケに打ち込む生活
04 信頼できた顧問の先生
05 後輩たちに慕われるキャプテン
==================(後編)========================
06 目標は日体大。体育教師を目指す
07 女らしい変化がなかった大学時代
08 友だちからのメールで気づいた性同一性障害
09 次の恋愛のときは男でいたい
10 ありのままの自分を見つける旅
06目標は日体大。体育教師を目指す
高校生になっても環境の変化はなし
中高一貫なので、エスカレーター式に高校には上がれる。しかし、一時期、他校を受験しようかと悩んだことがあった。
「そのまま高1になると、バスケ部で高校生は自分一人になってしまいますよね。そうすると大会にも出られない。それならほかの高校に行ったほうがいいんじゃないか、と考えたんです」
しかし、顧問の先生から「お前だからできることがあるんじゃないか」と説得された。
「先生の言葉を聞いて、後輩たちと頑張ることにしました」
そして、中学の頃と変わらないバスケ漬けの日々が続く。
「人数が足りないほかの高校との合同チームを作ってもらって、大会に参加することもできました」
他校の選手と一緒に練習をすることで、いろいろと気づくことも多かった。
「自分のチームでは一番でも、やっぱりほかの学校にはもっとうまい人がいることを知りました」
高校から入ってくる生徒はいないため、高校に上がっても生活自体に大きな変化はなかった。
「クラスメイトも先生もみんな同じですからね」
高校生でも「立ち寄り禁止」の校則は変わらなかった。
「それが当たり前だと思って、超厳守してました(笑)」
仲のいい後輩とは、学校から最寄駅まで一緒に帰り、駅で30分立ち話をして別々の方向の電車に乗った。
「本屋と文房具屋だけはオッケーでしたけど、帰り道での買い食いはもちろんダメでした。でも、部活のみんなは守ってたし、守るのが普通と思っていたので、苦にはなりませんでしたね」
体育の先生に憧れて、将来の進路を決定
卒業後の進路は早い時期から決めていた。
「中1のときの体育の先生がとてもカッコよくて、憧れてしまったんです」
「どうしたら先生にようになれるんですか」と聞くと、「体育大にいくのよ」とやさしく教えてくれた。
そして、「先生になるんだったら日体大が多いわね」とアドバイスをもらう。
「それ以来、頭の中は日体大一本になりました」
自分もスポーツが好きだったため、子どもたちにスポーツの楽しさを教える仕事は天職に思えた。
姉は小学校から大学まで公立に通い、自分は中高、そして大学も私立を目指すことになった。
「母には、お前は本当にお金がかかるんだから、といわれましたけどね(笑)」
そう言いながらも、両親は進学を応援してくれた。
受験を目指して予備校へ
毎年8月にカトリック系の高校だけが集まるカトリック球技大会がある。
「神奈川、東京、静岡、栃木などから30校くらいが参加するんですけど、毎年、その大会での優勝を目標にしてました」
高3の夏もカトリック球技大会を目指して汗を流し、それを最後に6年間打ち込んだ思い出の部活を引退した。
「それから日体大受験を目指して、アスリート体育大予備校に通い始めました」
日体大の受験科目は、国語と英語。実技テストは、50メートル走、上体起こし、反復横跳び、ハンドボール投げがある。
「予備校では、実技も含めて、受験対策を教えてもらいました」
07女らしい変化がなかった大学時代
アルティメットに挑戦
予備校に通った甲斐もあり、第一志望の日体大体育学部に合格することができた。
「6年間、女子校に通っていたので、最初は男子とどうつき合ったらいいのか、分かりませんでしたね」
とはいうものの、クラスは男子クラス、女子クラスに分かれ、机を並べて同じ授業を取ることもなかった。
「なんだか、女子大に行ってるような感じでした」
体育大学だけに、メジャーなスポーツには優秀な人材が全国から集まってくる。
「自分の実力では、バスケットボール部でやっていくのは無理だと分かってました」
そこで選んだ競技がアルティメットだった。
「フリスビーを投げながら前進するスポーツで、ルールはアメリカンフットボールに似てます」
味方が投げたフリスビーをキャッチすると、そこで立ち止まり、味方選手へのスローをうかがう。フリスビーが落ちると、即、攻守交代となるスピーディーな競技だ。
「楽しかったんですけど、1年間やって辞めてしまいました」
大学から離れたエリアで行われる放課後の場所取りや、遠征費が大きな負担になった。
「遠征費を稼ぐためにバイトをすると時間がなくなって。教員試験は絶対だったので、大丈夫かな、と不安になってしまいました」
自分だけ変わらない
中高と6年間、一緒だった友だちとは連絡を取ることもなかった。
「校則が厳しかった分、大学生になって一気に弾ける子が多かったんです」
服装が変わり、化粧がハデになり、みんなそれぞれに女らしく変化していった。
「ところが、自分だけは全然、変わらないんです。昔の友だちから、変わらないと思われるのが嫌で、会いたくなかったですね」
自分を貫いている、といえば聞こえはいいが、みんなとのギャップは大きかった。
「大学にもジャージで通学してましたからね。女らしく変化する環境じゃなかったですね(笑)」
しっくりこなかった男子とのつき合い
大学1年生のとき、アルティメットで一緒だった男子に声をかけられ、つき合ったことがある。
「嫌いでもないし、つき合ってみようか、って感じでしたね」
しかし、気になるのは、相手の自分に対する接し方や立ち居振る舞いばかり。楽しい思い出はほとんどなかった。
「男性が女性に対してそうする? 自分だったらこうするのに、って男の目線でばかり考えてました(笑)」
デートのときも、服装はお互いにジャージだった。
「サークルを辞めたら会う機会もなくなって。半年くらいで別れちゃいました」
08友だちからのメールで気づいた性同一性障害
自分も性同一性障害か?
ある日、予備校、大学と一緒の友人から一通のメールが届く。20歳のときだった。
「これから治療を始めます。いろいろな変化が起こると思うけど、変わらずに仲よくしてくれるなら、よろしく」という内容だった。
「その子がセクシュアリティに悩んでいることを知らなかったので、まずはびっくりしましたね」
それから、「それ、いいな」という気持ちがジワジワと湧いてきた。
「男になれるのか、と思うと、自分がやりたいことのリストがバッと頭の中に広がったんです」
ホルモン注射、男性化、男子学生・・・・・・。
メールに並ぶ言葉を何度も見るうちに、「自分が求めているものはこれだ!」と確信に変わった。
自信があったカミングアウト
実は、高校生のときに「あんた、性同一性障害じゃないの?」と、母にいわれたことがあった。
「そのときは、はるな愛さんとかテレビに出ている人が思い浮かぶだけで、深く考えたりもしませんでした」
その時の記憶もあり、母へのカミングアウトは絶対に否定されないという自信があった。
「もしかしたら、性同一性障害だと思うんだよね」と話すと、「やっぱりね」といわれる。
「母に話すとモヤモヤが晴れたというか、楽になりました。ただ、そのときは治療や将来の話まではしませんでした」
その後、母が父や姉に話してくれたようだが、否定的なフィードバックは誰からもなかった。
普通の男の人がいい
21歳のとき、初めて意中の人とつき合うことになる。
「幼なじみの女性でした。最初に自分のことを話して理解してもらってから、少しずつ会う時間が長くなっていきましたね」
いつしかいろいろな話ができる仲になり、信頼関係が築かれた。
「楽しかったですね。男性とつき合っていたときに感じたイライラを反面教師にして、やさしく接することができました」
交際していることは、母にも打ち明けた。
「でも、対外的には内緒にしてました。だから、出かけるときも知り合いに会わないところを選んでましたね」
服も男性的なものを着ていたから、知らない人には中性的に見えたはずだ。
「声が高くて、あれっと思われるのが嫌だったんで、食事の注文は彼女がしてくれました」
つき合いは1年弱続いたが、あるとき「やっぱり普通の男の人がいい」と別れを告げられた。
「普通」の男の人・・・・・・。
その言葉が耳に残った。
09次の恋愛のときは男でいたい
夢が叶った、念願の体育教師
大学を卒業後は、予定どおり湘南エリアにある母校の体育教師として採用が決まる。
「夢が叶った! という感じでした。最初の年から中1の担任を任され、朝6時半に学校に行って、10時まで働く生活をしてました」
慕ってくる子どもたちには何でもしてあげたい、という気持ちで誠心誠意、頑張った。
「クルマで通勤してたので、立ち寄りもありませんでした(笑)。1日の時間のほとんどが仕事でしたね。ほかの先生からしたら、ひたむきすぎて声をかけづらい存在だったかもしれません」
実は、母にカミングアウトをした後、すぐにでも治療を始めたいという思いはあった。
「でも、治療を始めたら、教育実習にいかせてもらえないんじゃないか、学校に受け入れてもらえないんじゃないか、と不安になって」
規律の厳しい母校。教わった先生もたくさんいる。卒業後もボランティアで部活にも、ときどき顔を出していた。
「とにかく、先生になりたい気持ちが強くて、そのままでいることにしました」
いったん先送りにしたセクシュアリティの課題は、多忙な仕事のなかでしばらく封印されることになる。
4年間つき合った彼女との別れ
ふたりめの恋人は、大学の友人の紹介で知り合った。
「とてもやさしい人でした。お互いの親にも紹介しあって、将来のことも考えてました」
ところが、4年ほど経ったとき、彼女のほうから別れたいと申し入れがあった。
「やさしいし好きだけど、別れたいっていうんですよ。それって別れる必要ないんじゃない? っていいましたよ。納得できませんよね」
しかし、彼女には「勉強がしたい」「スキルアップがしたい」などといろいろな理由を並べられ、ついに押し切られてしまった。
「あとから母に聞いたんですけど、普通に結婚がしたい、子どもを生みたいって話していたらしいんです。本心はそっちかな、と思いました」
職場には話さないまま胸オペを受ける
彼女との別れは大きな意味を持った。
「このままだと、次につき合う人とも同じことになる、と思ったんです。次に恋愛をするときは、結婚できるようになっていたい、ということです」
それは、治療を始めて男になるということだった。
今までは仕事とセクシュアリティを天秤にかけると、断然仕事の比重が勝っていた。そのバランスが一気に逆転したのだ。
「母に相談すると、早いほうがいいんじゃない、と応援してくれました。それから本格的に治療について調べたんです」
学校には告げずに胸オペをするつもりだったが、バスケ部の恩師にだけは事情を打ち明けた。
「先生は、そうなのか、と受け入れてくれました。金曜に有給を取って日帰りの手術を受け、週末に休んで月曜から普通に出勤しました」
胸がないまま同じような生活をしたが、バレることはなかった。
「もともと、あまりあるほうじゃなかったんで、大丈夫でした(笑)」
10ありのままの自分を見つける旅
男の先生としてスタートを切る
胸オペが済むと、次の目標はホルモン治療だった。
「1日で診断書を出してくれる病院も知ってたんですが、教師という立場を考えて、しっかりとガイドラインに沿ったカウンセリングをしてくれる病院を選びました」
月に1回、仕事を早退して約5カ月通院。翌年の2月に診断が下りた。
「そこまで進めてから学校に相談しました」
生徒指導部長、保健室の先生、校長先生、保護者会と、手順を踏んで理解を得ていった。
「校長先生は神父様なんですけど、『いいじゃないですか』と柔軟に対応してくれました」
学校としても、特に仰々しい発表は止めて、生徒たちに配る名簿の名前を変えるだけで対応しようということになる。
新しい名前は、もし、男の子が生まれていたら「良太」になるはずだったと親から聞いて、「良」とした。
「生徒へは名簿を配って、それについて質問がある子は直接来るよう、担任の先生方を通して伝えました。実際に質問に来た子は、4、5人でしたね」
「保護者会では自分で説明して、何かあれば教えて欲しいと話しましたが、特に何もありませんでした」
授業中に大声で指示を出すと、声がわり中の声がひっくり返ることがあった。それを生徒たちと一緒に笑うのが恒例になった。
「保健の授業ではLGBTに触れる機会があって、先生はこの『T』なんだよ、と説明しました」
「先生、笑顔が増えましたね」といってくれる生徒もいた。男の先生としての再スタートは上々だった。
井の中の蛙だった
憧れて飛び込み、情熱を傾けてきた職場だが、次第に組織に疑問を抱くようになっていた。
「学校は外部との交流が少ない、とても閉鎖的な社会なんです。生徒だった時には見えなかった部分が気になるようにもなりました」
こんなこともあった。生徒のなかに、いつも手をつないでいる女子同士のカップルがいた。
「その子たちをマイナスの目で見て、職員室で悪くいう先生がいたんです。いろんな人がいるのにな、と内心、嫌な気持ちになりました」
一方、治療を始める決心が、自分自身の人生を見つめ直すきっかけにもなった。
「子どもたちのために全力で頑張ってきましたけど、自分は井の中の蛙だったんだ、と思えてきました」
ホルモン注射を始めてから1年、母校に別れを告げる決心をした。
人の可能性を引き出すコーチング
「辞めたときは、まだ、次に何をするか決めてませんでした」
心の中で反響していたのは、「お前だからこそできることがあるんじゃないか」という、中3のときにもらった恩師の言葉だった。
自分探しを始めて出会ったのは、コーチングという仕事だった。
「ティーチングが教えることに重点を置くのに対して、コーチングは相手のいいところを引き出すことを重視します」
気づきを与え、視界を広げる。そうすることで、失っていた自信を取り戻し、目標に向かう気力が湧いてくる。
「今、コーチングしているのは、小学校1年生から5年生までの子どもたちです。教員としての経験も生きる職場です」
教師として突っ走った7年間は、「模範でなくてはならない」「先生でなくてはならない」というプレッシャーのなかに自分を追い込んでいた。
「SNSですら、ずっと我慢してきました。本当は自分にもやりたいことが、当時からたくさんあったんだと思います」
本来の体を取り戻したことで、新しい世界が目の前に拓けてきた。
「内摘も終わって、戸籍変更も終えました」
「男になってうれしかったことのひとつが、海パンになれたことですね。最初にプールに行ったときは緊張しました。本当に脱いでいいのかって感じで(笑)」
男性として生きる第2の人生が始まった。
現在、大切なパートナーがいる。
「お互いがとても大きな存在です。今の僕の原動力でもあるんです」
小さい頃に憧れた海パン姿も教師の仕事も現実になった。
ずらりと並ぶやりたいことリストには、次々とチェックがついていく。
新しい項目も増えて、リストはいつも更新中だ。
僕の人生と出会ってくれた方へ
僕はかつて、誇らしい自分には価値があるけれど、それ以外の自分には価値がないと思っていました。
でも、僕は間違っていました。
「今、自分がここにいる」。それだけで価値があって、全ての人は、「生まれてきた」。ただそれだけで十分に価値のある存在なのです。
女の子として生まれてきた僕
女性として過ごしてきた僕
この記事にある人生を歩んできた僕
この全てが十分に価値のある、愛すべき僕でした。
一歩外の世界へ出て多くの人と関わり、学んでいく中で、そのことに気がついて、「自分にしかできないことがあるのだ」ということにたどり着くことができました。
自分を変えられるのも
自分を一番大切にしてくれるのも
自分をいつでも応援してくれるのも
自分を一番愛せるのも、自分です。
僕は今
一人一人が自分らしく生きるために、全ての人が自分を心から愛せる世界を作るために動き出しました。
僕と一緒にそんな世界を作りませんか?