02 遊び相手はいつも男の子
03 空手を修得、ほかの子を圧倒
04 初恋の人は理科の先生
05 からかってきた男子をローキックで瞬殺
==================(後編)========================
06 叶わなかった大学進学
07 介護とカラオケの日々
08 性同一性障害と診断され、ホルモン治療を開始
09 セクシュアリティはFTMのゲイ
10 熱中できる趣味がいっぱい
06叶わなかった大学進学
化学の成績がグンと伸びた
高校は府立の普通科に進学した。
入学式の日だけスカート。あとはズボンをはいて過ごすことになる。
その高校は3年生から自分の好きな科目を選べる、総合選択制を採用していた。
「その制度が珍しかったんで・・・・・・。入試は5倍を超える難関でした」
もともと、嫌いな授業はまったく受けつけないが、夢中になると人一倍、集中力を高める才能があった。
「宇宙科学、生物学、化学、数学は成績が伸びましたね。特に化学は大好きでした」
最初は化学式が理解できなかったが、あるとき閃いて解き方をマスターすると、クラスメイトに教えるほどになる。
教えてあげた子ができるようになると、先生が「あんた、教え方上手やな。私より上やで」と驚いた。
「成績が上がるにしたがって、理系の大学に行きたい、と思うようになりました」
目標にしたのは、大阪市立大理工学部だった。しかし、母に相談すると、にべもなく却下されてしまう。
「ライバルが多い。それに、いったい、誰がセンター試験代を払うんですか、といわれました」
関西大でもいい、というと「私立やん、高い!」と否定された。
「びっくりしたのは、『私、結婚するし』といわれたことでした」
まさに寝耳に水。そんな話はまったく聞いていなかった。
「結婚するん? じゃあ、大学は無理やな、と諦めました」
もし、進学していたら、違う人生になっていたかも・・・・・・。そう思うことはある。
否定されたあの夢この夢
大学に行けないことになり、高校卒業後の目標は障がい者養護学校の先生になった。
「実は、自分も何か障がいを持っているんじゃないか、という疑問があって、中学の頃から考えていた夢でした」
小学校の頃、最初に抱いた夢は医者だ。
「幼稚園のときに読んだブラックジャックに憧れて・・・・・・」
しかし、その夢は、母親から現実的なお金の話をされて断念する。
「次の夢はお笑い芸人でした。人間って、笑っているときは嫌なことを忘れられるじゃないですか。人を笑わせる仕事っていいなあ、と思ったんです」
自分なりにネタを考えて、吉本新喜劇の台本のようなものを作った。
「お笑い好きの友だちが読んでくれて、面白い、とほめてもらうとうれしかったですね」
ところが、これも母の反対にあう。
「芸人で食べていけるのは、ほんの一握り。吉本なんか、絶対に入れんわ、といわれ、確かにそうやな、と納得して諦めました」
07介護とカラオケの日々
おばあちゃんと二人きり
高校を卒業するとすぐに、働くことすらできない状況が待っていた。
「母親が再婚して滋賀県にいってしまったんです。残ったのは、ぼくとパーキンソン病を発症したおばあちゃんだけでした」
施設への入所が決まるまでは、自宅で介護をしなければならない。その役割が自分ひとりの肩にのしかかった。
「認知症も入ってきて、放っておけない状態でした。買い物にいって、食事を用意して、洗濯をして、主婦みたいな生活でした」
結局、施設が見つかるまでの4年間、おばあちゃんの介護を担うことになってしまった。
生活には余裕があった
しかし、その生活も悪いことばかりではなかった。
「母親は3人きょうだいなんですけど、一人5万円ずつ生活費を送ってくれたんです」
毎月15万円の送金に、おばあちゃんの年金を足すと、けっこう余裕があった。
「おばあちゃんが寝た後は、中学のときの友だちと夜遊びをして回るようになりました」
友だちが居酒屋のバイトを終える時間に落ち合い、カラオケではしゃいだ。
「8時間ぶっ続けでカラオケにいたこともありました。その後、ガストでご飯を食べて、またカラオケにいったり・・・・・・」
昼は介護、夜はカラオケ、という生活も割り切ってしまえば悪くなかった。
「おばあちゃんの入る施設が決まって、22歳のときに、ようやく働き始めました」
職場は障がい者支援施設。入所者は、重度の自閉症や知的障害がある人たちだった。
「資格はありませんでしたが、人手が足りないというので、すぐに採用されました」
08性同一性障害と診断され、ホルモン治療を開始
好きになる相手は男
FTMという言葉を知ったのは、小学生のときだった。
「金八先生を見て、そういう子もいるんやな、と思っていました」
高校を卒業して学校の制服が必要なくなると、男ものの服ばかりを着るようになった。
「男みたいに扱われることもありましたね」
男なの? 女なの? とふざけて聞かれることもあった。
「そんなときは、分からへん! と答えてました。実際に、どっちなんだか分からなくなっていました」
FTMなのか? 多分、そうやと思う。それでいいんちゃう?
そう自問自答することもあった。
「当時FTMといい切れなかったのは、好きになる相手が男だけだったことです」
16歳のときに、初めて男性と交際する。
「バイクや戦隊モノの話で盛り上がって、楽しかったです。こういう話ができるのは、やっぱり男だけですよね」
趣味の共通点が多く、つき合う相手は、やはり男だと確信した。
想定内のGID診断
22歳のとき、病院にいってカウンセリングを受けることにした。
「自分でお金を稼げるようになったら、そうしようと決めていました。そろそろはっきりさせようぜ、という気持ちでした」
カウンセリングを経て3カ月後、ドキドキしながら結果を聞きにいくと、「診断が出ました。性同一性障害です」といわれる。
「へー、そうなのか、と思いました。想定内でした」
先生から、「診断が下りたら、普通はホルモン注射を始めるんですけど、どうしますか?」と聞かれた。
「じゃあ、そうします、とその場で答えました」
こういう手順になってます、こういうルールになってます、といわれると、素直に従うことができる。
「母親やほかの人に相談するつもりは、まったくありませんでした」
実は、未だに母親にはホルモン治療を受けていることを話していない。
「あんた、声が低いな、といわれたことはありますが、気がついてないみたいですよ。ややこしいから、ずっと黙っとこうかと思ってます(笑)」
実際、髭を剃ると、以前とそれほど見た目は変わらない。
「つき合っている人がいつも男だから、それがカモフラージュになっているのかもしれませんね」
09セクシュアリティはFTMのゲイ
FTMでパートナーは男性
男として生きていくにあたり、通称名を使うことにした。
「大好きだったロットングラフティーというバンドのギター、KAZUOMIさんから一文字もらい、もともとの名前の一文字と組み合わせて真臣にしました」
ロットングラフティーは、京都出身のミクスチャー・ロックバンドだ。
「黒いスーツに赤いネクタイで演奏するスタイルが、めちゃカッコよかったんです。一時期は全国ツアーの半分くらい、追いかけてました」
男性との出会いも繰り返した。
「自分を同性と見てくれる人が条件です」
セクシュアリティはFTMのゲイを名乗った。
「FTMなのに女とつき合わないのはおかしい、という人もいますけど、他人のいうことは、全然、気になりません」
「カノジョいるの?」と聞かれ、面倒なときは、勝手に男と女を入れ替えて「いるよ」と答えている。
子どもを生むのが役割
2年半前につき合った人とは、真剣に将来を考えた。
「15歳年上のパンセクシュアルの人で、1年ほど東京で同棲していました。自分なりに覚悟を決めて上京したんですが・・・・・・」
いつも体調が悪く、仕事をする気力もわかなかった。
「友だちがいないのもキツかったですね。結局、大阪に帰りたくなって別れてしまいました」
今のパートナーとは1年ほどのつき合いになる。
「SNSで知り合いました。映画や展覧会に一緒に出かけたり、食事をしたりしてます」
彼も大阪に住んでいるが、一緒に暮らそうという話は、今のところ出ていない。
「彼は自分の子どもがほしいといっているんです。ホルモンやめたら生めるよって話しています」
妊娠、出産となれば、世間からはその期間、女性として見られることになるが、好きな人のためなら我慢できると思う。
「それが役割なんだと思います」
5人生んだFTM
出産についての考えは、知り合いのFTMの影響もある。
「その人は、54歳のオーストラリアの人なんですが、子どもがほしかったんで治療を一時、中断して、5人の子どもを生んだんです」
その後、再び治療を再開し、性別適合手術も終えて、今は男性として生きている。
「彼がいうには、妊娠したら母性が出てきたらしいです。人間の体って、うまい具合にできているんですね」
今は子どもをほしいとは思っていないが、妊娠すれば、母親としての愛情が芽生えることだろう。
「パートナーの子孫を残してあげたいという気持ちもありますね。彼には、ほしかったらいってね、って伝えてあります」
10熱中できる趣味がいっぱい
最初の職場に戻った
8回の転職を繰り返し、今は以前に勤めていた障がい者支援施設に出戻りしている。
「事情を分かってくれているから楽です。名札も通称名を使うことを認めてくれています」
「悩みは、もっとお金がほしいことくらいかな(笑)。そのほかは、だいたいうまくいってます」
小さい頃から好きだったダイレンジャーは、いまだに大ファンだ。
「4歳のときに買ってもらった本は、今でもよく開いています。悪役の名前も全部、いえますよ」
ダイレンジャーのテンマレンジャーを演じていた俳優さんが東京で特撮バーを開いている。
「東京へ来たときは、よく立ち寄るんです」
8耐を観戦したい
鈴鹿8時間耐久ロードレースのドキュメンタリーを観て以来、8耐の大ファンになった。
「チーム・シンスケの『風よ、鈴鹿へ』『風スローダウン』を観て、感動しました」
昔つき合った人は、8耐に出場経験のあるレーサーだった。
「レース中の臨場感のある話をしてもらうのが大好きでした」
今は、知り合いのバイクの後ろに乗って、ツーリングにいくのが楽しみだ。
「自分でも免許を取りたいですね。それで鈴鹿サーキットにレースを見にいくのが夢です。バイクが好きになったのは、仮面ライダーの影響かな(笑)」
もうひとつの趣味がゲームだ。
「全国から何十万人も参加しているゲームで、今、8000位なんです。目標は1位です(笑)」
ゲームのキャラクターの誕生日にはレアカードが発売される。
「推しの数字が8なんで、8万円課金することも。けっこうお金がかかる趣味なんです」
ゲームの友だちは九州や四国、千葉、東京に広がった。
「イベントTシャツを着て、ペンライトを持って、カラオケに集まります。盛り上がりますよ(笑)」
憧れの人の体型を目指す
現在、ダイエットに取り組んでいる。
「当時飲んでいた薬のせいで126キロまで体重が増えちゃったんです。それを食事制限で78キロまで落としました」
朝はコーンフレークと牛乳、青汁。夜は豆乳やスムージー。それに片道10キロのロードバイク通勤を実践すると、わずか半年でみるみる体重が減った。
「きっかけは、久しぶりにYouTubeで土門廣さんを見たことです」
土門廣さんは、「ブルースワット」や「仮面ライダーZO」に出演した俳優だ。
「カッコええなあ、と思って。憧れの人に近づきたいと思ってダイエットを決意しました」
インナーマッスルを鍛える腹筋も続けている。
「洋服が合わなくなって、4Lの服は全部捨てて、買い直しました」
コロナで数カ月会えなかった友人と待ち合わせをすると、すぐ隣にいるのに「どこにいんの?」と、電話がかかってきた。
「隣にいるで、といったら、びっくりして振り返ってました。体型が変わったんで、分からなかったんです。目標は一番、痩せていた頃の60キロ台です」
病気を乗り越えて仕事も順調。パートナーとの関係も良好だ。趣味をエンジョイして、体型も憧れの人に近づいている。
「悩みを意識したことはないですね。好きなことを大切にして生きています」
自分の生き方を見つければ、自然と考え方も前向きになる。
それが自分に合っている。