INTERVIEW
等身大の「私」を、まだ出会っていない人たちへ届けませんか?
サイト登場者(エルジービーター)募集

ろうだからとか、ゲイだからとかいう固定概念にとらわれない。自分は自分、そうやって生きていく。【前編】

「会社の面接みたいな気持ちです(笑)」と、待ち合わせのカフェに現れた前田健成さん。その言葉とは裏腹、緊張の面持ちはなく、インタビュー冒頭から表情豊かな手話でその場の全員を和ませてくれた。ろう者で、ゲイで、がんも経験した前田さんは、自身のことを「3つのマイノリティ」だと表現した。決して平坦ではない半生を経て、「今まで起きたすべてのことに意味があった」と言える前田さんがうらやましかった。

2018/10/06/Sat
Photo : Tomoki Suzuki Text : Shinichi Hoshino
前田 健成 / Takenari Maeda

1986年、大阪府生まれ。先天性感音性難聴を持って生まれる。幼少期に東京に転居し、小学校から高校までは都立のろう学校に通う。亜細亜大学国際関係学部に在学中、ゲイであることを自認。現在は自らのセクシュアリティをオープンにしている。23歳のときにがんが発覚。3度の手術に1年間の闘病生活、リハビリ期間を経て寛解。現在はフリーランスとして私立のろう学校で非常勤講師を務めるほか、「Deaf Cloud」というメディアを立ち上げ、ろうや手話、LGBTQなどに関する幅広い活動をおこなっている。

USERS LOVED LOVE IT! 5
INDEX
01 「ろう」に生まれて
02 口話の猛特訓をする日々
03 ろう学校への転校
04 社会の期待に応えられない
05 「ゲイかもしれない」という相談はできなかった
==================(後編)========================
06 初恋、闘病、ゲイだと告白
07 家族へのカミングアウト
08 自分の居場所はどこにある?
09 自然な会話のなかでLGBTを伝えたい
10 すべての点は線になる

01「ろう」に生まれて

聴覚障がいに対する偏見

生まれつき、耳が聴こえなかった。

最初に気づいたのは母だ。

「僕の後ろでおもちゃのラッパを吹いても、振り向かなかったみたいですね」

音に反応しないし、しゃべる様子もない。

「母が変だなって思って僕を病院に連れていき、聴こえていないことが分かったようです」

今から約30年前、ろう者に対して社会は偏見に満ちていた。

「当時は『耳が聴こえないってかわいそう』『一般社会では生きていけないよね』みたいな風潮があったんだと思います」

聴覚障がい者は、今では差別用語である “つんぼ” とも言われていた時代で、悪いイメージしかなかった。

「直接、聞いたことはありませんが、やっぱり親はショックだったんじゃないですかね」

周りに耳が聴こえない人は誰もいない。

今みたいに病院のサポートもなく、インターネットで調べることもできない。

「お母さんは、すごく大変だったんだろうなって思います」

一般の小学校に通った1年間

幼少期は、ろう学校の幼稚部に通った後、一般の幼稚園に入った。

そして、一般の小学校に入学する。

自分は耳が聴こえないんだということは、入学して間もない頃、何となく認識した。

「39人の聴こえる子たちがいて、聴こえないのは僕一人っていう環境でしたからね」

幼稚園の頃は、それほど言葉が発達してないので、周りの子たちと普通に遊んでいられた。

しかし、小学校に入ったら少し勝手が違う。

コミュニケーションがうまくいかないこともあった。

雰囲気で、一緒いる友だちの様子が何となくおかしいなと感じることもあった。

「たとえば、グループに分かれてカルタを作ったとき、僕のグループの子たちは授業が終わった後、カルタを全部僕にくれたんです」

「でも、他のグループは、みんなで取り合いになってたり、ジャンケンをしたりしてました」

「どうして僕だけ、もらえるんだろうって」

子どもながらに、特別扱いされている雰囲気を感じた。

毎日の “日記” にも違和感を覚えていた。

放課後、他の子たちが帰っていくなか、担任の先生と一対一で日記を書いていた。

日本語の練習をするためだ。

「そのときも、なんで僕だけ残って日記を書くんだろう、って思ってましたね」

だが、耳が聴こえないことでいじめられたり、仲間外れにされたりすることはなかった。

男ばかりの3人兄弟で、5つ上の兄と、3つ上の兄がいる。

「僕が1年生のとき、長男が6年生、次男が4年生で、兄弟全員が同じ学校に通っていたんです」

「だから、学校内でも “前田3兄弟” はちょっとした有名人というか(笑)」

「先生たちも理解があって、僕の要望にもすぐに対応してくれました」

特別扱いは感じていたが、学校生活で嫌な気持ちになることはなかった。

02 「口話」の猛特訓をする日々

家族とは口話でコミュニケーション

小さい頃、家族とのコミュニケーションは “口話” でおこなっていた。

口話というのは、意思伝達の手段として音声言語を用いる方法。

話し手の口の動きや顔の筋肉の動きから言葉を読み取り、自らも発話・発音してコミュニケーションを図る。

「ろうって言うと、今でこそ手話のイメージがありますが、昔は、手話に対して否定的な考えが強かったんです」

母も例外でなく、手話に対して否定的な考えを持っていた。

「とにかく口話が上手にならないといけないって言われて、家では毎日、口話の訓練をしてました」

電話の訓練がその一つ。

インターネットもメールもない時代、コミュニケーションの手段として欠かせないのが電話だった。

「たとえば、外で事故に遭ったとき、家に連絡する方法はまず電話じゃないですか」

「お母さんも、電話ができなきゃ始まらないっていう考えでした」

「あと、親は先立つから、兄弟とコミュニケーションがとれないといけない、って思っていたみたいです」

そのため、来る日も来る日も、兄を相手に電話の訓練をさせた。

「お兄ちゃんが外の公衆電話から家に電話をかけてくるんです」

「僕は補聴器をつけて電話をとって、お兄ちゃんと口話で意思疎通をする訓練です」

「僕は聴こえません(50音の区別はつきません)が、補聴器をしていれば “音” を拾うことはできます」

「毎日訓練していると、お兄ちゃんの声のクセみたいなのをつかめるようになって、理解できるようになるんです」

口話の猛特訓のおかげで、兄や両親とはコミュニケーションができるようになっていった。

すべての音は母に教わった

生まれたときから、音の概念がない。

雨にも音があり、風にも音があるということすら分からなかった。

歩くときには足音がするということ。

ドアを開け閉めすれば音が出るということ。

食べたり飲んだりするときにも、音が出るということ。

この世界にはたくさんの音があり、こうすれば音が出るということは、すべて母から教わった。

「お母さんは、僕がちゃんと社会で生きていけるようにって、ずっと考えてくれてたんだと思います」

母は、心を鬼にして厳しい訓練を課してきた。

「本当に、すごく厳しかったんです(笑)」

「僕もお母さんも、泣きながらっていう感じでしたね」

家での口話の訓練は中学3年まで続いた。

一方で、中学1年のときから手話の勉強を始めた。

「先輩が手話を使っていたので、それを見て学んでいきました」

だが、母からは「電車のなかでは手話を使ってはいけない」と言われていた。

「当時、手話をしている人は、周囲から『知恵遅れなんだ』って見られる時代だったんです」

「お母さんは、そういう社会の風潮をよく分かっていたんだと思います」

だから、母の言いつけを守って、電車に乗っているときは手話を使わなかった。

03ろう学校への転校

仲間がいっぱい!

小学校2年生になるとき、父の仕事の都合で引っ越しをする。

引っ越し先でも一般の小学校に入るつもりだったが、学校側から拒否された。

そのため、都立のろう学校に転校した。

「ろう学校に入ったときは、仲間がいっぱいだ! って思って嬉しかったですね」

みんな補聴器をつけていたし、口話の練習もみんな一緒。

コミュニケーションも問題なく、先生も分かりやすく話してくれた。

同級生は、男子3人、女子3人のたったの6人。

全校でも30人程度しかいなかった。

「転校とかで最大8人になりましたけど、基本的にはずっと同じメンバーです」

「とにかくみんな仲良しでした。田舎の島の学校みたいな感じです(笑)」

ゲイの片りん

小・中学校の頃は、恋愛経験はなく、恋愛というものが分からなかった。

当時は、女の子が好きだと思い込んでいたが、実際に女の子を好きになったことはない。

「男友だちと好きなアイドルの話になったときは、そうそう、僕も好き! って、みんなの意見に乗っかってました」

「今思えば、当時からゲイの片りんはあったのかなと思います」

「お兄ちゃんたちは、いつも週刊誌のグラビアを見てましたけど、僕は別にって感じでしたし(笑)」

体育のプールの授業でも、女子の水着姿より、男の先生の水着姿に興味があった。

「ドキドキっていう感じじゃないけど、何となく気になってたのを覚えてます」

「中3のとき、後輩の1年生に可愛い男の子がいて、冗談っぽく『キスしてよ』なんて言って、ほっぺにキスしてもらって喜んでました(笑)」

「恋愛っていう感じじゃなくて、ただ単に嬉しいからってふざけているような感じでした」

中学時代は、ジャニーズjr. にハマっていた。

特に好きだったのが「8時だJ」というテレビ番組だ。

「同級生の女の子と、昨日見た? って、いつも盛り上がってました」

「タッキーとか今井翼とか、カッコいいよねって話してましたね」

「僕が好きだったのは、山下智久くんでしたけど(笑)」

当時は、男の人が好きなんだという意識はない。

だから、山下くんが好きだということも変だとは思わなかった。

セクシュアリティに関して違和感を覚えたのは、高校生になってから。

高校で野球部に入り、部室で着替えをする同級生の裸を見たときだ。

「興奮っていうのとはちょっと違うんですけど、今まで感じたことのないような気持ちでした」

04社会の期待に応えられない

挫折を味わった高校時代

高校は、小・中学校までとは別の都立のろう学校へ進学する。

高校2年になる頃から、様々な悩みを抱えるようになった。

「原因はよく分からないんですけど、自分に自信を持てなくなったっていうのは、一つあったと思います」

小・中学校時代は、何をしてもいつも一番だった。
テストでも大体一番だったし、生徒会長も務めた。

「同級生が6人なので、一番って言ってもたかが知れてますけどね(笑)」

口話も上手く、先生からも「前田だったら聴者の学校でも大丈夫」と褒められた。

だが、高校に入ったら挫折が待っていた。

絵が上手い人、サッカーが上手い人、個性的で魅力のある人。

小・中学校にはいなかったような人とたくさん出会った。

「自分より口話がうまい人もいましたし、ある程度、耳が聴こえる人もいました」

人間関係が広がるなかで、自分がどんどん薄れていくような気がした。

「今までは本当に狭い世界で、井の中の蛙だったんだなって思いましたね」

一般の大学で聴者に囲まれる生活へ

大学は、亜細亜大学の国際関係学部に入学する。

聴者に囲まれる生活は、小学校1年以来だった。

「大学では、それまで使えていた口話が使えなくなって、コミュニケーションが難しくなりました」

筆談や身振り手振り、携帯電話など、使ったことのなかった手段でコミュニケーションを図るようになった。

聴者の文化に触れ、ろう者の文化との違いに戸惑ったこともある。

「周りの友だちは僕にすごく気を遣ってくれたんですけど、ろう者の文化って気を遣うっていうより、はっきり物を言うんです」

「だから、相手の気持ちがつかめないことは結構ありました」

「ろう学校では、聴者との交流方法って教えてくれませんからね」

仲間に恵まれた大学時代だったが、高校時代からの悩みはさらに深まった。
悩みの種も増えていった。

恋愛の悩みも、その一つ。

「大学生って、社会的には恋愛を謳歌するような時期じゃないですか。でも、僕は恋愛経験がありませんでした」

「それどころか、もしかしたらゲイかもしれないって思っているような時期でしたし・・・・・・」

ろうとしての悩みもある。

大学時代は、家族とのコミュニケーションも難しくなっていった。

「子どもの頃とは違って、話す内容が深くなってくるにつれて口話の限界っていうか、気持ちが通じにくくなったんです」

「家族にも手話を使ってほしかったんですけど、覚えてくれませんでしたね」

この先、手話一本でいくのか、口話も捨てずにいくのか。

「ろう者として生きるか、聴者として生きるかに悩んだりもしました」

将来に対しても、得体の知れない不安があった。

「大学生くらいって、社会的には夢を持つような年頃だって言われますよね」

「でも、僕には夢がありませんでした」

「今は正直、夢なんか持たなくていいって笑って言えますけど、当時は悩みましたね」

社会的な期待に応えなければいけない。
でも、それに応えられない自分がいる。

もどかしさは募っていく一方だった。

05「ゲイかもしれない」という相談はできなかった

手当たり次第に悩み相談

たくさんの悩みがごちゃ混ぜになり、整理できなくなっていった。

答えが欲しくて、誰彼かまわず相談した。

「アドレス帳を見て、手当たり次第にメールして、いろんな人に相談してました」

「『また、前田が相談してきたよ』って、うるさがられてましたね(笑)」

「僕は、末っ子だから甘え上手なんだと思います」

「普通だったら、うんざりされて断られるだろうけど、みんな相談に乗ってくれたんです」

これだ! という答えにはたどり着けなかった。

「でも、あのとき、いろんな人の意見を聞けて、いろんな世界に触れることができて、本当に良かったと思ってます」

セクシュアリティの悩みは隠し続けた

大学時代は常に、「もしかしたらゲイかもしれない」というモヤモヤした気持ちがあった。

一般的に男性が好むようなサイトを見ても共感できない。

「普通の男性の気持ちが、自分とはどうも合わないなって思ってました」

大学の授業では、ボランティアの人が左右に座り、授業の内容をノートにとってくれた。

「ノートテイクのボランティアは、100人くらいの人が登録してくれてました」

「両隣が男性のボランティアだった日は、嬉しかったのを覚えてます(笑)」

一方で、好きな女性のタイプを聞かれたら、周囲に合わせて適当な芸能人の名をあげていた。

「隠しごとをしてるような気持ちでしたね・・・・・・」

手当たり次第に悩み相談をしていたが、セクシャリティの悩みだけは誰にも打ち明けることができない。

大学時代は、ずっと隠し続けていた。

アメリカで受けたカミングアウト

大学1年のとき、必須科目としてアメリカに短期留学をした。

「レズビアンの先生がいて、それを普通にオープンにしていたから驚きましたね」

「自分もゲイかもしれないって悩んでいたんですけど、その先生に相談する勇気はありませんでしたね」

同じく短期留学中に、アメリカに住んでいる日本人の友だちを紹介してもらい、チャットで話をしたことがある。

「その彼から、『実はゲイなんだ』って打ち明けられたんです」

「そのときも、自分もゲイかもしれないとは言えませんでした」

当時はまだ、自分のなかでゲイだと確信できていないところがあった。

「男性との恋愛経験もなかったし、本当に好きだと思える男性にも出会ってませんでしたからね」

「でも、アメリカ留学でレズビアンやゲイの人と接したことは、自分にとって良いことでした」

「後に、自分のセクシュアリティに確信が持てるきっかけの一つになったと思います」

男性との初めての恋は、アメリカ留学から約5年、23歳まで待つことになる。

 

<<<後編 2018/10/13/Sat>>>
INDEX

06 初恋、闘病、ゲイだと告白
07 家族へのカミングアウト
08 自分の居場所はどこにある?
09 自然な会話のなかでLGBTを伝えたい
10 すべての点は線になる

関連記事

array(1) { [0]=> int(26) }