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生きづらさを抱える人に寄り添いたい【前編】

凛としたたたずまいとは裏腹に、親しみやすく緊張感を与えない。杉本真紀さんは、クールさと柔らかさ、その両方を矛盾することなく持っている人だ。けっして平坦とはいえないこれまでの道のりを淡々と語る様子から、過度に悲観的になることなく生きてこられた背景がうかがえる。そのときの流れに応じて舵を切る。苦悩しながらも誠実に歩み続けた杉本さんの半生に、耳を傾けていく。

2022/04/09/Sat
Photo : Tomoki Suzuki Text : Chikaze Eikoku
杉本 真紀 / Maki Sugimoto

1992年、アメリカ・ニュージャージー州生まれ。2歳で帰国し、その後は横浜で育つ。小学校から大学までほぼずっと「女子校」。次第にFTMを自覚するように。思春期における母の死や、就職後の苦難を乗り越え、「生まれて初めて結婚したいと思った相手」と2018年に結婚。現在は自身の人生から得た学びを活かし、生きづらさを抱えた人の支援に携わっている。

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INDEX
01 発達障害児への支援「放デイ」に携わる現在
02 男子の輪の中で遊び、テニスに打ち込む幼少期
03 「女子校」で過ごしたからこそ、“男女わけ” に苦しまなかった
04 思春期に直面した母の死をきっかけに、共学へ転校
05 進学先の女子大でFTMの人々と出会い、驚きと憧れが生まれる
==================(後編)========================
06 FTMとして生きること、就職先での苦悩
07 父と姉へのカミングアウト
08 結婚願望はないし、「SRSはしなくてもいいかな」
09 現在の妻と出会い、結婚に向けて動き出す
10 できないことを強制しないやり方で、生きづらさを抱えた人に寄り添う

01発達障害児への支援「放デイ」に携わる現在

放課後等デイサービスで、発達障害児の支援に携わる今

現在の仕事は、放課後等デイサービス。発達障害を持つ子どもの支援に携わっている。

「教員免許を持ってるんで、それで採用されたんです」

「最初はスポーツクラブで働いて、そのあと飲食に行って、教員になろうかなって迷ってるときに『放デイ』っていうのを知って、やりたいなって思って」

仕事自体はもう4年目。慣れてきて、部下もでき、現在は新しい教室の運営と管理をすべて担っている。

「教室の運営や取り組みから、全体的に任されてます」

現在は「カッコ良く言えば」事業所の所長。責任のある立場になった。

事業所の所長として、教室の質を高めることに注力

売上や集客のために、営業も自ら行う。

「でも営業は最初だけですね。教室の質を高めていけば、自然に口コミで広がっていきます」

「発達障害の子って、だいたい行く病院が地域でもう決まっていたり、一緒だったりするんで、横の繋がりが強いじゃないですか。だからそこの病院とかにパンフレットを置いてもらって、そこから知ってもらうんです」

発達障害を持つ子どもの保護者同士や、本人同士の間で、必ず「放デイ」の話題は上がる。

「みんなのあいだで、『どういうとこ行ってる?』って話が絶対出るんで。そこで良い口コミが広がれば、自然と集客に繋がるんです」

02男子の輪の中で遊び、テニスに打ち込む幼少期

アメリカで生まれ、二重国籍を所持

生まれはアメリカ合衆国・ニュージャージー州。

「親の仕事の都合で、生まれだけ向こうなんです。2歳でこっちに帰ってきて、幼稚園は日本なんで、無駄に国籍だけ持ってます(笑)」

二重国籍ではあるものの、あまりに幼すぎたため住んでいた当時の記憶はにない。

「大人になってからアメリカに行ってみたんですよ、昔住んでた場所とか。でも行ってみても、『うーん?』みたいな(笑)。覚えてませんでした」

一方で4歳年上の姉は、断片的ながら記憶はあるようだ。

「姉は横浜で生まれて、アメリカに行って。幼稚園がアメリカだったので、覚えてるみたいですね」

母の影響でテニスを開始。週4でレッスンに通う日々

「母親がテニスやってて、その影響で始めました。テニスコートにちっちゃいころから遊びで通ってたんです」

小学校から硬式テニスを始め、クラブチームにも所属。その後、部活にも入って、テニス漬けの日々を送る。

「小4から強化チームに入れるんですけど、週4で練習に行っていて。学校終わってテニス行って、夜9時にレッスン終わって、そこから帰るみたいな感じでした」

父や母が送り迎えをしてくれるときもあったが、自分で電車で帰ることもよくあった。

「おっきいテニスバッグ背負って、通ってましたね。帰りが11時くらいになることもありました」

テニスと並行で野球チームに所属。男子とばかり遊ぶ子だった

母はテニスをしていたが、父はずっと野球少年だったらしい。その影響で、テニスと並行して野球にも打ち込む。

「マンションに仲良い男の子の兄弟がいたんですけど、その子たちと同じ野球チームに入ってました。土日はみんなでおんなじユニフォーム着て、おんなじマンションから出て行く、みたいな」

「ホント、男子の中にずっと混ざってて、サッカーとかドッヂボールとか、体動かすのが好きだったんです。幼稚園受験だったんで、女の子の友だちは受験に向けた塾の子たちくらいでしたね」

野球の方がどちらかといえば好きだったが、そちらは週に一度だけ。

テニスのレッスンの割合が多く、土日も行かなければならなかったため、次第に野球チームの練習には顔を出せなくなっていった。

「小4くらいまでは野球、小4以降からはテニスがメインになりました」

父は娘が野球をすることが嬉しかったようで、一緒にキャッチボールをすることもあった。

03 「女子校」で過ごしたからこそ、“男女わけ” に苦しまなかった

女の子らしい服装が嫌いだった

母は自分に、「女の子らしさ」を求めるタイプだった。

「母はどちらかというと、スカートとか女の子らしい服を着せたがって」

「お出かけのときとか学校ないときとか、『これ着なさい』ってスカート渡された記憶はありますね」

父はあまり気にしないタイプだったので、特に言及してくることはなかった。

「スカートが嫌だったんで、せめてキュロットがいいって言って。ズボンだけどスカートに見えなくもないあれを、めっちゃ履いてましたね」

「嫌だ」の意思表示は、はっきりとできる子だった。

4歳年上の姉のお下がりをもらうこともあったが、姉もサバサバしたタイプ。

「姉もブリブリ系じゃなかったんで、お下がりといってもそこまで嫌じゃなかったんです」

嫌だと示せば、母もそこまで強要はしない。姉にも自分にも、それぞれが好きなものを与えてくれる人だった。

幼少期から10代まで「女子校」。スカートが嫌だったけど諦めていた

幼稚園のときに受験をして、小学校から姉の通う横浜雙葉学園に入学。姉の真似をしたくて、女子校を選んだ。

「でも親は、僕が幼稚園から男子と仲よかったんで、『女子校より共学の方がいいんじゃないか』って思ってたらしくて」

「でも雙葉がめっちゃ家から近いんで、歩いて行ける距離だったんで、姉と同じ学校が良いって言いました」

小学校からずっと同じ学校に通い、幼稚園のときの塾から一緒の子も、中にはいる。

25年くらいの付き合いになる貴重な友人も得られたが、一方で制服が嫌だった。

「幼稚園からスカートはすごい嫌で、やだなとか思いながら着てた記憶はあります」

「でも小学校からは制服だったんで、しかたないかなって諦める感じで。やっぱみんなも着てるし・・・」

「でも家に帰ったら絶対ズボンに履き替えるとかしてましたし、私服でスカートは持ってませんでした、ずっと」

男女わけの苦しさもない。ミスターコンテストで優勝した経験も

女子校だからこそ、反対に男女わけの息苦しさを味わうこともなかった。

体育も、着替えも、ぜんぶみんな一緒。「女性」を突きつけられる瞬間も特にない。

あいかわらずスカートは嫌だったけれど、抵抗はそこまで覚えなくなっていた。

「でも体操服の短パンは、スカートの下に履いてました。みんな女子校だったんで、スカート広げて、『暑い〜』とかいって、バタバタ〜って(笑)」

「先生に『やめなさい』とか言われても、『短パン履いてるし』とか言ってましたね(笑)」

中1のときに文化祭実行委員から声をかけられ、渋々ミスターコンテストに出た。

「僕、人前に出るのがすごい苦手だったんですよ、昔は。だから一回断ったんですけど、『出て』って言われて(苦笑)」

ミスコンには、少年野球のチームで一緒だった男の子の学ランを借りて出場した。

見事優勝し、それから中2、中3も出るようになる。

「文化祭だと学ラン着れるんだ! って思ったし、出場するとやっぱ『かっこいい!』って言われるじゃないですか。だからまあ、嬉しいっていう気持ちがありましたね」

学ランを着る嬉しさもあったし、女の子にキャーキャー騒がれる快感も覚えた。

しかし、このときはまだ、自分が自分が何者なのかを迷う日が来るとは思わなかった。

04思春期に直面した母の死をきっかけに、共学へ転校

中3で母が病死。転校を決める

中学の際に、母の乳がんが再発。そこから長い闘病生活の末、中3のときに亡くなった。

「小2ぐらいのときにたぶん、最初にがんが見つかって、一回手術して良くなったんですけど」

「4〜5年くらい治ってたのに中学に上がったころにまた再発しちゃって、そこからはもう、進行が早かったですね・・・・・・」

母はずっと自宅で療養していたために、弱っていく姿を近くで見ていた。

「『もうそろそろかなあ』っていうのが分かりやすかった、っていうのがありますね」

父は50代で、仕事もまだまだ現役。ずっと介護はできない。そのためヘルパーさんたちが常に家にいて、お弁当も作ってくれていた。

そんな生活がずっと続いていたから、心の準備の期間は設けられていたと思う。

「余命宣告が出てから、母は1年ぐらい頑張ってたんですよ。中2のたぶん冬くらいに、『今年は、年は越せない』って医者に言われた記憶があって」

「そのあと2、3ヶ月、次の年の11月に亡くなったんです。なんかでも、辛い生活をずっと見てたんで、亡くなったときは『苦しみから解放されたな』って、そっちの方が強かったですね・・・・・・」

母の死後は、学校でも腫物扱いのようになってしまった。

「みんな可哀想って目で見てくるじゃないですか、『大丈夫?』みたいな。それがでも、逆になんか辛く感じちゃって」

高校1年のときに、反抗期もあいまって、学校へ行くのをやめる。

転校したいと父に伝えると、進学校ということもあり、最初は反対された。しかし最終的には気持ちを尊重し、納得してくれた。

「学校行かなくなるんだったら、違う学校でもいいからってなって。父親はそこから、転校先とかも一緒に探してくれましたね」

共学へ転校。女子への淡い恋心と、違和感

通信制高校の全日クラスに転校を決める。

自分のことを誰も何も知らない世界に飛び込んだことで、楽になった。
最初は男子のいる生活に慣れなかったが、すぐに仲良くなった。

「喋り方もサバサバしてたんで、最初みんな僕を男子か? って思ったらしくて」

「ありがたいことに男子がすごい多くて、男子8、9割、女子1割だったんです」

クラス全体の仲が良く、男子の家にみんなで普通に遊びに行くことも多かった。だから特別に「男子」「女子」を意識することもなかった。

でも、淡い恋心に似た感情は、そのときから女子に対して芽生え始める。

「ギャルが好きだったんで、ギャルの子見ながら ”ギャル可愛いなあ”
みたいに思ってて(笑)」

「女の子を好きになるのが悪いとかダメってわけじゃないけど・・・・・・。そのときはまだFTMって言葉も知らなかったし、だから『なんなんだろう』『女の子と付き合えないかな』って、思ったりしてましたね」

男子と交際を経験、「なんか違うな」

母の闘病が始まったタイミングと、受験期に入るため試合もなくなるということもあり、中2の段階でテニスのクラブチームはやめた。

高校では一応テニス部に所属していたものの、大学のサークルのようにゆるい雰囲気。次第に遊ぶ日も増える。

「転校先では、女の子っぽくじゃないですけど、髪の毛をボブくらいに伸ばしたりしてました」

「女の子に人気があったんで、『ロン毛の男子みたい』『いいじゃん!』って言われて(笑)」

制服のスカートが元々短く、ギャルのような服装をしていた。それもあったのか、男子に告白をされたことがある。

「一回付き合ってみたんです。付き合ったことにしていいのかわからないくらいの、短い期間なんですけど(笑)」

しかし違和感を覚え、1ヶ月程度ですぐに破局した。

「手を繋がれて、なんか『やだなあ』って思って。だからすぐに別れたんです。一緒に遊びに行ったりするのはいいけど、手繋ぐのは違うなって思って」

05進学先の女子大でFTMの人々と出会い、驚きと憧れが生まれる

女子大へ進学、FTMの人々との出会い

進学先は最後まで決まらなかった。

「スポーツしかないって考えてた時期もあったし、全然決まんなくって。だけど運動好きだし、じゃあ体育大かな、みたいな感じで決めました」

「日体大を最初考えてたんですけど、大学1年のときに女子だけレオタード着て踊るっていうのが、授業の一環であったんですね。『まじで無理!』って思って(笑)」

それに女子大であれば、共学のように男女わけに直面することもない。

「共学だったら絶対、男女に分かれるじゃないですか、着替えの場所もそうだし、授業も、競技も」

「女子大だったらそれはないから、過ごしやすいかもって思って、それで日本女子体育大学を受けました」

そして大学で、「自分と似たような人」がいることを知る。

「めちゃくちゃボーイッシュな人がめっちゃいて。先輩とか、競技引退してる人で、ホルモン注射してる人も中にはいて、あからさまに声変わってる人もいたし、女性同士で付き合ってる人もいたんです」

「みんな全然隠してない。大学1年のときは『え?』ってなったんですけど、2年3年になったら慣れてきましたね」

女性同士で付き合っていても、誰も特に突っ込みもしない。

自分もそうなりたい。
ホルモン注射をやってみたい。
女の子と付き合ってみたい。

そんな気持ちが湧いてくるのは、自然なことだった。

女の子と恋人同士に。彼女から言われた「FTMでしょ?」

大学2年生のときに、初めての彼女ができる。
玉砕覚悟の告白だったが、思いがけず成功した。

「高校で付き合った男の子は、『可愛い』って言ってくれてたんですけど、やっぱ女子扱いされるのが・・・・・・。それは違うなって思ったんです」

「彼女にはそれを求められなかった。ボーイッシュな格好に対して何も言われないんで、付き合いやすさはありましたね」

同性同士の恋愛は、変なことじゃない。女子大だからこそ、その感覚を知ることができて安心した。

そして次に付き合った彼女に「FTMでしょ?」と言われたことで、大きく気持ちが動く。

「2番目の彼女は、高校のときに周りにFTMの友だちがいて、知識があった。自分に対しても男性として接してくれたんです」

そこから調べ始めるが、踏み出す勇気は持てずにいた。

 

<<<後編 2022/04/16/Sat>>>

INDEX
06 FTMとして生きること、就職先での苦悩
07 父と姉へのカミングアウト
08 結婚願望はないし、「SRSはしなくてもいいかな」
09 現在の妻と出会い、結婚に向けて動き出す
10 できないことを強制しないやり方で、生きづらさを抱えた人に寄り添う

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