02 男子の輪の中で遊び、テニスに打ち込む幼少期
03 「女子校」で過ごしたからこそ、“男女わけ” に苦しまなかった
04 思春期に直面した母の死をきっかけに、共学へ転校
05 進学先の女子大でFTMの人々と出会い、驚きと憧れが生まれる
==================(後編)========================
06 FTMとして生きること、就職先での苦悩
07 父と姉へのカミングアウト
08 結婚願望はないし、「SRSはしなくてもいいかな」
09 現在の妻と出会い、結婚に向けて動き出す
10 できないことを強制しないやり方で、生きづらさを抱えた人に寄り添う
01発達障害児への支援「放デイ」に携わる現在
放課後等デイサービスで、発達障害児の支援に携わる今
現在の仕事は、放課後等デイサービス。発達障害を持つ子どもの支援に携わっている。
「教員免許を持ってるんで、それで採用されたんです」
「最初はスポーツクラブで働いて、そのあと飲食に行って、教員になろうかなって迷ってるときに『放デイ』っていうのを知って、やりたいなって思って」
仕事自体はもう4年目。慣れてきて、部下もでき、現在は新しい教室の運営と管理をすべて担っている。
「教室の運営や取り組みから、全体的に任されてます」
現在は「カッコ良く言えば」事業所の所長。責任のある立場になった。
事業所の所長として、教室の質を高めることに注力
売上や集客のために、営業も自ら行う。
「でも営業は最初だけですね。教室の質を高めていけば、自然に口コミで広がっていきます」
「発達障害の子って、だいたい行く病院が地域でもう決まっていたり、一緒だったりするんで、横の繋がりが強いじゃないですか。だからそこの病院とかにパンフレットを置いてもらって、そこから知ってもらうんです」
発達障害を持つ子どもの保護者同士や、本人同士の間で、必ず「放デイ」の話題は上がる。
「みんなのあいだで、『どういうとこ行ってる?』って話が絶対出るんで。そこで良い口コミが広がれば、自然と集客に繋がるんです」
02男子の輪の中で遊び、テニスに打ち込む幼少期
アメリカで生まれ、二重国籍を所持
生まれはアメリカ合衆国・ニュージャージー州。
「親の仕事の都合で、生まれだけ向こうなんです。2歳でこっちに帰ってきて、幼稚園は日本なんで、無駄に国籍だけ持ってます(笑)」
二重国籍ではあるものの、あまりに幼すぎたため住んでいた当時の記憶はにない。
「大人になってからアメリカに行ってみたんですよ、昔住んでた場所とか。でも行ってみても、『うーん?』みたいな(笑)。覚えてませんでした」
一方で4歳年上の姉は、断片的ながら記憶はあるようだ。
「姉は横浜で生まれて、アメリカに行って。幼稚園がアメリカだったので、覚えてるみたいですね」
母の影響でテニスを開始。週4でレッスンに通う日々
「母親がテニスやってて、その影響で始めました。テニスコートにちっちゃいころから遊びで通ってたんです」
小学校から硬式テニスを始め、クラブチームにも所属。その後、部活にも入って、テニス漬けの日々を送る。
「小4から強化チームに入れるんですけど、週4で練習に行っていて。学校終わってテニス行って、夜9時にレッスン終わって、そこから帰るみたいな感じでした」
父や母が送り迎えをしてくれるときもあったが、自分で電車で帰ることもよくあった。
「おっきいテニスバッグ背負って、通ってましたね。帰りが11時くらいになることもありました」
テニスと並行で野球チームに所属。男子とばかり遊ぶ子だった
母はテニスをしていたが、父はずっと野球少年だったらしい。その影響で、テニスと並行して野球にも打ち込む。
「マンションに仲良い男の子の兄弟がいたんですけど、その子たちと同じ野球チームに入ってました。土日はみんなでおんなじユニフォーム着て、おんなじマンションから出て行く、みたいな」
「ホント、男子の中にずっと混ざってて、サッカーとかドッヂボールとか、体動かすのが好きだったんです。幼稚園受験だったんで、女の子の友だちは受験に向けた塾の子たちくらいでしたね」
野球の方がどちらかといえば好きだったが、そちらは週に一度だけ。
テニスのレッスンの割合が多く、土日も行かなければならなかったため、次第に野球チームの練習には顔を出せなくなっていった。
「小4くらいまでは野球、小4以降からはテニスがメインになりました」
父は娘が野球をすることが嬉しかったようで、一緒にキャッチボールをすることもあった。
03 「女子校」で過ごしたからこそ、“男女わけ” に苦しまなかった
女の子らしい服装が嫌いだった
母は自分に、「女の子らしさ」を求めるタイプだった。
「母はどちらかというと、スカートとか女の子らしい服を着せたがって」
「お出かけのときとか学校ないときとか、『これ着なさい』ってスカート渡された記憶はありますね」
父はあまり気にしないタイプだったので、特に言及してくることはなかった。
「スカートが嫌だったんで、せめてキュロットがいいって言って。ズボンだけどスカートに見えなくもないあれを、めっちゃ履いてましたね」
「嫌だ」の意思表示は、はっきりとできる子だった。
4歳年上の姉のお下がりをもらうこともあったが、姉もサバサバしたタイプ。
「姉もブリブリ系じゃなかったんで、お下がりといってもそこまで嫌じゃなかったんです」
嫌だと示せば、母もそこまで強要はしない。姉にも自分にも、それぞれが好きなものを与えてくれる人だった。
幼少期から10代まで「女子校」。スカートが嫌だったけど諦めていた
幼稚園のときに受験をして、小学校から姉の通う横浜雙葉学園に入学。姉の真似をしたくて、女子校を選んだ。
「でも親は、僕が幼稚園から男子と仲よかったんで、『女子校より共学の方がいいんじゃないか』って思ってたらしくて」
「でも雙葉がめっちゃ家から近いんで、歩いて行ける距離だったんで、姉と同じ学校が良いって言いました」
小学校からずっと同じ学校に通い、幼稚園のときの塾から一緒の子も、中にはいる。
25年くらいの付き合いになる貴重な友人も得られたが、一方で制服が嫌だった。
「幼稚園からスカートはすごい嫌で、やだなとか思いながら着てた記憶はあります」
「でも小学校からは制服だったんで、しかたないかなって諦める感じで。やっぱみんなも着てるし・・・」
「でも家に帰ったら絶対ズボンに履き替えるとかしてましたし、私服でスカートは持ってませんでした、ずっと」
男女わけの苦しさもない。ミスターコンテストで優勝した経験も
女子校だからこそ、反対に男女わけの息苦しさを味わうこともなかった。
体育も、着替えも、ぜんぶみんな一緒。「女性」を突きつけられる瞬間も特にない。
あいかわらずスカートは嫌だったけれど、抵抗はそこまで覚えなくなっていた。
「でも体操服の短パンは、スカートの下に履いてました。みんな女子校だったんで、スカート広げて、『暑い〜』とかいって、バタバタ〜って(笑)」
「先生に『やめなさい』とか言われても、『短パン履いてるし』とか言ってましたね(笑)」
中1のときに文化祭実行委員から声をかけられ、渋々ミスターコンテストに出た。
「僕、人前に出るのがすごい苦手だったんですよ、昔は。だから一回断ったんですけど、『出て』って言われて(苦笑)」
ミスコンには、少年野球のチームで一緒だった男の子の学ランを借りて出場した。
見事優勝し、それから中2、中3も出るようになる。
「文化祭だと学ラン着れるんだ! って思ったし、出場するとやっぱ『かっこいい!』って言われるじゃないですか。だからまあ、嬉しいっていう気持ちがありましたね」
学ランを着る嬉しさもあったし、女の子にキャーキャー騒がれる快感も覚えた。
しかし、このときはまだ、自分が自分が何者なのかを迷う日が来るとは思わなかった。
04思春期に直面した母の死をきっかけに、共学へ転校
中3で母が病死。転校を決める
中学の際に、母の乳がんが再発。そこから長い闘病生活の末、中3のときに亡くなった。
「小2ぐらいのときにたぶん、最初にがんが見つかって、一回手術して良くなったんですけど」
「4〜5年くらい治ってたのに中学に上がったころにまた再発しちゃって、そこからはもう、進行が早かったですね・・・・・・」
母はずっと自宅で療養していたために、弱っていく姿を近くで見ていた。
「『もうそろそろかなあ』っていうのが分かりやすかった、っていうのがありますね」
父は50代で、仕事もまだまだ現役。ずっと介護はできない。そのためヘルパーさんたちが常に家にいて、お弁当も作ってくれていた。
そんな生活がずっと続いていたから、心の準備の期間は設けられていたと思う。
「余命宣告が出てから、母は1年ぐらい頑張ってたんですよ。中2のたぶん冬くらいに、『今年は、年は越せない』って医者に言われた記憶があって」
「そのあと2、3ヶ月、次の年の11月に亡くなったんです。なんかでも、辛い生活をずっと見てたんで、亡くなったときは『苦しみから解放されたな』って、そっちの方が強かったですね・・・・・・」
母の死後は、学校でも腫物扱いのようになってしまった。
「みんな可哀想って目で見てくるじゃないですか、『大丈夫?』みたいな。それがでも、逆になんか辛く感じちゃって」
高校1年のときに、反抗期もあいまって、学校へ行くのをやめる。
転校したいと父に伝えると、進学校ということもあり、最初は反対された。しかし最終的には気持ちを尊重し、納得してくれた。
「学校行かなくなるんだったら、違う学校でもいいからってなって。父親はそこから、転校先とかも一緒に探してくれましたね」
共学へ転校。女子への淡い恋心と、違和感
通信制高校の全日クラスに転校を決める。
自分のことを誰も何も知らない世界に飛び込んだことで、楽になった。
最初は男子のいる生活に慣れなかったが、すぐに仲良くなった。
「喋り方もサバサバしてたんで、最初みんな僕を男子か? って思ったらしくて」
「ありがたいことに男子がすごい多くて、男子8、9割、女子1割だったんです」
クラス全体の仲が良く、男子の家にみんなで普通に遊びに行くことも多かった。だから特別に「男子」「女子」を意識することもなかった。
でも、淡い恋心に似た感情は、そのときから女子に対して芽生え始める。
「ギャルが好きだったんで、ギャルの子見ながら ”ギャル可愛いなあ”
みたいに思ってて(笑)」
「女の子を好きになるのが悪いとかダメってわけじゃないけど・・・・・・。そのときはまだFTMって言葉も知らなかったし、だから『なんなんだろう』『女の子と付き合えないかな』って、思ったりしてましたね」
男子と交際を経験、「なんか違うな」
母の闘病が始まったタイミングと、受験期に入るため試合もなくなるということもあり、中2の段階でテニスのクラブチームはやめた。
高校では一応テニス部に所属していたものの、大学のサークルのようにゆるい雰囲気。次第に遊ぶ日も増える。
「転校先では、女の子っぽくじゃないですけど、髪の毛をボブくらいに伸ばしたりしてました」
「女の子に人気があったんで、『ロン毛の男子みたい』『いいじゃん!』って言われて(笑)」
制服のスカートが元々短く、ギャルのような服装をしていた。それもあったのか、男子に告白をされたことがある。
「一回付き合ってみたんです。付き合ったことにしていいのかわからないくらいの、短い期間なんですけど(笑)」
しかし違和感を覚え、1ヶ月程度ですぐに破局した。
「手を繋がれて、なんか『やだなあ』って思って。だからすぐに別れたんです。一緒に遊びに行ったりするのはいいけど、手繋ぐのは違うなって思って」
05進学先の女子大でFTMの人々と出会い、驚きと憧れが生まれる
女子大へ進学、FTMの人々との出会い
進学先は最後まで決まらなかった。
「スポーツしかないって考えてた時期もあったし、全然決まんなくって。だけど運動好きだし、じゃあ体育大かな、みたいな感じで決めました」
「日体大を最初考えてたんですけど、大学1年のときに女子だけレオタード着て踊るっていうのが、授業の一環であったんですね。『まじで無理!』って思って(笑)」
それに女子大であれば、共学のように男女わけに直面することもない。
「共学だったら絶対、男女に分かれるじゃないですか、着替えの場所もそうだし、授業も、競技も」
「女子大だったらそれはないから、過ごしやすいかもって思って、それで日本女子体育大学を受けました」
そして大学で、「自分と似たような人」がいることを知る。
「めちゃくちゃボーイッシュな人がめっちゃいて。先輩とか、競技引退してる人で、ホルモン注射してる人も中にはいて、あからさまに声変わってる人もいたし、女性同士で付き合ってる人もいたんです」
「みんな全然隠してない。大学1年のときは『え?』ってなったんですけど、2年3年になったら慣れてきましたね」
女性同士で付き合っていても、誰も特に突っ込みもしない。
自分もそうなりたい。
ホルモン注射をやってみたい。
女の子と付き合ってみたい。
そんな気持ちが湧いてくるのは、自然なことだった。
女の子と恋人同士に。彼女から言われた「FTMでしょ?」
大学2年生のときに、初めての彼女ができる。
玉砕覚悟の告白だったが、思いがけず成功した。
「高校で付き合った男の子は、『可愛い』って言ってくれてたんですけど、やっぱ女子扱いされるのが・・・・・・。それは違うなって思ったんです」
「彼女にはそれを求められなかった。ボーイッシュな格好に対して何も言われないんで、付き合いやすさはありましたね」
同性同士の恋愛は、変なことじゃない。女子大だからこそ、その感覚を知ることができて安心した。
そして次に付き合った彼女に「FTMでしょ?」と言われたことで、大きく気持ちが動く。
「2番目の彼女は、高校のときに周りにFTMの友だちがいて、知識があった。自分に対しても男性として接してくれたんです」
そこから調べ始めるが、踏み出す勇気は持てずにいた。
<<<後編 2022/04/16/Sat>>>
INDEX
06 FTMとして生きること、就職先での苦悩
07 父と姉へのカミングアウト
08 結婚願望はないし、「SRSはしなくてもいいかな」
09 現在の妻と出会い、結婚に向けて動き出す
10 できないことを強制しないやり方で、生きづらさを抱えた人に寄り添う