02 女の子だから赤、男の子だから黒?
03 セーラー服を着たくない
04 自分は性同一性障害なのかも
05 マイクを通して自分の声を届ける
==================(後編)========================
06 戸籍変更までの長い道のり
07 声優養成所とアルバイトの日々
08 しいていえばトランスジェンダーFTX
09 “らしさ” よりも “好き”を
10 話したり書いたりして吐き出せばいい
01母と姉と “りょうちゃん” と
『ドラゴンボール』と『幽遊白書』が好き
母と、5歳上の姉の3人家族。
歳の離れた姉とは、ゲームをしたり、漫画を回し読みしたりして遊んだ。
「ふたりとも漫画の趣味が合ったので、『コロコロコミック』を買って一緒に読んだりしてました。あと、姉も私も当時より前に連載していた『少年ジャンプ』の作品が好きで、よく読んでました」
「たとえば『ドラゴンボール』とか『幽遊白書』とか」
「姉と喧嘩って感じのは・・・・・・なかったですね。歳も離れていたし。私がなにか悪さをしたり、わがままを言ったりして、姉に叱られるってのはありましたけど(笑)」
3人家族で、子どもの頃の思い出として浮かび上がるのは、4人でいろんなところへ出かけたこと。
「母の彼氏と4人で、花見したり、旅行したりしてたんですよ」
「私が5歳くらいから付き合ってて、5〜6年前に結婚しました。なんか、私が成人するのを待って結婚したらしいです」
母の恋人とはずっと仲良し
幼い頃から、ずっとそばにいた母の恋人。
大人になってからも、バイクの後ろに乗せてもらって買い物に連れて行ってもらうこともあった。
「ずっと “りょうちゃん” って呼んでます」
「すごい仲良しです。私が複雑な気持ちになったり、親たちが私と姉に変に気を遣ったりするようなこともなかったですね」
「親が幸せそうにしていて、子どもが不満を覚えることなんてないです」
放課後は友だちの家にゲームボーイを持ち寄ってポケットモンスターを。
現代版ベーゴマといわれるベイブレードで遊ぶこともあった。
「小遣いの100円玉を握りしめて、近所の駄菓子屋に行くのが楽しみでした。明日も来たいから、使い切らずに残しておいたりして、やりくりしてました。ケチなんで(笑)」
どちらかというと活発な子。
漫画とゲームが大好きだった。
02女の子だから赤、男の子だから黒?
スカートは七五三だけ
小学校は1学年1クラスと規模が小さく、学校全員が顔見知りだった。
しかし6年生のとき、別の学校と合併し、いままでとは違う校舎に通学することになり、新しいクラスメイトが増える。
「そうなってからは、できるだけ影を薄くしてました。いまもそうなんですけど、私って人見知りなんですよ(苦笑)」
「学校が合併してからは、なんか緊張しちゃって・・・・・・、自分のテリトリーじゃない、みたいな感じで。だいぶ縮こまってましたね」
「信頼していた先生とも離れてしまったし。新しい先生とも、うまくやっていけるのかなって不安もありました」
そんな6年生の修学旅行。黒いスカジャンを着た写真が残っている。
ファッションはどちらかというとボーイッシュ。
かわいいよりもかっこいいスタイル。
スカートは七五三の記念写真のときくらいしか着たことはなかった。
女の子はスカート、男の子はパンツ、という考えは「変」だと感じた。
男子と女子という枠組み
「おばあちゃんに赤いランドセルを買ってもらって、最初はうれしかったんですが、女の子は赤で男の子は黒って決まっていると知って、変なのーっ、なんでそんな決まりがあるんだろう・・・・・・って思ってました」
「いまの語彙で表現するなら『不可解』でした」
そうした不可解なことが、社会にはあふれていた。
「修学旅行や林間学校の部屋割りは男子と女子で分けられているし、トイレもそうですよね。男子と女子っていう枠組みが存在していました」
「それでも、小学校のときは、その枠組みをそこまで押し付けられなかったから、『変なのーっ』で受け流すことはできてたかな・・・・・・」
しかし中学生になると校則という決まりがある。
入学した中学では、女子はセーラー服を着るという校則があった。
「そうなってくると『変なのーっ』を超えて『嫌だな』になってしまう」
「小学校時代を知っている人から見ても、スカートをはいた私は、珍しい、おもしろい、って感じだったんだと思います。ニヤニヤされたりもして」
「その周りの反応が鬱陶しかったので、『触れるな!』のオーラを出してました。かなりピリピリしていたと思います、あの頃の私は・・・・・・」
03セーラー服を着たくない
初潮のことは親に言えなかった
中学に入ってから2年生までは、制服のスカートがイヤでたまらなく、毎日暗い気持ちだった。
「私に近寄るなってオーラを出してて、かなり暗い感じでした」
「そういう子っていじめられるじゃないですか。私も、からかわれたりしたんですが、あんまり反応しなかったせいで余計に相手がヒートアップして、ちょっと叩かれたりしたこともありました」
暗い気持ちにさせるのはセーラー服だけではなく、月経をはじめとする成長にともなう身体の変化もイヤだった。
「とにかく苦痛でしたね。初潮がきたときも受け入れたくなくて、親に言えなかった・・・・・・」
「家の中でナプキンがある場所はわかっていたので、母と姉のを拝借したりとか、トイレットペーパーを何重にも折り畳んだりとかしてやり過ごしました」
「身体に起こっている変化は現実だし、紛れもなく事実なんだけど、“なんで・・・・・・?” って感じで、できることならば生理なんて止まってほしいし、ずっとモヤモヤ、イライラしてたと思います」
友だちには、その気持ちを隠していた。
「悩みを相談しようとは思わなかった。友だちとは楽しい話がしたいし・・・・・・」
YOSAKOIの半纏を着ることを夢見て
中学では、本気で楽しいと思えることもあった。
YOSAKOIソーラン同好会と演劇部に所属し、部活には精を出す。
「その同好会の踊りを地元の祭りで見て、めちゃめちゃカッケェって思って(笑)。自分もやりたいと思って、入ったんです」
「文化祭で踊ったり、地域のお祭りみたいなので踊ったりして、楽しかったですね。制服じゃなくてジャージを着ていられるのもよかったし」
「あと、YOSAKOIの衣装って男女の区別がないんですよ。みんなで、かっこいい半纏を着て踊るんですよ。その半纏を着ること夢見て練習を頑張る・・・・・・って感じでした」
それでも通学時にはセーラー服を着るという苦痛は変わらない。
中学2年生になると学校を休む日が増え、週1〜2日だけ通っていた。
そんな日々に大きな変化が起こる。
性同一性障害という言葉を知ったことがきっかけだった。
「テレビ番組かなんかだったと思う。性同一性障害のことを知って、自分はこれなのかもって、親に言ったんですよ。中2の夏の終わりかな」
親に伝えることにためらいはなかった。
ずっと結論が出ないまま、抱え続けてきた暗い気持ちの原因がようやくわかるかもしれない。
早く行動を起こしたかった。
04自分は性同一性障害なのかも
子どもがおなか痛いって言ってるのに
「親には『今日、唐揚げ食べたい』って言うくらいの軽いノリで『自分は性同一性障害かもしれない』って言いました。ふつうな感じで」
「そしたら親も、『そしたら病院を探さないとね』とすぐ動いてくれて」
セクシュアルマイノリティがカミングアウトする相手として、もっとも抵抗があるといわれるのが自分の親。
実際に、カミングアウトした際に「勘違いじゃないのか」「そんなはずはない」と否定されるケースも少なくない。
「親に否定されたって話、私も聞いたことがあるんですが、どうして否定されてしまうのか不思議に思うんです」
「うちの親は、カミングアウトを腹痛とかに例えて話すんですけど、『自分の子どもがおなか痛いって言ってるのに、そんなはずないって言う親はいないでしょ』って」
お腹が痛い。
性同一性障害かもしれない。
言葉を受け取った側の感じ方はさまざまかもしれないが、発した側がその言葉で伝えたいことは、自分の身体に起きている事実なのだ。
「それを否定なんてしないですよね」
セーラー服から学ランに
性同一性障害と診断され、まず行ったのが、学校への相談だった。
名前を変え、学ランを着て通学できるように、と。
「私は13歳のクソガキだったんでね、ひとりではなにもできないですよ。親がずっと一緒に動いてくれて・・・・・・。学校の対応もよかったです」
「私というひとりの生徒が気持ちよく学校に通えるための方法を考えてくれたおかげで、中学3年生は楽しく過ごせました」
中学2年生の年明け、真新しい学ランで登校した。
中学生活が半分過ぎたこの時期に、新しい学ランを着ているのは珍しい。
「お前の制服、きれいでいいな、ピカピカだなって言われました。なかには、セーラー服より学ランのがしっくりくるなって言ってくれる子もいました。誰もセクシュアリティについて触れてこなかったですね」
それは、事前に担任の教師からクラス全体に向けて、名前が変わることや学ランを着るようになることについて説明があったおかげかもしれない。
「名前とか着る制服とかが変わっても、人が変わるわけじゃないからってことも言ってくれたので、みんな事情を知っていたから・・・・・・」
やっと暗い気持ちが晴れ、学校で友だちと笑い合えるようになった。
「そのときの自分を好きかってきかれると、『許せる』って答えます。嫌いって言いたくないし、好きとは言えなかった」
「だから許せるって表現になる。及第点というか・・・・・・」
「あのときは楽しかったけれど、自分を好きとは言い切れなかったんです」
名前は空雅(たかまさ)になった。
つらいとき幾度も励ましてくれた漫画『ドラゴンボール』の主人公から「空」を、その主人公をアニメで演じていた憧れの声優、野沢雅子さんから「雅」をもらった。
05マイクを通して自分の声を届ける
毎年弁論大会に出場
高校時代は活動的に過ごした3年間だった。
弁論大会出場は、そのなかでも大きな出来事のひとつ。
3年間、毎年出場した。
「クラスの代表に立候補した年もあったし、クラスメイトに推薦された年もありました」
「1年生は “個性を活かす” ってテーマで、性別だけじゃなく、身長が高いとか低いとか、利き手が右手とか左手とか、誰でも得意なことも不得意なこともあって、みんなマイノリティに属することがあるって話しました」
「2年生もまた “少数派” ってテーマにして、セクシュアルマイノリティのことや、同性愛について話しました」
「3年生は、楽しかった高校生活について(笑)。それまでは、評価されることを狙ってテーマを決めてましたけど、最後はもう思い出作りみたいな感覚で、自分の好きなことを書いて話しましたね」
しかし、人前で話すことは容易ではない。
「弁論大会出場のモチベーションは・・・・・・。しゃべることが好きなんですよ(笑)。自分の声がマイクに通るのが気持ちよくて」
人前で表現することの気持ちよさ
15歳から24歳までを追った、自身のドキュメンタリー映画『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき〜空と木の実の9年間』では、ナレーションも務めた。
「マイクを通すときは、話しかたも少し変えます」
「ナレーションは、やってみておもしろかったですね。難しかった部分もありますけど・・・・・・。性別適合手術の “しゅじゅつ” とか。原稿に手術がたくさん出てくるところは、オォッ(汗)ってなりました」
「収録のときは、監督から『もうちょっと柔らかく言ってみて』とか『マイクにもう少し近づいて』とかディレクションもあったんですが、終始リラックスした雰囲気で録ることができました」
人前に出ることは、YOSAKOIソーラン同好会で慣れていたのもある。
「小さい頃はすっごいシャイだったんですよ。保育園ではお芝居するのが苦手だったし、小学校低学年のときは学童の交流会で自己紹介するときに母親の後ろに隠れてたくらいですから」
「・・・・・・やっぱりYOSAKOIかなぁ。人前で表現することの気持ちよさを知って、自信をつけちゃった感じはあります(笑)」
その自信を胸に、弁論大会の市大会では1、2年生で優勝を果たした。
「優勝したときは応援してくれた友だちも喜んでくれて」
「でも私は優勝して当然だと思ってました(笑)。いい原稿が書けたと思ってたし、上手く話せたし。やり切った感、ありましたから、本当に!」
いまもドキュメンタリー映画関連のトークショーイベントに出演するときは、楽しんで話すことができている。
「聞いてくれている人たちも、楽しんでくれていたらいいなって思います」
<<<後編 2023/09/16/Sat>>>
INDEX
06 戸籍変更までの長い道のり
07 声優養成所とアルバイトの日々
08 しいていえばトランスジェンダーFTX
09 “らしさ” よりも “好き”を
10 話したり書いたりして吐き出せばいい