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周囲の目を気にして生きていた僕。親へのカミングアウトを経て、今あたらしいステージへ【後編】

周囲の目を気にして生きていた僕。親へのカミングアウトを経て、今あたらしいステージへ【前編】はこちら

2022/01/08/Sat
Photo : Taku Katayama Text : Hikari Katano
岡部 紘 / Hiro Okabe

1985年、東京都生まれ。中学では男子と付き合い、高校では先輩の女子高生を好きになる。大学留学時にLGBTQの知識に触れる機会を得るが、自分のセクシュアリティにはまだ自覚的ではなかった。フィットネスジムのトレーナーとして働いていた20代後半、FTMをはっきりと自認し、35歳になった2021年7月性別適合手術(SRS)を終えた。

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INDEX
01 ずっと大切にしてきた、人との関わり
02 3人姉妹の1人っ子
03 サッカー、バレーボールとの出会い
04 男子と付き合った中学時代
05 かっこいいと言われるのがうれしい
==================(後編)========================
06 大学進学とアメリカ留学
07 OLからフィットネストレーナーへ
08 将来像とセクシュアリティ
09 一番のハードルは、親へのカミングアウト
10 新天地から恩送りを

06大学進学とアメリカ留学

父へのあこがれから、英語を使う仕事を志すように

大学進学を考えたときに、英語を話す仕事に就きたいと思った。
そう思ったきっかけは、外資系企業に勤めて海外によく出向いていた父だった。

「何かを目指すって考えるときには『お父さんがやってたこと』っていう考えがいつもありました。なんでかは分からないんですけど」

大学を探して、興味のあるところを見つけた。当時まだ設置されたばかりの、小規模な大学だった。

「その大学のオープンキャンパスに4、5回行ったんです(笑)」

何度も通い詰めた理由も、やはり “人” だった。

「オープンキャンパスを担当してる大学生と先生がすごくいい人たちで、もっと仲良くなりたい、って思ったんです」

複数回オープンキャンパスに行った結果、大学の進路センターの人に覚えてもらった。

おかげで、自分の高校にはなかった推薦枠が新たに設けられ、希望する大学に無事進学できた。

レインボーフラッグを見て

大学2年のときに、念願だったアメリカへの留学を果たす。

9カ月間の滞在中、LGBTについて知識を深める機会もあった。

「滞在した街には、ゲイやレズビアンの人が普通に生活してたんです。同性カップルが手をつないでデートをしてました」

「でも驚くこともなかったですね。自然だな、普通だなって思ってました」

現地の人にレインボーフラッグのことも教えてもらった。

大学に進学してからは、ショートカットはやや長めにキープしていたものの、お化粧をして周りのキラキラした女子に合わせるように努力していた。

だが、留学を終えて帰国してからは、それもやめた。

「日本に戻ってきたときに、自分らしく過ごそう、周りに合わせなくていいやと思って。視野が広くなりました」

アメリカでの経験は、周囲の目を気にしないで自分らしくいていいということを教えてくれた。

付き合っていた男子が・・・・・・

留学から戻って来たあとに付き合い始めた男子からある日、告白を受ける。

「相手から急に、俺バイかもしれないんだって相談されたんです」

バイセクシュアルのことは知っていた。彼氏からの告白に、驚いたり引いたりすることもなかった。

「『バイなら、じゃあ私も恋愛対象だから大丈夫か』って思ってました」

だが、自分の今までの性自認のモヤモヤや性的指向のこと、かつて女性を好きになったことについて、相手に打ち明けることはなかった。

理由は、周りの目だ。

自分がLGBTであると認めて、周りに打ち明ける気にはならなかった。それがたとえ、付き合っているバイセクシュアルのパートナーだったとしても。

「自分のセクシュアリティのことを言っちゃうと、何かが変わっちゃいそうな気がして。隠すところは隠そうと」

「男側目線で女の子が好きって言うと、周りから引かれたり、後ろ指差されたりするんじゃないかと思って、怖かったんです」

07 OLからフィットネストレーナーへ

希望した仕事ができず、9カ月で退職

大学卒業後は、車用品を扱う会社に就職。英語を使う営業職を希望していた。

「採用人数が少ない会社だったんですけど、学生時代にガソリンスタンドでバイトしたこともあって、採用してもらえました」

配属されたのは、海外事業部だった。だが、仕事内容にギャップが生じる。

「本当は営業や接客業みたいな、人と関わる仕事をすぐやりたかったんですよね」

「でも、教えてもらったOJTの上司がガッツリ事務系で。『待てよ、この人のもとでOJTをずっとやってたら、営業できないな』って思って・・・・・・」

入社から9ヶ月経っても、事務的な業務が変わることはなかった。

当時、23、4歳。今できることをしたいと決断し、退職した。

OLからフィットネストレーナーに

車用品の会社を辞めてから、すぐに接客の仕事に就きたかった。

そのときに思い出したのが、アメリカ留学中に体験したフィットネストレーニングだ。

「留学してたときに、フィットネストレーニングを教えてもらってたんです。そのときに体がすごく変わったり、目線が上がったりして、気持ちも変わったのを思い出して」

「自分もそういう身体のポジティブな変化をお客さんにも体験してもらいたいと思って、フィットネスクラブでバイトを始めたんです」

最初は正社員になるつもりはなかった。だが、契約社員、正社員、店舗のリーダー、本社勤務と着実にステップアップしていった。

「最初に社員に誘われたときは、全然そんなつもりなかったんでバイトの身分のまま働いてたんです」

「でも、お世話になった先輩が結婚で退職することになったんです。そのとき、先輩が大切にしてきたお客様とスタッフ、そしてこの環境を自分が守らなきゃと思って。そこから社員になりました」

年齢や社歴が重なっていくにつれ、自分が育てたスタッフたちが成長する姿をもっと見たいという思いも芽生える。

やがて自分なりに目標を設定するようになり、昇進も果たした。

お客様や従業員とのコミュニケーション

フィットネストレーナーの仕事は、やりがいがあった。

「老若男女、いろんな人たちとお話できるのが楽しかったです」

「お客さんが触れられたくないことであろう身体のことも、配慮して工夫しながら聞かないと、その人が本当にやりたいことが聞き出せないんです。どういう風に言えばいいか考えたり、寄り添い方が学べる場所だったなと思います」

もちろん、すべての人間関係が順風満帆で、何も問題がなかったわけではない。

社員になったあと、社員とアルバイトの難しい対立も経験した。

「僕はバイトと社員の中間に入るパターンが多かったですけど、それでも社員というだけで、アルバイトから敵対視されることもありました」

「きっと相手はこう思っているんだろうなって分かりつつも、気持ちを一度ゼロにして聞くように意識してました」

コミュニケーションでは、相手のことを決めつけない、否定しないように心がけていた。それは、今でも変わらない。

08将来像とセクシュアリティ

妻ではなく、旦那になりたい

20代後半、職場に気になる女性がいた。

「そのときは相手に彼氏がいて、お互いに好きになっちゃいけないと思っていたので、関係は発展しませんでした」

「でも、在庫室に2人で入ってたとき、お客さんから『あの2人、付き合ってるんだろう』って噂されることもありました(笑)。あくまで業務で在庫室にいただけなんですけどね」

そろそろ、結婚や出産といった将来を現実的に考える年齢に差し掛かっていた。

「結婚をしない人生でもいいけど、でもやっぱりパートナーは欲しいなって考えたときに、自分が『妻』になるのは違うなって思ったんです。『旦那』でいたいなって」

パートナーや子どもの有無だけではなく、自分自身の生き方について長期的に考えた。

「40代入る前には生活も安定させたいし、だからそれまでにどうやって生きていこうかなと思って。そこから本格的にトランスジェンダーについて調べ始めました」

「『自分のイメージが叶えられてる世界で死にたいな。だったら、どうしたらいいんだろう』って、そこで初めてセクシュアリティに関して行動しようと思いました」

周りの目を気にしない経験

将来を真剣に考えて、トランスジェンダーについて調べ始めた。支援団体にも問い合わせたりと、具体的な行動に移し始めた。

将来像をイメージできるような体験も、治療前に得られた。

「転勤で京都に住んでた時期があって。東京を離れて初めて地方に住んだんです」

「人の目を何も気にせず自分らしくいられたのが、めちゃめちゃ楽だったんです」

職場以外には知り合いのまったくいない環境で過ごしたのは、初めてのことだった。

「休みの日にナベシャツ着て、着たい服を着て、何も気にせず歩いて過ごして。そのとき、将来もこうやって過ごしたいなって思ったんです」

男性として生きて、悔いなく生涯を終えたいと改めて思った時期だった。

09 一番のハードルは、親へのカミングアウト

治療を始めるのは、親にカミングアウトしてから

男性として生きていくための治療や手続きも調べた。
ホルモン治療やSRS(性別適合手術)そのものには、不安を感じていなかった。

「手術のことに関しては、将来自分らしく生きるための目標ができたなって捉えてました」

「胸を取る手術はこういう風にするのか、こういう術式があるのかと色々知れて。ハードルは金銭面くらいでしたね」

ただ、ホルモン治療を開始する前に、親にカミングアウトをしようと決めていた。

タイミングは、当時計画していたタイでのSRSの時期から逆算して考えた。

「当時はタイで手術を受ける予定だったんですが、半年以上ホルモン治療を受けておくという条件がありました」

「ここで親に言わないと、ホルモン治療開始に間に合わないっていうことになって、まずはお母さんにカミングアウトすることにしました」

意を決して実家に帰り、まずは母親に告白することにした。

すぐには受け入れられなかった母親

まずは母親から。2人で車に乗ったときだった。

「僕から、『実はさ~』って話を切り出して。もちろん、お母さんは運転しながら聞いてたので、今思うと申し訳なかったなって(笑)」

「自分は軽い雰囲気で切り出したつもりなんですけど、お母さんの気持ちはぜんぜん軽くなかったと思います」

「お母さんからは『男の子っぽい女の子じゃダメなの?』って言われました」

しかし、母親にそう問われたことで、むしろ自分の思いに確信を持てた。

「いや、『男の子っぽい女の子』じゃ、やっぱり違うんだって思いました」

帰省の帰り際、「お父さんにはまだ言えないんだけど」と前置きして、母親に手紙を渡した。

「子どもの頃からの自分史みたいなものと、将来的にどうなりたいのかを書いたものをお母さんに渡しました。渡し逃げみたいな感じにはなったんですけど(苦笑)」

その後、母親からLINEでメッセージが届いた。

「あなたが言ってることは分かったよって。ただ、『やっぱりお母さんはちょっとまだ理解できません、受け入れられません』っていうメッセージをもらいました」

母親の戸惑う気持ちも分かる。自分の母親のことだから、すぐに受け入れてはくれないだろうことも予期していた。

「理解できないのも分かるし、受け入れられないのも分かるよ。聞いてくれてありがとうと返しました」

もちろん、母親が理解してくれなかったことを気に留めなかったわけではない。なんで受け入れてくれないんだと思わなかったわけではない。

母親からのメッセージを泣きながら読んだ。

「でも、お母さんのもとに産まれてこれて本当にうれしいし、お母さんが産んでくれたから、今みたいにいろんな人と出会えてるんだって」

反論や悲しい気持ちではなく、一番に感謝を伝えたいと思った。

あたたかく受け止めてくれた父親

父親へのカミングアウトは、次の帰省のときと決めていた。

すでに伝えていた姉たちにお願いして、帰省前に父親へ少しだけ話しておいてもらう準備も進めた。

いよいよお盆の帰省のときに、両親、長女、自分の4人で家族会議を開くことになった。

「ご飯を食べ終わったあとに、お父さんが『・・・・・・ということで、話したいことがあるんだろう』と話を切り出してくれて」

泣きながら話した自分のことを、少し堅くなりながらも、父親は笑顔で受け止めてくれた。

「まあ、小さい頃から男の子っぽかったよなって言ってくれました」

両親にカミングアウトをしたことで、自分の内面の変化に気付いた。

「それまでは、仕事上の理由でホルモン治療を始めないんだって思い込んで、自分に言い聞かせてたんですけど、親にカミングアウトしたら、本当は親に言えてない後ろめたさで治療を始められなかったんだと気付けました」

「その頃は実家から離れて自立もしてましたし、治療するって自分で決めたらやればいい話だとは思うんですけど。でも僕は、親に話してから治療を始めて良かったなって思います」

今は、父親の方が自分をより受け入れてくれていると感じている。

10新天地から恩送りを

ホルモン治療や行動に遅すぎるなんてことはない

32歳になる2018年に性別違和(性同一性障害)の診断がおり、親へのカミングアウト後にホルモン治療を開始する。

2021年の9月までに改名やSRSを終えて、戸籍の性別変更の許可がおりた。

はたから見れば、30代からの治療を遅いと言う人がいるかもしれない。
たまに自分でも、前置きのように「治療を始めるのが遅かった」と話しだすこともある。だが、本当はそう思ってはいない。

「今だって決断したときに動いて、今じゃないってときは目の前のことを一生懸命やってきました」

だから、女性として生きてきた期間にも後悔はない。

自分らしくいられて、自然と明るく

性別違和の治療を始めてから、内面がより明るくなったと感じている。

「もともと明るい方だとは思うんですけど、それでもやっぱり親へのカミングアウト前は精神的に不安定なときがありました。家に帰ると、よく分かんないけど泣いちゃうことがあったり」

「親に話してからは、そういうことはなくなったんですよね」

仲が悪いことは決してないが、「仲良し家族」とも違う。しょっちゅう帰省できているわけでもない。

それでも、両親へのカミングアウトを経て、自分の中での家族の大きさを改めて感じられた。

「あなたに出会えてよかった」と言われるような人に

誰でも、生きている以上、人と関わることは避けられない。それならば、人と出会うこと、関わり合うことに臆病にならない世の中になってほしい。

自分の考えは、綺麗事と思われるかもしれない。それでも、しあわせな人が増えるような社会になればいい。

「何も接客業だけじゃなくて、街中ですれ違うとか、電車の中でちょっと一緒の時間を過ごすとか、そんな日常でもやさしい気持ちを持ち合って、お互いに余裕を持って過ごせたらなって」

以前の自分ならば、こうしてLGBTERのインタビューを受けて自分のことを赤裸々に話すことなど考えられなかった。だが、周りの人々のおかげで、一歩を踏み出す決心ができた。

「これからも『あなたと出会えたから、今とても幸せです』って言ってもらえるような、ハッピーな人たちをいっぱい作りたいなって思ってます」

あとがき
まぶしい日差しをヒロさんが連れてきた。インタビューでは、どんな場面でも自分とよくよく相談しながら歩いてきたのだと知る。他者のタイミングや歩幅も大切にできる理由かもしれない。大きな安心感■「しあわせな人が増えるような社会になればいい」。ヒロさんはやわからく言った。本当にそうだ。ご機嫌な人が増えたらいい■年の初めに思う。2022年は、自分が元気になれることを見極めたい。そうしたくなったら始めて、したくなかったらやめるが基準だ。(編集部)

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