02 やんちゃでモテた中学生
03 高校3年で芝居の魅力を知る
04 難関大学に合格! 目標の学生劇団に入団
05 演劇を中心に回った、充実した学園生活
==================(後編)========================
06 まだマイナーだった人材ビジネスを目指す
07 LGBTと向き合って知った、自分の問題点
08 3年連続で娘とレインボーパレードに参加
09 公開! 研修でウケる話
10 簡単に解決できることがある
01 LGBTが働きやすい環境をサポート
企業も対応の必要性を感じ始めている
株式会社アウト・ジャパンでは、LGBTに関する企業向けの研修・セミナーを行っている。社名の「アウト」は、カミングアウトの意味だ。
「ぼくが参加したのは3年前ですが、その頃はホームページの問い合わせなどほとんどなかったのに、今は倍々ゲームで増えています。多いときは、週に3件くらい問い合わせがありますね」
「業種はさまざまですけど、そろそろウチの会社も何かしなくちゃいけないのでは? と、みんな感じ始めているんでしょうね。その動きを感じます」
なかには、社員からカミングアウトされて、「大変なことになった!」と慌てて駆け込んでくるケースもある。
「緊急性が特に高いのは、MTFさんの場合ですね。女として生きたい、更衣室を変えて欲しい、女子トイレを使いたい・・・・・・」
「LGBTの内情を知らない人事は、どうしたらいいか、パニックになっちゃうみたいです」
「すぐ来てください! とSOS発信をする人もいます(笑)」
その点、FTMの場合は違和感が小さい。
「ちょっと小柄な男性が男子トイレの個室に入っても、それほど問題にする人はいないんでしょうね」
必要なのは、92%の人たちの意識改革
相談を受けると、担当者に会いにいく。
「だいたい、ダイバーシティ推進室のような部署が担当するんですが、残念ながら、現状としては、まったく要領を得ないこともありますね」
ダイバーシティ推進室といっても、女性の活躍やシルバー人材の活用が主な仕事であることが多い。
LGBTに関する基礎知識がまったくない担当者もいる。
「相談者さんは、トランスジェンダーさんですよね? と聞いても、それ、何ですか? と、聞き返されることもあります(苦笑)」
手術は済んでます? 戸籍は変えました? と聞いても混乱するばかり。
「基本的には担当者との打ち合わせになりますが、当事者を交えての面談を持つこともああります」
「現場の部署から聞いた話を、弊社にただ伝えるだけで、伝言ゲームになってしまうこともあるんです。それでは、正しい状況が把握できません」
カミングアウトは勇気が必要だし、そこまでして会社に残りたいんだから、何とかしてあげるべきだ、ということは分かってもらえる。
「でも、どうしたらいいか分からない。助けてください、という感じです」
LGBT研修、今は、人事、経営陣、総務を対象にするのが一般的。大きな企業の場合は、数回に分けて行うこともある。
「営業に行くと、ウチにはLGBTは一人もいません、とはっきりという人もいます」
「世の中の8%はLGBTですよ、と説明しても、まさか、と信じてくれないこともありますね」
いろいろな現場に直面するたびに、問題なのは8%のほうではなく、92%の人たちの意識である、という思いを強くする。
02やんちゃでモテた中学生
キャプテン翼が大好きなサッカー少年
生まれも育ちも京都。
両親と妹一人の4人家族で育った。小学校でサッカーに出会い、夢中になる。
「『キャプテン翼』の全盛期でしたね。寝るときに布団の中にサッカーボールを入れようとして、母親に叱られたこともあります(笑)」
小学4年生のときにサッカー少年団に入ると、うまくなりたい一心で練習に打ち込んだ。
「まだ、Jリーグがない頃でした。ヒーローといえば、マラドーナ、プラティニ。日本の選手でいえば、木村和司だったかな」
ただ、将来、サッカー選手になりたいという夢は描かなかった。
「笑い話ですけど、親に将来の夢はサラリーマン、といっていたらしいです(笑)」
クラスでは、よく喋るムードメーカーだった。
「通知表には、『男の喋りは、みっともない』と書かれました(笑)。男は寡黙なほうがいい、という時代だったんですかね」
父親は九州出身。自動車整備工場で働くメカニックだった。
「母親に何から何までまかせっきりの人で、電子レンジも使えませんでした(苦笑)」
一方の母親は口うるさく子供をしつけるタイプ。
「でも、サッカーもやらせてくれたし、勉強のことも気にかけてくれました」
父親は給料日にパチンコに行っては、いつも負けて帰ってきた。
「それが夫婦喧嘩の原因になるんで、給料日は嫌いでしたね」
妹は2歳年下だ。
「あいつにいわせると、意地悪なお兄ちゃんだったみたいですよ(笑)」
兄の悪さをいつも押しつけられた。その恨みは大人になっても忘れられないという。
やんちゃしまくった中学時代
中学生の頃は、ビーバップ世代真っ只中。奇抜な格好をして目立ちたいと思っていた。
「洋ランを着て、足が4本入るような太いドカンを履いて。まあ、やんちゃしまくりました」
流行っていたのは、「ビーバップ・ハイスクール」「シャコタン・ブギ」「湘南爆走族」など。登場人物を真似て、思い切りツッパった。
「何だったんでしょうね。大人ぶりたい、反発したい。そんな気持ちだったのかなぁ」
親が学校に呼び出されることもしばしばだった。
「あの頃は電話がなるたびにビクッとしたと、母親はいってました(笑)」
「サッカー部には一応、入ったんですが、小学生の時のようには一生懸命になりませんでした。ほかに面白いことがありすぎて・・・・・・(笑)」
中学のサッカー部の顧問は、持ち回りで担当するだけで、サッカーを熱心に教えてくれる人ではなかった。
「部活の友だちも、みんな茶髪で、チャラチャラしたタイプでした」
それでも3年生のときに市内大会で目標の成績をあげることができた。
なりはツッパリ、テストは上位
「勉強はしなかった。まったくしなかったですね」
ところが、テストの結果はクラスでも上位だった。
「授業に出ないから、テスト前に真面目なやつにノートを借りるんですよ。それを丸暗記すると100点が取れるわけです」
しかし、なぜか、ノートを貸してくれた友だちは60点だったりする。
「お前のノートに全部、答えは書いてあったじゃないか。何で、できへんのや。オレの妹でも満点を取れるぞ」
そんな、いじりの発言を思い出すと心が痛い。
結果的に、見てくれはひどいツッパリだが、勉強はとてもよくできる、という一風変わった中学生になった。
「とにかく、目立ってましたね。それで、まあ、よくモテました!」
中学の3年間は、とにかく楽しい日々だった。
03高校3年で芝居の魅力を知る
高校に入って生活態度を一変
とにかく目立っていた中学生。
自分を気に入ってくれる先生と、目くじらを立てる先生にはっきりと分かれた。
「京都大学出身の数学の先生がよく話しかけてくれて、進路の相談にも乗ってくれました」
中3の秋になると、地元の公立高校を目指して受験勉強にも取り組んだ。
「母親が家庭教師までつけてくれたんですよ。そのおかげで第一希望の高校に合格しました」
意気揚々と高校へ登校してみると、茶髪も赤いシャツも自分一人だった。自転車置き場には、派手に改造したチャリがポツンと一台だけ。
「上級生が、『お前が屋成か』と見に来ることもありました」
周囲から完全に浮いているようで、すぐに居心地が悪くなる。
「中学のときも自然じゃないというか、無理をしていたんでしょうね。まともな学生たちに囲まれたら、急に恥ずかしくなりましたよ」
この学校でやっていくなら・・・・・・と、気持ちを入れ替えて、生活態度をガラリと変える。
熱心にならないシラケ世代
部活は、友だちに誘われて剣道部に。
「サッカー部も考えたんですが、違う世界もいいかなぁ、と」
しかし、あまり真剣に練習に取り組むことはなかった。
「シラケ世代、と呼ばれる時代でした。何に対しても熱心にならないというか、どこか覚めていましたね」
そんななかで出会ったのが、演劇だった。
「3年生のときに、クラスの出し物で主役を演じたんです。それがきっかけでしたね」
鴻上尚史が率いる、早稲田大学出身の劇団『第三舞台』に憧れた。
「高校にも演劇部はありましたけど、全員女の子で、目指していた芝居もまったく違いました」
振り返ってみれば、小学生の頃は「喋りすぎる」と言われた。目立つことが好きで、人前で話すのも得意だった。
「オレは役者に向いているかもしれない、と思ったわけです」
演劇への興味は、大学へと持ち越されていく。
04難関大学に合格! 目標の学生劇団に入団
公衆電話で聞いた合格の報
大学で学生劇団に入りたい、という目標は次第に明確になっていった。
「でも、調べてみると、そこそこの大学でないと劇団はないんですよ」
関西の難関私立大学といえば、関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学、いわゆる関関同立の4校がよく知られる。
しかし、現役で合格したのは、ワンランク下の大阪学院大学だった。
「校舎がきれいなのがウリの学校でした(笑)」
不合格ではあったものの、もう一年しっかりと勉強をすれば、関関同立のどこかに合格できるという手応えがあった。
「宅浪という条件で、親に浪人を認めてもらいました」
ラジオ講座などを利用して、一年間、黙々と受験勉強に打ち込んだ。
そして、合格発表の日・・・・・・。
「当時はネットもない時代ですよ。公衆電話で受験番号を入れると、合否を教えてくれるサービスを利用しました」
結果は、見事、関西大学に合格!
「うれしかったですね。公衆電話のなかで、よっしゃあ! と、でっかいガッツポーズですよ(笑)」
その公衆電話から、親戚の叔母さんに合格の報告をした。
「何を言っているのか分からなかったが、とにかく喜んでいるのが伝わった、と後で言われました。よっぽど、興奮していたんでしょうね」
演劇を熱く語る日々
「大学は大阪でしたが、実家から通うことができたので、4年間、京都から通学しました」
専攻は法学部だった。「7人の女弁護士」というテレビドラマが評判になっていた頃だった。
「理屈っぽいところがあるから、法律は向いていたんでしょうね」
特に刑法の授業には興味を持った。
例外が起こらないように法律が整備され、逆に法律の網にかからなければ有罪にはならない。そんな理路整然とした世界に惹かれた。
サークルは、もちろん演劇部だ。
「入学した初日に入部しました」
関西大学演劇研究部は「学園座」といった。自由な気風で、個性的な人が集まっていた。
「部員も多かったですよ。ぼくらの学年だけで15人くらい。全体で40人以上いましたね」
「ほかのサークルの部室は10時に鍵が閉まるサークル棟にあったんですが、演劇部だけホールの隣の一室を使っていました」
つまり、24時間使い放題。いつも誰かしら部員がいる、居心地のいい溜まり場だった。
「そこに住んでいるみたいな、主(ぬし)のような8回生の先輩もいました(笑)」
演劇といっても、いろいろなスタイルがある。
「アングラをやりたい人もいれば、当時、人気があった『キャラメルボックス』のような面白い芝居が好きな人もいました」
お互いの演劇論を戦わせたり、どうでもいい演出の細部を熱く議論したり・・・・・・。
学生劇団ならではの活動に夢中になった。
05演劇を中心に回った、充実した学園生活
学園座の民主的なシステム
学園座は春夏秋冬に公演をしたが、演目を決めるシステムが独特だった。
「こんな芝居を打ちたい、という案を複数の演出家が提案するんです。それに対して、一緒にやりたいと賛同する部員が集まると、その芝居が成立するわけです」
逆に、十分な賛同を得られなければ、芝居は成立しない。極めて民主的なシステムといえる。
「どうしても通したい先輩が、後輩にメシをおごりながら、『一緒にやろうぜ』と口説いたりしていました(笑)」
また、その演出に向いていると判断されれば、1回生でも主役を張ることができた。その意味でも民主的だった。
「オリジナルの台本を書く人もいれば、すでにある台本を脚色して使う人もいました」
同じ台本でも、演出家や役者によって、出来上がるものは大きく異なる。それが芝居の醍醐味でもある。
演劇活動で知った喜び
4年間で、役者として4、5回、舞台に立った。
「でも、とうとう主役にはなれませんでした。才能が足りなかったのかな?」
しかし、主役だけでは話は進行しない。見事な脇役がいることで光るシーンもある。そこには脇役のプライドがある。
「その頃から老けて見えたので、お父さん役なんかが多かったですね(笑)」
大道具、小道具、照明、音響。多くの人が関わらなければ、ひとつの舞台は成り立たない。
「舞台に立たない部員も、公演の際は、全員が裏方として手伝いました」
みんなで力を合わせて何かを作り上げる。かけがいのない喜びを感じる場だ。
「神戸大学でしたけど、佐々木蔵之介さんが同年代でした」
ほかの劇団との交流も大いに刺激になった。
<<<後編 2020/01/25/Sat>>>
INDEX
06 まだマイナーだった人材ビジネスを目指す
07 LGBTと向き合って知った、自分の問題点
08 3年連続で娘とレインボーパレードに参加
09 公開! 研修でウケる話
10 簡単に解決できることがある