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見過ごしていた世界にピントが合った! あるトランスジェンダーとの出会い【前編】

「自分が焦点を合わせていないものは、視界に入っていても見過ごしてしまう」と話す、アライの川瀬富美子さん。自身も、トランスジェンダーFTMの議員、細田智也さんと知り合うまでは、からだの性と心が一致しないという状況を想像したことがなかったという。LGBTに焦点を合わせたことで、見えてきた世界とは? 川瀬さんの話に耳を傾けた。

2018/10/19/Fri
Photo : Tomoki Suzuki Text : Sui Toya
川瀬 富美子 / Fumiko Kawase

1973年、東京都生まれ。3人兄弟の末っ子として育ち、16歳から司会業を始める。18歳の時に、声優・ナレーターの黒沢良氏に師事。テレビレポーターやナレーション、イベントMCなど多方面で活躍する。1996年よりブライダル司会を開始し、2010年からはMCと企画の双方を請け負うブライダルプランナーとして活動。2017年、LGBTの支援団体「MateRio」を立ち上げ、埼玉県入間市を中心に活動中。

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INDEX
01 ブライダルプロデュース
02 4人暮らしの日々
03 声の仕事との出会い
04 舞台の裏側
05 プロの仕事
==================(後編)========================
06 FTMの議員候補との出会い
07 LGBTの支援団体
08 多様さの弊害
09 ハレの日を記憶に残す
10 負の状況があなたの価値になる

01ブライダルプロデュース

ハレの日を胸に抱く

23歳の時から、20年以上、ブライダル司会の仕事を続けてきた。

人生のハレの日を盛り上げる役目。

この1日が、思い出深いものになるようにと願ってきた。

現在は、式場探しから演出、司会まで、ブライダルの総合プロデュースを手がけている。

「私がプロデュースする式は、形式にこだわりません」

「新郎新婦が通い慣れている、小さな店を貸し切って、パーティーを行うこともあります」

「馬を育てている方の希望で、馬上での結婚式を演出したこともありますよ」
パートナーと生きることが、人生のすべてではない。

けれども、ともに生きる人を見つけたら、小さくてもいいから式を挙げてほしい。

「みんなに祝福された日の記憶は、生きるよすがになると思うんです」

両親の仲が上手くいかず、幼少期に寂しい思いをしたからこそ、余計にそう思う。

父が出て行った

幼稚園卒園を目前にして、父は、外に恋人をつくった。

その後、借金だけを残し、家を出て行った。

幼かった私には、父の記憶が何一つ残っていない。

それはもしかしたら、幸せなことだったのかもしれない。

「3人兄弟で、姉と兄がいます」

「母はそれまで専業主婦でしたが、子ども3人を育てるために、働き始めることになったんです」

男女雇用機会均等法もまだ制定されていない、1970年代のこと。

専業主婦の女性が突然社会に出るのは、さぞかし大変だったと想像できる。

「母は、毛皮のリフォームの会社で、事務全般を請け負っていました」

「その会社の社長さんが、私たちのことをすごく可愛がってくれたんです」

「夏休みには海に連れて行ってくれたり、ご飯に連れて行ってくれたり」

「今振り返れば、父はいなかったけど、愛情に恵まれた環境だったと思います」

02 4人暮らしの日々

母の強さとたくましさ

父が出て行った後、引っ越したのは、6畳+4畳の狭い部屋。

母の収入だけで暮らしていたため、当然ながら、経済的な余裕はなかった。

兄が「やっぱり、貧乏なのはつらい」と洩らしていたのを覚えている。

しかし、母が愚痴をこぼす姿は、一度も見たことがない。

日々を生きることに精一杯で、愚痴をこぼす暇もなかったのだろう。

大人になってから、「更年期はあった?」と聞いたことがある。

母は、「忙しくて気付かなかった」と笑って答えた。

「今、母と一緒に暮らしていますが、80歳を越えても活動的ですよ」

「昨年の夏は、海外で暮らしている姉のところに、孫2人を連れて遊びに行っていました」

「姉とは、LINEでしょっちゅうやりとりをしているようです」

「今が一番いい、って母はよく言いますね」

姉の友人

姉とは、年齢が10歳離れている。

父が出て行ったとき、姉は高校1年生。

両親の仲が壊れていくさまを、思春期の姉はどう見ていたのだろう。

「姉は、成績がとても優秀だったんです」

「でも、高校を中退して、家のために働いてくれました」

「勉強を再開したのは、兄と私が高校に進学してから」

「通信で大検資格を取って、大学を卒業しました」

私が小学生の時、姉は国際結婚をした。

その関係で、姉の周りには、外国人の友だちが多かった。

その中には、ゲイやレズビアンの人もいた。

「小さい頃から、姉の友だちを見ていました」

「だから、ゲイやレズビアンの方を特異だと思ったことがないんです」

「それが、今取り組んでいる、LGBT支援事業の原点かもしれません」

03声の仕事との出会い

反抗期を迎えて

中学3年生のとき、少しだけ生活が荒れた。

仲間と一緒にいる時間が、何より大事だと思っていた。

「学校には、ほぼ行きませんでしたね」

「受験生なのに模試も受けず、偏差値が判定できないほどでした(笑)」

それでも、何とか高校に進学。

しかし、入学早々、新たな楽しみを見つけてしまう。

「ゴールデンウィークにアルバイトをしようと、求人誌を眺めていたんです」

「そこで見つけたのが、着ぐるみショーのアルバイトでした!」

君は司会だよ

デパートや遊園地で着ぐるみに扮する仕事は、過酷な分、日給も高い。

早速面接に行ったが、任されたのは、着ぐるみの仕事ではなかった。

「君は司会だよって、いきなり言われたんです」

「着ぐるみショーなんて見たこともなかったし、司会の役割もわかりませんでした」

「1回だけ練習しようと言われて、先輩と2人で舞台に立って・・・・・・」

「2本目は1人でやってね、と言われて、舞台にポンと出されちゃったんです」

初めてのアルバイトを終え、「もう二度とやりたくない」と思いながら家に帰った。

しかし、ゴールデンウィークのあいだ中、びっしりシフトが組まれていた。

「面接をしてくださった方の家が、近所にあったんですよね」

「家でグズグズしてたら、呼びに来られちゃって(笑)」

「逃げようもなく、ゴールデンウィークは毎日着ぐるみショーの司会をする羽目になりました」

アルバイト漬けの日々

人間の順応力はすごい。

慣れない司会の仕事も、毎日2回の舞台をこなすうちに、板についてきた。

「だんだん、仕事が楽しくなってきたんです」

「ゴールデンウィークが終わっても、司会のアルバイトを続けることにしました」

「金曜日になると嬉しくて、制服姿で事務所に行っていましたね」

事務所に所属していたのは、年上の人ばかり。

可愛がってもらえたし、いろいろな話を聞くことができた。

地方でイベントを行うときは、日帰りや泊まり込みで各地に出かける。

10代の若者にとって、刺激の多い環境だった。

「仕事というより、大学のサークルのような感覚でした」

「夢中になりすぎて、高校にはほぼ通わなくなっていったんです」

04舞台の裏側

放任主義

高校を休みがちなことに対して、母から苦言を呈されたことはない。

「あなたがそれでいいならね」と言われただけだった。

たまに登校すると、友だちから「何で来ないの?」と不思議そうに聞かれる。

そのたびに「聞かないで。いろいろあるんだよ」と笑ってごまかした。

「コミュニケーション能力だけは高かったので、いじめられることはありませんでした」

「たまに登校すると、どこかのグループが仲間に入れてくれましたね」

司会のアルバイトをしていることを、友だちには秘密にしていた。

妬みを買うのが嫌だったからだ。

だから学校では、大人しい生徒を装っていた。

「司会業って、華やかなイメージがありますよね」

「でも、皆がイメージするほど華やかな仕事じゃないんです」

「人手が足りないイベント現場では、汗だくで作業を手伝うこともあります」

華やかなのは表面だけ

今でも「好きな仕事をしてていいわね」と、嫌みを言われることがある。

子どもが幼い頃は、「おばあちゃんにお世話してもらえていいわね」と、含みのある言われ方をすることもあった。

「当然ですが、仕事のたびに、面倒を見てもらうわけにはいかないんですよ」

「結婚式場のそばの託児所をネットで探して、子どもを預けてから出勤することが頻繁にありました」

一度、池袋の託児所に預けた時、日本人の先生が一人もいなかったことがある。

子どもを迎えに行くと、5歳だった長女が次女をおんぶしてあやしていた。

「先生はどうしたの?」と聞くと、「言葉が通じないの」と長女。

「インターナショナルでいいじゃない、なんて母には報告しましたけどね」

「心の中は、子どもに申し訳ない思いでいっぱいでした」

仕事は好きだが、ただニコニコ笑っていればいいわけではない。

努力している姿も、その努力が報われず泣く姿も、誰も知らないのだ。

高校3年生の選択

少しでも母に楽をさせてあげたい。

そう思い、高校生の時から、稼いだアルバイト代を家に入れていた。

「稼いだ分だけ、母にお金を渡せるし、自分も好きなものを買えます」

「しかも、それを好きな仕事で叶えられるんです」

「こんなに楽しいことはないですよね」

「だから、勉強なんて二の次になっちゃったんです」

ところが、高校3年生になった時、母からお達しが出た。

「大学に行くか、企業に勤めるか、どちらか選びなさいと言われました。社会経験もなく、好きなことだけやるのはダメだって・・・・・・」

芸能プロダクションに所属するチャンスもあったが、今度は親戚中から大反対を受けた。

結局、一般企業に就職することを決めた。

05プロの仕事

黒沢良先生との出会い

就職したものの、自分の居場所はここじゃない、という思いは募るばかり。

「やっぱり、司会の仕事がしたい」

そう考えていた18歳の時に、知人から紹介されたのが、声優・ナレーターの黒沢良氏だった。

“ 声優界の神様 ” と呼ばれるほどの人物。

ハリウッド俳優の吹き替えや、テレビ番組のナレーションなどを数多く手がける、業界の大御所といえる存在だった。

「黒沢先生のナレーションを初めて聞いた時、自分の司会の酷さを痛感したんです」

「なんて滑舌が悪く、なんて人のことを考えない司会をしてたんだろうって」

プロの仕事に、打ちのめされた。

一度放った言葉は、消すことができない

黒沢氏と出会ったころ、初めて企業のプロモーションVTRのナレーションに起用された。

そのせいで、少し舞い上がっていた。

「でも、黒沢先生に出会って、自信がへし折られてしまいました」

黒沢氏の影響もあり、声の仕事に専念するため、1年間企業で勤めた後、母に認めてもらい、司会業に復帰した。

ブライダル司会をスタートしたのは、1996年のこと。

8年間、専属の司会者として勤め、その後フリーランスになった。

「専属の時と、フリーになってからでは、新郎新婦との距離感が違いました」

「フリーになった後は、新郎新婦から打ち明け話をされることも増えましたね」

「プランナーが知らないことまで、把握していたんです(笑)」

言葉は元に戻せない

ある時、新郎から「弟は式に来ないんです」と打ち明けられたことがある。

理由を問うと、「詐欺をして捕まっちゃったんですよ」と答えが返ってきた。

「ハレの日ですから、そのとき私は、弟さんを否定したりせずに言葉をかけたんです」

「新郎さんは、『すごく救われました』と笑顔を見せてくれました」

言葉というのは、一度口に出したら、二度と元に戻すことができない。

相手を言葉で傷つけたら、どんなに取り繕っても、その人は傷付いたまま。

その傷を拭うには、何年もかかる。

それは、黒沢氏に教わった、何より大事な仕事の真髄だった。

「私たちの言葉は、傷だけでなく、救いを与えることもできるんだと、あのとき実感したんです」

LGBTの支援団体を設立して以降、当事者と接する機会も増えた。

同じことを言っても、何も思わない人もいれば、不快な思いをする人もいる。

「何に傷つくかは、その方の価値観からきていて、推し量るのが難しいこともあります」

「故意に傷つけることはもちろん言わないけれど、敏感になりすぎるのも良くない」

「傷ついたらごめんね、って言える関係を、形成していけるといいですよね」


<<<後編 2018/10/21/Sun>>>
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06 FTMの議員候補との出会い
07 LGBTの支援団体
08 多様さの弊害
09 ハレの日を記憶に残す
10 負の状況があなたの価値になる

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