02 生徒会長になってください!
03 二十歳まではグレーゾーン
04 ゲイとしての自覚はすんなりと
05 オナン・スペルマーメイドは戦友
==================(後編)========================
06 理美容一家の跡継ぎとして
07 LGBT当事者グループの立ち上げ
08 なくしたいのは “悲惨” の二文字
09 カミングアウトは慎重に
10 杉並区パートナーシップ制度申請第一号に
06理美容一家の跡継ぎとして
さまざまな理美容技術を進化
子どもの頃から、理美容業界の第一線で活躍する父の背中を見て、自分も美容師になるのだと信じて疑わなかった。
「高校2年のときに一度だけ、体育の先生になってバスケ部の顧問をやりたいと思って、担任の先生に相談したことはありますが(笑)」
父は日本でパンチパーマを広めただけでなく、カット技術やアイロン技術でも一目を置かれ、海外へ指導に行くこともある人物だった。
そして自分も、アルカリ性が主流のパーマ液において、髪に影響の少ない酸性の液で安定してパーマをかけられるシステムを開発した。
そうして父のもとで30年間近く、技術革新と事業拡大に努めてきたが、現在は実家を離れ、フリーランスの理美容師として仕事を続けている。
「2018年にね、僕、病気で死にかけたんですよ」
「父は、変に厳しいところがあって、具合が悪いから休ませてほしいって言っても、年末の忙しい時期だからと休ませてくれなくて」
「もう精神的にも本当に参っているとき、クリスマスの12月25日に倒れて、緊急入院で緊急手術、そのまま2カ月入院しました」
「それなのに父は、僕が入院してるときも、融資の相談をしてくるんです。こっちは生きるか死ぬかですよ!?(苦笑) 」
「3回めの手術の直後なんか、銀行の面接があるから、そのときだけ出てきてくれないかって言われて」
「退院したあとも、父はいろいろひどくて・・・・・・」
もう父の店には立てない
父は、子どもの命よりも、会社のほうが大切なのか。
このまま父のもとで働いていたら、いつか本当に死んでしまう。
とはいえ、辞めたいと言っても、父は辞めさせてくれないだろう。
「うちのパートナーに、もう店には立てない、自分が壊れてしまう、と言ったら、『うん、わかった。勝人は、がんばった。なにかあったら僕がどうにかするから早く帰っておいで』と言ってくれたんです」
会社を辞めたことで、親子の縁を切ることになってしまった。
兄も、結婚した相手と自分の両親との確執から、実家との縁を切っていた。
「店はいま、父がやっているんだと思います。兄は兄で、銀座で店をやっていると聞いてますんで」
「父の厳しさのおかげで、なんというか、なにかを成し遂げるための意地というものを小さい頃から身につけることができたとは思います」
「人に迷惑をかけないで、自分でなんとかするってことも」
その “意地” は、理美容師の仕事にも活動にも活かされている。
07 LGBT当事者グループの立ち上げ
雑誌の文通欄でメンバーを募集して
1997年に「プライドグループ」を立ち上げるよりも前、既に活動していたゲイ当事者団体に、一緒に活動してはどうかと打診をした。
「これからはLGBT全体で活動していくほうがいいのでは、と声をかけたんですけど、『うちは男性だけでいい』と言われてしまったので、まずはメンバー募集から始めたんですよ」
「ゲイ雑誌『Badi(バディ)』やレズビアン雑誌『anise(アニース)』の文通欄で呼びかけて、トランスジェンダーやレズビアンなどのメンバーも集めて、アライも参加して、立ち上げることができました」
当時は仕事も多忙を極めていたが、どうしてもこのタイミングでLGBT当事者と支援者の団体を立ち上げたかった。
その原動力となったのは。
「できるだけいろんな場所へ行って、たくさんの人の話を聞きに行くのは、もしもどこかに同じような境遇の人がいたら、その話がいつか助けになるかもしれないので、いまのうちに聞いておきたいという想いから」
立ち上げた当初は苦労も多かった。
「既にあったゲイ当事者団体から足を引っ張られたり、ゲイバーやクラブからは『私たちは陰で生きてるんだから、光を当てないでほしい』って言われたり」
「僕たちがやっているような人権活動に関しては、やらなくてもいい、やらないでほしい、って当事者も意外といるんですよ」
LGBT当事者が自分の力で困難を乗り越えられるように
例えば、パートナーシップ制度や同性婚については、「必要ない」と答える当事者が40代より上の世代で増える傾向があるというアンケート結果も。
「そっとしておいてほしい、というのが本音なのかなと。40代より上のかただと、もしかしたらある程度収入も安定していて、いまの生活にそこまで困ってはいないのかもしれないですね」
「でも20代以下は、やっぱりパートナーシップ制度や同性婚は必要だと、多くの人が考えているようなんです。そういった若い人たちのために、ちゃんと制度を整えておくのは、僕たち大人の役目だと思ってます」
2023年8月からスタートした、杉並区立男女平等推進センターのもとで企画運営を担当している「LGBTQ+理解促進講座」には、若い世代が親と申し込むケースもある。
「家にも学校にも居場所が見つけられなくて、悩んでいる10代の子たちのために、僕たちがどうやって環境をつくっていくのかが重要です」
「困っているのであれば、手を差し伸べたい。そして、手を差し伸べるだけでなく、その子が自分の力で目の前の困難を乗り越えられるように、伴走したい」
「最後に、乗り越えるのは本人なんだから」
08なくしたいのは “悲惨” の二文字
同性カップルは家族として認められない
「プライドグループ」の活動は、現在で26年目を数える。
継続することの難しさを感じながらも、困っている人に手を差し伸べ、伴走し続けてこれたのは、“誓い” を立てたから。
「活動をスタートさせたときに、『失われたセクシュアルマイノリティの権利を勝ち取るまで戦い続けます』と誓いを立てたんです」
この誓いを、絶対に守り通したいからだ。
「僕は、この活動を通して、セクシュアルマイノリティの当事者から、“悲惨” の二文字をなくしたいと思っているんです。この悲惨のなかには、愛し合っているのに籍も入れられないという不利益も含まれてます」
「少し前にも、パートナーが交通事故で亡くなったのに、遺族として認められなかったという同性カップルの話を聞きました。・・・・・・そんな悲しいこと・・・・・・ないじゃないですか」
自分自身も同じような経験をしたからこそ、悲しさは痛いほどわかる。
「2018年に緊急手術をするとき、手術の同意書にサインしなくちゃいけなかったんですけど、僕が意識朦朧としてたので、パートナーがサインをしようとしたらしいんですが、病院側に断られたそうなんです」
「結局、パートナーがタクシーで親父を迎えに行って、連れてきてくれて、親がサインをしてくれたんですが、手術のあいだ、どうやらパートナーは病院の外にいたらしいんですよ。手術は6時間もかかったのに」
「たぶん、家族として待合室に案内されなかったんだと思います」
「結局、手術の途中にうちの親父が、外で待っていたパートナーを見つけてくれて、待合室に入ることができたらしいんですが・・・・・・」
LGBT理解促進のため、沖縄でも当事者との対話を
緊急手術が行われたのは真冬だった。しかも、クリスマス・・・・・・。
もし病院に父がいなかったら、父がパートナーを見つけてくれなかったら。
そう考えると、さらに悲しい気持ちになる。
「いまは『プライドグループ』から新設した『ちむぐくる企画 実行委員会』を中心に、対話をベースにLGBT理解促進の活動を進めています」
「『ちむぐくる』とは沖縄の言葉で『思いやり』。『ちむぐりさ』とは、『あなたが悲しいと私の魂も悲しい』という意味です。『ちむぐりさ』の相手に『同苦』する心を忘れずに、相手の立場に立って考えることを大切に活動しています」
「僕のパートナーが沖縄出身なんですよ。そんな縁から、沖縄にはよく行きますし、そのたびに沖縄のLGBT当事者に話を聞くためアポイントをとって、数日かけて沖縄本島の南の端から北の端まで車で走ってます」
そうした活動のすべてが、いつか差別の完全融解につながると信じている。
「差別は消えてなくなるわけじゃないと思うんです。だから僕は、完全解消ではなく、溶けて浸透してなくなる完全融解という言葉を使います」
09カミングアウトは慎重に
ゲイは “不憫” ではない
2021年の緊急手術の際には、パートナーを待合室に招き入れてくれた父だったが、「自分の息子がゲイである」と知ったときにはひと騒動あった。
「以前から兄貴には、僕はゲイだとカミングアウトしてたんですよ。そしたら、兄貴が親父に言っちゃったみたいで、突然、実家に呼ばれたんです」
「兄貴から聞いたぞって言われて。治せるもんだったら治せ、とまで言われました。同時期に、母からも『そろそろ彼女を紹介しなさいよ。それとも彼氏でもいるの?』って鎌をかけられて・・・・・・」
「タイミング的に、母も知っているんだとばかり思っていたので、『あ、彼氏でもいいの?』って答えたら、『えぇ!?』ってなって(苦笑)」
「母はもう、半狂乱ですよ。『私の育て方が間違ってたーーーっ』て」
私は、あなたを、そんな風に育てた覚えはない。
そう書かれた手紙まで、母から渡された。
「母は、ゲイは “一生ひとりぼっち”“不憫” と思い込んでいたようで、その責任は自分にあると考えてしまったみたいでした。親父も親父で、ゲイのことをよく知らないから怖い、って感じで」
ふたりには、自分がなにを言っても通じない。
その後10年近く、家族のあいだでセクシュアリティについては触れることができなかった。
「ふたりの恐れや不安を払拭するのは、僕が幸せになる姿を見せるしかないのかなって思いましたね・・・・・・」
親っていうのは、子どもが幸せになることを一番に願っているはずだから。
「あとは、同性同士で結婚はできなくてもパートナーシップは結べるし、お墓参りに行くときとかに、うちのパートナーも連れて行ったりして、こういう幸せのかたちもあるよって示して、親が思う幸せのかたちと、僕たち当事者が思っている幸せのかたちの擦り合わせをしないと、と思います」
カミングアウトせず墓場まで持っていくほうが
カミングアウトに関しては、LGBT当事者と相手との意識のズレが生じてしまうことも多いため、かなり慎重に行ったほうがいいと提言する。
「僕は基本的に当事者ファースト。でもカミングアウトは、相手に一生の十字架を背負わせてしまう可能性もあるので、それをちゃんとフォローできるか・・・・・・」
「ぶっちゃけ、ご家族の余命なども考慮して、ちゃんとすべて解消することができるのか、慎重に考えたほうがいいと思います」
「相手によっては、カミングアウトせずに、墓場まで持っていったほうがいい場合もあると思いますよ」
さらに、家族や友人のみならず、社会に向けてカミングアウトするのであれば、より一層、慎重になったほうがいい。
「僕のようにカミングアウトして人権活動をするなんて、矢面に立つ覚悟を決めていないとできないことだと思います」
「実際につい先日も、SNSで顔写真を晒されて、デマを吹聴されました。放っておいたら、人権活動とか、パートナーシップ制度の利用とか、僕のあとに続く人がいなくなってしまうと思ったので、その投稿者にはしかるべき機関から厳しく注意してもらいました」
カミングアウトすることで、当事者はスッキリするかもしれない。
受け入れられたとしたら、居場所も確保できる。
しかし、もしかしたら誰かを傷つけてしまうかもしれない、誰かから攻撃されるかもしれない、という可能性にもきちんと目をむけたほうがいい。
10杉並区パートナーシップ制度申請第一号に
開くと同時にダッシュで窓口へ
2021年11月、「杉並区におけるパートナーシップ制度の創設に関する陳情」を代表として議会へ提出。
そして2022年3月に採択され、2023年4月より運用が開始された。
「僕たちが、杉並区パートナーシップ制度の申請第一号なんですけど、実はそのために、けっこう走りました(笑)」
陳情提出の代表を務めたことからも、パートナーシップ制度を担当する区の職員とも顔見知りになり、その内情も理解していた。
「第一号となった人たちには広報誌にも顔写真付きで登場していただいて、制度利用の周知につとめたいという区の気持ちを考えると、ほかの誰かが第一号になって、誌面で紹介されて広く顔を知られて・・・・・・ある意味矢面に立ってもらうくらいなら、自分たちがやろうと思って」
「パートナーに言ったらOKしてくれました」
「で、受付開始日の8時30分が電話受付スタートだったんですが、区役所は8時20分に開くってことだったので、当日朝一番に行って、エントランスが開くと同時にダッシュで窓口に向かったんですよ(笑)」
その甲斐があっての第一号だった。
「でも案の定、心ないかたにSNSで・・・・・・でしたが(苦笑)」
同性婚、事実婚、夫婦別姓も視野に
「パートナーとは、もうすぐ付き合って満10年になります」
「入院していたときも、本人がインフルエンザで寝込んだとき以外は毎日お見舞いに来てくれて。看護師さんにも『いつもパートナーさんが来てくれていいですね。いらしてるときは、先生も私たちも竹内さんのところには行かないようにしてたんですよ』なんて言われました(笑)」
「それで、退院してすぐにプロポーズしたんですよ」
入院当時はパートナーと自分とのつながりを公的に証明することができなかったが、いまは家族として、ともに生活していくことができる。
しかし、パートナーシップ制度はゴールではない。
「最終的に目指しているのは、やっぱり差別の完全融解なんです」
「自分たちの私利私欲を超えて、イデオロギーをも超えたところで団結していかなくちゃいけないと思います。そのベースになるのが対話です」
「対話をもとに、どれだけ理解者を増やしていくかが大切」
そのためには、LGBTの問題だけに限っていてはいけない。
「実は、当初の杉並区のパートナーシップ制度の陳情には、夫婦別姓も含めていたんです。でも、提出直前で削られてしまって」
「ライブハウスも数多く存在する高円寺で生まれ育った僕としては、例えば事実婚を求めるバンドマンの存在も身近に感じています。そういった人たちの権利も守っていかなくちゃいけないと思うんですよ」
これからは同性婚、事実婚、夫婦別姓の制度化を進めたい。
「なんだかカッコいい言い方になってしまうんですけど、困っている人がいたら、なんとかしてあげたいんです」
“悲惨” な状況や困難の真っただ中にいる人に手を差し伸べ続け、その人が自分の力で乗り越えられるよう、これからもずっと伴走していく。