INTERVIEW
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最終的な目標は、差別の完全融解。それまでずっとLGBT当事者に伴走していく【前編】

金髪に革ジャン、180センチを超える長身。第一印象は “コワモテ” だが、話してみるとそのイメージは真逆に変わる。「困っている人がいたら、なんとかしてあげたいってことだけなんです」。相手の立場に立って考え、気持ちを相手に寄り添わせ、静かに話を聞き、柔らかく穏やかに答える。そんな対話を大切にして、26年間、LGBTに関する活動を続けてきた。

2024/01/27/Sat
Photo : Taku Katayama Text : Kei Yoshida
竹内 勝人 / Katsuto Takeuchi

1970年、東京都生まれ。日本理美容界の老舗サロンを運営するとともに、その技術革新を牽引してきた一家の次男として育つ。父親から引き継いだ会社を大きく成長させ、現在はフリーランスの美容師・理容師として顧客を抱える。1997年、セクシュアルマイノリティの当事者と支援者で構成される「プライドグループ」を結成。2021年には「杉並区におけるパートナーシップ制度の創設に関する陳情」を議会へ提出し、2022年に採択され、翌年4月に自身とパートナーが申請第一号となる。

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INDEX
01 産みの母と育ての母
02 生徒会長になってください!
03 二十歳まではグレーゾーン
04 ゲイとしての自覚はすんなりと
05 オナン・スペルマーメイドは戦友
==================(後編)========================
06 理美容一家の跡継ぎとして
07 LGBT当事者グループの立ち上げ
08 なくしたいのは “悲惨” の二文字
09 カミングアウトは慎重に
10 杉並区パートナーシップ制度申請第一号に

01産みの母と育ての母

日本でパンチパーマを広めた父

生まれも育ちも東京の高円寺。
しかし、幼稚園に通っていた1~2年くらいは横浜に住んでいた。

「うちの親父は、故郷の長野から東京に出てきて、日本のフェイシャル技術の礎を築いた師匠のもとで修業したんですよ」

「それから高円寺で独立して、師匠から店の名前を受け継いだんですが、店には常に親父のお弟子さんが10人ほどいるような状態で・・・・・・」

「実は、日本でパンチパーマを広めたのって、うちの親父なんですよ」

「山野愛子の右腕だったという母も美容師だったんですが、僕が物心つかないうちに両親は離婚して、また物心つかないうちに親父は再婚して」

父の再婚相手、つまり育ての母の実家が横浜だった。

そこで、高円寺の店が忙しい時期は横浜に住む祖母が、兄と自分の面倒をみてくれていたのだ。

育ての親のほうが大事

「産みの母のことを知ったのは中3のときです」

「2階で受験勉強をしていたら、1階で固定電話が鳴って。出てみたら、受話器の向こうで啜り泣く女性の声が聞こえるわけですよ」

「そしたら異変に気づいた親父に受話器を取り上げられて」

「それから、すぐに家族会議になって。実は、産みの母が別にいるんだって聞かされて。知らなかったのは僕だけ。1歳上の兄貴は知ってたみたいで、産みの母ともちょこちょこ会ってたらしいんですけど」

家族会議のあいだ、育ての母はずっと泣いていた。

「自分でも冷めた中3だったのかもって思いますが、事実を知って『いいんじゃないの、これで隠しごとがなくなったんだから。そんなに泣くことではないと思うよ』って言ったように思います」

産みの母と初めて会ったのは二十歳のときだ。

「兄貴から、成人式の日に『会う気ある?』って聞かれて。会ったのはそのときの一回だけだったかな・・・・・・。やっぱり育ての母に対する義理みたいなのがあって、もう会わないほうがいいかなって」

「会ったとき、僕から母に『過去は過去でいいんじゃない? 過去のことよりも、これからのことのほうが大切だよね』って言った覚えがあります』

「同じようなことを育ての母にも言った気がしますね」

「自分としては、産みの親よりも育ての親のほうが大事なんだってことを伝えたかったんだと思います」

02生徒会長になってください!

学校に警察が

両親の姿を見て育ち、気づけば自分も美容師になることを目指していた。

「親父や母が、僕を理容師や美容師の集まりに連れていくじゃないですか。そしたら、周りが『大きくなったら、なにになりたいの?』ってきくんですよ」

「すると当然のように『お父さんと一緒!』と答えて、『いい子だねーっ』なんて褒められてました(笑)」

「兄貴は、子どもの頃から美容師を目指してたって感じではなかったんじゃないかな。どっちかっていうと、僕の後ろをついてくる感じだったんで」

「僕は、子どもの頃から目立ちたがり屋でしたね(笑)」

小学校では友だちの先頭に立って遊び、中学校では学級委員としてしばしば推薦され、さらには生徒会長まで務めた。

「うちの中学、僕たちの世代はすっごい悪かったんですよ(苦笑)」

「校内暴力がひどい時代で、学校に警察が来ることもあったし、卒業式もできるかどうかわからないような状態で」

「そんななか、前生徒会長から『竹内くん、次の生徒会長をやってくれないですか』って言われたんです」

「でも、僕はそのときバスケ部のレギュラーで、中野、杉並、練馬の大会では三連覇達成をするほど、チームは強かったんですよ。なので、部活に来られなくなったら困る、ってバスケ部のみんなからは猛反対されて」

終いには、教頭と学年主任が「生徒会長になってくれ」と自宅に訪れた。

必ず両方の話を聞く

「不良と先生の調停役をやってほしかったみたいなんですよ。僕はどちらとも仲がよかったんで」

「これは、いまでも心がけていることなんですけど、なにかあったときは必ず両方の話を聞いて、片方の話だけでは判断しないようにしてるんです」

「あとは、噂もいろいろ耳に入ってくるけれど、実際に自分が見て、聞いたものじゃないと信じないようにしています。なにかあったら、必ず現場に足を運ぶことも大切にしています」

それらの信念は、いま思うと、子どもの頃の環境が影響しているとも思う。幼いときから、幅広い世代の人たちと接してきたことも理由もしれない。

「親父と母が仕事で忙しいから、ほとんど横浜のおばあちゃんに育てられてたし、夏休みとかは長野の祖父母に預けられてました」

「店に行けば、親父のお弟子さんたちもいるし。お弟子さんたちから、僕の親父と母の陰口を聞くこともあるし(苦笑)」

「そんな環境のなかで、人間の勉強をさせてもらってきたっていうのはあるのかもしれないですね」

03 二十歳まではグレーゾーン

女性とは伴侶にはなれない

自分のセクシュアリティに気づいたのは中学2年生のとき。

それまで、女の子を好きになることもあったが、気になる女の子はいつもボーイッシュな子ばかりだった。

「中2のとき、バスケ部で合宿に行ったんですよ・・・・・・。やらしい話でなんですけど(苦笑)・・・・・・。お風呂に入ってるときに、かっこいい男の子の股間が気になって気になって」

「あんまりジロジロ見るなよって、その子に言われました(笑)」

「そういうのがあり、気づきましたね」

何度か、女性と付き合ったこともある。
最後に女性と付き合ったのは二十歳の頃。

それまでは、ゲイなのかどうなのか、グレーゾーンだった。

「二十歳の頃、やっぱり自分の恋愛の相手は女性じゃないんだなって思ったんです。なんだろう、女性とは一緒にいても気を張らずに済んじゃうんですよ」

「女性とはパートナーになれるけど、伴侶にはなれない」

「パートナーはビジネスパートナーとか、いろんな活動をするうえでの相手だけれど、生涯をともにする相手ではないなって感じがあったのかも」

苦しさに夜逃げする人も

自分のセクシュアリティに気づいた頃は、理美容業界で修業中の身。

休みの日以外は24時間働いていて、自分自身と向き合う時間はなかった。

「高校に通いながら美容師専門学校の通信制を受けて、高校を卒業後に理容師専門学校の昼間部へ進みました。卒業後は、世界チャンピオンとして有名な先生の店へ修業に入ったんです」

4畳半の2人部屋で、住み込みで働いて、初任給は月5万円。

寮であるアパートには風呂がないので、給料から銭湯代を出し、休みの日の食事代を出し、コンクールに出場するためのウイッグ代約1万円も、さらなる技術を学ぶための講習代も、捻出しなければならなかった。

「とにかくお金がなかったので、休みの日は、たとえば講習が始まるまでに6時間あったとしたら、3時間かけて自転車で川沿いを走って、また3時間かけて戻ってくるってことをしていました(笑)」

金銭面だけでなく、店での修業も苦しかった。

「先輩から灰皿を投げつけられたりね(苦笑)。そんな感じだから、夜、寮の隣で寝てたやつが朝になったらいなくなっちゃってたり。夜逃げですよ。同期は18人くらいいたんですが、残ったのは4人だけでしたね」

04ゲイとしての自覚はすんなりと

ゲイだからと卑下する必要はない

「僕、こんな風にLGBTの活動をしているからか、すごい悩んで、いろんな葛藤を抱えてきたと思われがちなんですが、自分のセクシュアリティについて、特に悩んだりしたことはなかったんですよ(笑)」

自分の相手は女性ではない。
自分はゲイなんだ。

自覚した修業時代は、押し入れの端にゲイポルノのビデオテープを隠して、こっそり観ることもあった。

自分がゲイである事実に対して悩んだことはないと言い切れるのは、ある揺らぎない考えをもっているから。

「活動をしているなかで、同性愛者の子の親御さんから相談を受けることもありますが、セクシュアリティにばかりフォーカスして、卑下したり、悩んだりする必要はないですよと答えます」

「相手が男とか女とか、同性だとか異性だとか関係なく、人を愛することはすごく大切だと思います、とお伝えするんです」

「人を愛することは、人を大事にすることにつながってくるので、とても素敵なことだと思いますよ、って」

「なんか、そんな風に変に能天気なんですよ、僕。でも、また変なところでメンタルが弱かったりするんですけどね(笑)」

同性との初めての交際

男性と付き合ったのは、修業を終え、高円寺の父の店で働いてからだった。

「19歳から修業に行って、5年間がんばって、1994年に戻ってきて、父のもとで働き始めました」

「働きだしてしばらくは、高円寺から少し離れた文京区でひとり暮らしをしていたので、それを機に、男性と付き合うようになりました」

「初めて男性と付き合ってみて、しっくりきた・・・・・・というよりは、好奇心もある程度大きかったんじゃないかなと思います。男性と付き合うって、どういうことなんだろう、って」

「当時は、年上の男性と付き合ってみたんですけど、なんかちょっと違うかな、というのは気づきました。もともと年下のほうが好きだったので、付き合うなら年上じゃないなって(笑)」

そして出会ったのがドラァグクイーンのオナン・スペルマーメイドだった。

「出会った頃、オナンは高円寺のシェアハウスに住んでて、僕がそこに出入りするようになったんですけど、そのうちに、ふたりで部屋を借りて一緒に住もうって話になったんです」

05 オナン・スペルマーメイドは戦友

お互いの道を歩み始めた時期

「オナンと付き合いだしたのはね、1998年のことです。ちょうどいま、友人たちとオナンの部屋で遺品整理をしていて、僕が渡したラブレターが見つかったんです(笑)。そこに1998年って書いてありました」

「遺品整理では、僕はキッチン担当。やっぱりね・・・・・・部屋に残された衣装を見ちゃうと、見入っちゃって、手が動かなくなるから」

「キッチンだったら、『賞味期限が切れてる。捨てよう』『まだ食べられる、まだ使える。これもらって行きますよ』ってテキパキ進むんです」

オナン・スペルマーメイドとの交際は、1998年からスタート。

前年にはセクシュアルマイノリティの当事者と支援者で構成される「プライドグループ」を立ち上げ、志高く活動を進めている頃だった。

「その頃、オナンはクラブの世界で、ドラァグクイーンとしての自分の道を切り拓いていってて・・・・・・。そういったなかで一緒にいてくれたっていうのが心強かったですね」

「僕がいま、人権活動を続けられているのは、オナンのおかげとも言えるんです」

「オナンと出会った当時、クラブ関係者の中には、活動家を警戒している人もいました。
当事者たちが守り続けていた大切な居場所が、 “活動” によって社会に向けて晒されることを、危惧した人もいたのかもしれないですね」

「でも僕は、『オナンの彼氏ね』って信頼してもらえて、クラブの世界でもよくしてもらったんですよ」

「いつもそばにいてくれた」

「僕はオナンの歴代彼氏を知っていて、オナンも、いまのパートナーはもちろん、僕の歴代彼氏を知っています(笑)。別れたあとも、つらいときには一番に駆けつけてくれて・・・・・・」

「彼氏とか恋愛関係を超えた、家族のような関係だと周りにも言われます」

「僕にとってオナンは、戦友なんです」

2023年9月に亡くなったあと、受け取ったノートがある。

病床にいる自分自身と周りの人々を描く物語が綴られていた。

「家族や友だちについて書かれているなかで、僕のことも “ライオンの勝人” がいつもそばにいてくれた、って書いてくれていました」

「書いたり消したりした跡も残っているし、誤字脱字もあるし、途中で絶筆してしまっているんですけど・・・・・・そのまま書き起こしたんです」

「いつか、この物語を絵本にしてほしいと思っています」

 

<<<後編 2024/02/03/Sat >>>

INDEX
06 理美容一家の跡継ぎとして
07 LGBT当事者グループの立ち上げ
08 なくしたいのは “悲惨” の二文字
09 カミングアウトは慎重に
10 杉並区パートナーシップ制度申請第一号に

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