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性同一性障害という心の蓋を取り払って【後編】

性同一性障害という心の蓋を取り払って【前編】はこちら

2018/10/03/Wed
Photo : Rina Kawabata Text : Sachiko Ohira
江﨑 真広 / Esaki Mahiro

1987年、神奈川県生まれ。外遊びを楽しみながらも、心のどこかに蓋をしながら幼少期を過ごした。厚木市立の中学校を卒業後、高校へ進学するが、1年生の秋に退学。その後、板金塗装の仕事に約10年従事。現在はレントゲン車や車載用の冷蔵庫を製造・設置する会社に勤務している。一人っ子で両親と3人暮らし。

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INDEX
01 「自分は何者」と思いながら生きた
02 男女ともに友だちはたくさん
03 心の違和感はそのまま中学へ
04 蓋に閉ざされた心のままで
05 高校は1年の途中で退学
==================(後編)========================
06 性同一性障害に親子で直面
07 母は「覚悟しなさいね」と
08 少しずつ変わっていった気持ち
09 仕事があるから前向きに生きていられる
10 将来の夢、未来の姿を想像して

06性同一性障害に親子で直面

20歳、大人の節目にカミングアウト

20歳の時、母に性同一性障害であることをカミングアウトした。

「20歳というのは大人になる節目だから、ちゃんと伝えないといけないなと思ってて」

「もともと、別に隠そうと思っていたわけではないですし、性同一性障害だ、ということをはっきり言っておきたかったんです」

カミングアウトするきっかけには、生まれて初めて恋人ができた、ということも大きく関係している。

彼女とはSNSの出会い系サイトで知り合った。「FTMの自分が女の子を募集しています」と書き込んで、返事をくれた女性だ。

「それまで、自分にはパートナーは一生できないだろう、と思いこんでました。だから、一生に一回のつもりで勇気を出して書きこんだんです」

付き合っていくうちに、だんだん気持ちが深まっていった。

「よく遊ぶようになって、外出も増えたから母は気がついてたみたいですね」

「あの子とばっかり、よく遊ぶね、と母に言われて、本当のことを言わざるを得ないような状況になった、というのもカミングアウトの理由ですかね(笑)」。

性同一性障害を受け入れたくない母

考えてみたら、母には以前、自分のセクシュアリティを伝えておいたはずだ。

金八先生を一緒に観ていた時、「自分は『これと一緒かもしれない』」と話している。

その時、母は「勘違いだよ」のひと言で済ませていた。

「だけど、今回は分かってくれている、気づいているかも知れないって少し期待したんです。服装も男性っぽいものになっていたし」

「性同一性障害ということと一緒に、女の子が好きだという話もしました」

二度目も母は受け入れなかった。

「『勘違いよ』『本当にあんたはそんなことばっかり言って!』って、軽くあしらわれました』

「やっぱりか、こうなるよねって。予測もしていましたけど」

07母は「覚悟しなさいね」と

自分の努力と母の戸惑い

母にカミングアウトしてからは、いかにも自分は男性だというところを見せつけようと努力した。

例えばドン・キホーテで付けヒゲを買って母親の前で付けて見せた。
下着もメンズのものを使うようにしてみた。

「若い時は、男性的な見た目にこだわっていましたね。そういうのを見て、母は『何やってるのあんたは!?』って」

「母には、自分の子が性同一性障害だということを、受け入れたくないという思いがあったようです」

「『そういう話ばかりするならもう話さない』とシャットアウトされたり、テレビでもLGBT関連の番組をやっているとチャンネルを替えられたりしました」

「大変な道」と母

「母の本音は『(性同一性障害として生きていくのは)大変な道だから』ということだと思います」

「だって、母のほうがずっと長く生きてきていて、人生の厳しさはよく分かっているでしょうから」

カミングアウトのあと、母からは「病院に行ったら」とも言われた。

母が言いたかったのは「病院で治してもらいなさい」という意味だったのかもしれない。

それ以降、セクシュアリティの話題はタブーになったが、自分からは「ごめん、ずっと悩んでいたし、治療したいって気持ちは変わらないんだ」と伝えた。

「母は少しずつ性同一性障害に関して勉強を始めてくれるようになりました」

「ある時、『受診はしても、治療とか手術とかじゃなくていいんでしょう』とか、『外で人にそんなことを話さなくてもいいじゃない』というふうなことを言い出しました」

母は、すべてを受け入れたわけではなかった。

理解しようとしつつも、何もしないで “普通” に生きることを、やんわりと勧めたように感じた。

24歳でホルモン治療を始める時、「行ってくるね」と母に声をかけた。

母は、「・・・・・・ダメって言っても行くんでしょう、覚悟しなさいね」と。

08少しずつ変わっていった気持ち

父は「好きなようにしろ」

性同一性障害のことは、父親にも伝えていたが「好きなようにしろ」とだけ言われた。

もともと、父は自分のことにあまり深く干渉しない。

「ホルモン治療を始めて3年後、胸の手術をする時に、父は『痛いんだぞ、本当にいいのか?』って(笑)」

「『病院について行こうか?』とも言ってくれました。オペには友人に付き添ってもらう予定だったので、父の申し出は断りましたけど(笑)」

今、父は冗談で前の自分の名前を呼んだりする。

ゴキブリが部屋に出てきて大騒ぎすると「やっぱり女だな」とからかったり。

初めて参加したTRP

今年、初めて東京レインボープライド(TRP)に出かけた。

LGBT当事者や支援者、理解者たちが集まる日本で一番大きなLGBTのイベント。

今回はパレードに参加せず、見ているだけだったが、賑やかで興奮した。

「SNSで知り合った友だちと一緒に行きました。『行ったことないの?』『じゃあ、行こうか』って軽いノリで」

「自分と同じような人たちが、こんなにいっぱいいるんだ、って驚きました。当事者だけじゃなくて理解者もたくさんいることに励まされたというか」

毎年TRPが開かれていることは知っていた。でも、あまり自分とは関係ないと思っていた。

「避けていたわけじゃないんですけど、そういう活動に参加しなくても、生きていけたから」

「今までは自分だけ変じゃないかって思いこんだり、セクシュアリティを隠していたり、人の経験を聞くとか受動的だったけれど、今度は誰かの役に立ちたいと思うようになりました」

09仕事があるから前向きに生きていられる

自分を支える「仕事」とは?

16歳で仕事を始めて、お金をもらえる立場になったことの意味は大きいと思う。

働いて貯めたお金があったから、性同一性障害の診断やホルモン治療、胸オペとステップを進めることができた。

最初の仕事は、工作機械の板金。特殊な板金のため、海外からの依頼もあった。

「もともと車やバイクに興味があったので、板金や塗装は好きな仕事でした」

有機溶剤を使う仕事。気管支喘息をもつ身体に負担がかかって、勤続10年経った頃、退職することになる。

現在は、リムジンバスや献血バスなど特殊車両への冷蔵庫の製造と取り付けの仕事をしている。

受注生産のため、一から始めて、お客様への納品までを見届けられる。

やり甲斐のある仕事だ。

「自分にとっての仕事って、人の役に立つことをやるっていう意味があると思ってます。だけど、本当に役に立っているかなぁ(笑)」

「それに仕事を通じて、いろいろな人との出会えるのは楽しいですね」

仕事を通じて視野が広がる

仕事で認められるようになって、前よりもスムーズに “自分” を出せるようになった。

不安はあるが、セクシュアリティを隠す必要もなくなった。

「昔は自分のセクシュアリティを気にしすぎて、萎縮していたけれど、最近は『カミングアウトして、受け入れてくれなかったらどうしよう』とは、思わなくなりました」

受け入れてくれない人がいても当たり前。

「それだけ人目を気にしなくなったっていうことですね」

ホルモン注射を始めた時には、職場の同僚や先輩にカミングアウトした。

「『注射をすると声や体つきがすごく変る人もいれば、変わらない人もいる』っていうことを分かってもらいたくて」

「カミングアウトしても、全然普通でしたね。『そうだったんだ』って」

社内には自分と年が近い人もいれば、年配の方もいた。

みんないろいろな事情を背負って働いている。

「障害物というか、みんな何かしら抱えているから、悩みがあるのは自分だけじゃないんだな、と思うようになりました」

「自分のセクシュアリティの問題は若干、重いのかもしれないけれど」

昔周りの人たちに感じていた不安や妄想は消えました。

「みんな日々、格闘しながら働いている。自分のようにセクシュアリティへの違和感と葛藤している者もいれば、現実の生活を支えるため精一杯働いている人もたくさんいるんだ、と実感しました」

「そういう意味では、無理して高校にしがみつかず、早く社会に出て良かったと思っています。大人と関わることで視野がぐんと広がりましたから」

10将来の夢、未来の姿を想像して

将来は家庭を持ちたい

セクシュアリティへの違和感を持ちながら生きていた当時、将来がまったく描けなかった。

自分だけが変なんじゃないか、という不安ばかりが大きかった。

でも今こうして働き、自分の力で生きている。

「自立している自分を認めたいですね」

「今までは、将来普通に働いて家庭を持って生きていければいいなと思ってました」

「でもRPを見たら、それに加えて、これからは自分もLGBT当事者たちを支える活動を積極的にやっていきたいと思いました」

「まだ、何をやればいいのか分からないですけどね」

もう一つ、叶えたいことがある。

「いずれは戸籍を変えたいと思っています。子どもも好きだからできればほしいかも。卵子凍結とかも考えています」

いっぺんに決めなくていいと考えている。

時がきたら決めればいい。

10年後、自分も仲間も幸せに

自分は何者なんだろう? と悩んでいた子どもの頃。

誰にも本当のことが言えずにもがいていた10代。

「いろいろあっても、“今” が一番いいから。大丈夫だよ、何とかなるよ」と伝えたい。

10 年後の自分には「幸せになっていてほしい。自分にとっての幸せをつかんでいてほしいですね」

「お金があれば幸せかといえば、そうではないと思う。誠実に働いて暮らし、周りの人にも認められるように、人としてちゃんと生きていてほしいと思います」

「今までの人生、出会いに恵まれてました。だから、仲良くしている友だちや知人、みんなに幸せでいてほしいです。自分にとって、それが一番の幸せだと思います」

あとがき
心配りの人、真広さん。セクシュアリティの悩みと一緒に、他のすべてを内側に押し込めた時代の話。たった一つの蓋。でも “本当の自分” がバレないよういするそれは、とても重かっただろう■真広さんは、仕事で出会った人それぞれから、学びたい部分をみつけた。[ロールモデル]を探すとき、未来のイメージにピタッと合う人は、まずいない。真広さんの「仕事が教えてくれたこと」は、どんな人からも強みを見つけ、感謝することだった。(編集部)

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