02 幼い頃からあった「FTM」の意識
03 抑えきれなかったエネルギー
04 17歳で始めた夜の仕事
05 大切な人との別れと新天地への出発
==================(後編)========================
06 家族それぞれの受け止め方
07 セクシュアリティも仕事も違う面白さ
08 戸籍変更と心のリセット
09 地元でLGBTQの理解を深めたい
10 僕が“あなた”に伝えたいこと
01僕を自由に育ててくれた家族
冬が長い故郷
出身は、湿原や夕日で有名な北海道釧路市。
「人より野生のシカやクマが多いような場所です。ツルやタヌキもたくさんいます」
北海道東部に位置する釧路市。その冬は長い。
「夏休みは2週間くらいで、その代わり冬休みが長いんです。冬本番はマイナス20度くらいですよ」
「雪は積もらないんですけど、道路はすぐに凍っちゃいます」
学校にはプールがない代わりに、スケートリンクが設けられていた。
「冬になるとみんなでスケートリンクの枠を作って、当番が水をかけて凍らせてた思い出があります」
自由な母とインドアな兄
家族は、母親と5歳離れた兄。
「僕が3歳の頃に両親が離婚したんです。お父さんの連れ子で14歳上の姉もいたんですが、離れて暮らしてました」
離婚後、父は再婚して妹と弟ができたが、再会したのは18歳になってからだった。
「だから、子どもの頃は2人きょうだいの感覚でした」
「兄貴とは子どもの頃から仲がいいけど、一緒に遊ぶことは少なかったですね。兄貴はゲームが好きで、僕は外で遊ぶタイプだったんで(笑)」
そんな2人きょうだいを育ててくれた母は、自由奔放な人。
「お母さんは、人から干渉されたくないから子どもにも干渉しない人でした」
「子どもがやりたいことは応援してくれるけど、やめることに関しては何も言わなかったです」
「小さなクラブを経営していて、夜働いてたけど、朝ごはんは必ず用意してくれてましたね」
近所の友だちの母親が看護師で夜勤があったこともあり、夜はそれぞれの家に集まって過ごすことが多かった。
「親同士も幼なじみで仲が良かったから、『今日はこの家で遊んでなさい』って感じで、寂しさを感じた記憶はほとんどないです」
目立つことが好きな子ども
幼い頃の自分は、母に似て自由だった。
「昔から今とほとんど同じスタイルで、顔も話し方もまったく変わらないです」
友だちが多く、目立つことが好きだった。
「負けず嫌いで、なんでも1番になりたい、って気持ちが強かったかもしれません」
「お遊戯会でも、主役になりたい、って思ってました(笑)」
保育園のお遊戯会では、もっとも目立つセンターポジションでよさこいを踊った。
「男の子と女の子、1人ずつセンターに選ばれた気がします。立候補したんだと思いますね」
当時は女の子として選ばれた感覚はなく、ただ1番になりたかった。
02幼い頃からあった「FTM」の意識
守ってくれた女友だち
夏はアスレチック、冬は商業施設のゲームセンターに友だちと集まり、疲れるまで遊ぶ毎日。
「みんな仲良かったから、楽しかったですね」
小学3年生の頃から、「女の子」といわれることに嫌悪感を抱き始める。
「やんちゃな男の子から、『オトコオンナ』みたいにからかわれることもありました。そういう時は自分も言い返すし、周りの女の子たちが守ってくれたんですよ」
「当時の自分は『恵(めぐみ)』って名前だったんですけど、その名の通り人に恵まれたな、って思います」
男の子とも仲は良かったが、女の子たちと過ごす時間が長くなっていった。
初めての恋愛
中学生になると、恋愛に対する興味が湧いてくる。
「女の子を意識し始めて、初めて本気で人を好きになったのは、中学1年生の頃です」
中学1年生の夏、お祭りで出会った他校の女の子とつき合い始めた。
互いに女の子として意識したわけではなく、男女のカップルと同じように自然と交際がスタートした。
「彼女は、僕のことを男の子として見てくれていたように思います。街中も手をつないで歩いて、友だちにも彼女として紹介しました」
「当時から一人称は『僕』や『俺』だったし、『女の子が好き』って話もしてたから、周りもすんなり受け入れてくれましたね」
過去を振り返っても、「女の子が好き」という気持ちに違和感を抱いたことはなかった。
だから、ありのままの自分を隠すことなく、生きることができた。
「あまりにも僕が堂々としてるから(笑)、周りも察して、受け止めてくれたんだと思います」
FTM(トランスジェンダー男性)としての自覚
制服のセーラー服が着たくない、という気持ちから、ジャージで登校した。
「当然ですけど、生徒指導の一環で注意されたので、『着たくない』って気持ちを伝えました」
当時、学園ドラマ『3年B組金八先生』で、性同一性障害が取り上げられていた。
ドラマを見て、自分も性同一性障害なのだと感じ、教師にも訴えた。
「担任の先生は理解がなくて、『それでも制服は着なさい』って感じでしたね。でも、別の先生が働きかけてくれて、ジャージ登校を認めてもらえたんです」
その先生から、「ここは田舎だから塩山は特殊に見られるけど、都会に出れば個性として見られるから、それまでできることを頑張ることも大切だよ」という言葉をかけてもらった。
「その言葉がターニングポイントになりましたね。都会に出る選択肢があるんだって」
03抑えきれなかったエネルギー
激しかった反抗期
徐々に性別を意識し始めた中学生の頃は、反抗期真っ只中だった。
「お母さんにも先生にも反抗して、できるだけ大人と接点を持たないようにしてました」
3~4歳上の先輩と遊ぶようになり、自分もちょっと大人になったような気分だった。
ほとんど家に帰らず、友だちや彼女の家で過ごす日々。
「たまに家に帰ってお母さんに『お金ちょうだい』って言っても、当然くれないんですよ。それで反抗するみたいな、絵に描いたような反抗期でしたね(笑)」
「きっとお母さんは心配だったろうけど、行き先はある程度把握してたと思います。そんなに遊ぶところもなかったんで(苦笑)」
ジャージ登校を許してくれた先生とは現在も交流があるが、「塩山が1番大人になった」と言われるほど、当時は尖っていた。
体の変化と性別
中学3年生になってから、初潮を迎える。
「生理が来た時は、体の仕組みだからしょうがないな、って気持ちでしたね」
「ただ、反抗期でお母さんと話してなかったこともあって、言い出せなかった記憶があります」
一方で、性同一性障害(性別不合)だという自覚が芽生え始めている時期でもあった。
「パソコンで性同一性障害について調べて、治療があることもわかったんです」
「ただ、当時の釧路市には専門の病院がなくて、できないんだ・・・・・・って、ちょっと気持ちが落ちました」
自身が性同一性障害だということに対して、戸惑いや不安はなかった。
ただ、治療しようにもできない。そんな時にアドバイスをくれた先生の言葉で、都会に出るという選択肢を知る。
「東京に行けば、専門の病院があるということを知って、治療に対する気持ちが大きくなりました」
「地元にないなら、いずれ外に出よう! って気持ちが湧きましたね」
04 17歳で始めた夜の仕事
7カ月の高校生活
中学卒業後、地元の商業高校に進学したが、1年足らずで中退した。
「制服がAKB48みたいで結構かわいらしくて、思ってたものと違ってたんですよ」
中学生の頃と同じように、「制服を着たくない」と訴えた。
「でも、その高校は『絶対に制服を着ないとダメ』って学校だったんです」
「それがどうしても受け入れられなくて、7カ月くらいでやめることになりました」
中退したいと母にも話したが、引き留められることも背中を押されることもなかった。
「お母さんは何も言わなかったですね」
男性ばかりの職場
高校をやめてから、すぐにクラブで働き始める。
「いずれ、自分も夜の仕事をするだろうと思ってました。お母さんの影響は大きかったですね」
「最終的には、お母さんの店を継ぐもんだって考えてました」
ただ、最初から母の店を手伝うのではなく、まずは別の店で経験を重ねた。
最初に入ったのは、地元のメンズパブ。
「男性が働いているサパークラブで、ホストクラブよりも小規模なイメージのお店でした」
戸籍上の性別は女性で、ホルモン療法も始めていなかったが、オーナーは雇ってくれた。
男性が働いている店を選んだのは、自分は男である、という意識が強かったから。
「その頃は『おなべ』って呼ばれるのがイヤというより、おなべさんと一緒に働くのがイヤだったんだと思います」
「だから、『おなべちゃんでしょ?』とか言われても、『違います』って反抗してました。治療してないから、どう見ても女の子なんですけどね(苦笑)」
認めてくれた同僚
メンズパブの先輩や後輩は、自分を女性扱いせず、同僚として接してくれた。
「その店で、水商売の基本や男性の仕草を全部教わりました」
「まだ若いし安月給だったんで、最初の頃は先輩がごはんに連れてってくれたり、めちゃくちゃ良くしてもらいましたね」
瓶ビールのケースなどを持たなければいけない時、「これ持てるか?」と気を使ってくれる人もいた。
「良かれと思って言ってくださってたと思うんですけど、その気遣いがあの頃はイヤだったので、『そういうこと言わないでください』って、お願いしてました」
「仕事も好きで、やめたくなかったからこそ、本心を伝えたんです」
仕事が最初から順調だったわけではないが、徐々に指名してくれる顧客が増えていく。
「お母さんがお客さんを連れてきて、僕を紹介してくれましたね」
その頃には反抗期も落ちつき、母に恩返ししなければ、と感じていた。
05大切な人との別れと新天地への出発
母に見つかった病気
18歳の頃、母の体にガンが見つかった。
胃ガンが食道にまで転移し、手の施しようがない状態だった。
「お母さんを大切にしよう、って思い始めた時期だったんで、結構ショックでしたね」
「自分の精神状態がやばくなっちゃって、友だちが交代で僕やお母さんの様子を看てくれてました」
母はわずか数カ月という余命宣告も受けていたが、それまでと変わらないように見えた。
「通院での抗がん剤治療を選んで、『もう死ぬから大丈夫』とか言って、パチンコを打ってましたね(苦笑)」
「その姿を見てたら、僕も切り替えるしかないなって」
それでも諦めきれず、「札幌や東京に出たらガンの治療ができるかもしれない」と、進言したこともあった。
しかし、母は「お金もかかるし、あんたたちに負担をかけられない。こうやって楽しみながら死ねるほうがいい」と、提案を拒否。
「ただ、ひとつだけ名残惜しそうに言ってましたね。『あんたの成人式だけは見たかった』って・・・・・・」
自立という決断
母が亡くなる数日前、託された言葉がある。
「今は周りに助けてもらってるから生きられているけど、ずっとみんながいてくれるわけじゃないから、自立しなさいよ」
この言葉に気づかされた。
友だちも進学や就職で、それぞれの道を歩んでいる。自分も、いつまでも友だちの好意に甘えてはいられないのだと。
「母が亡くなったタイミングで、上京しようって決めました」
「狭い街から出たい、って気持ちがあったのも確かです。でも、それ以上に、都会に出て性同一性障害の治療をちゃんと受けたい、って気持ちが強かったんです」
「幼い頃から夢らしい夢はなかったけど、体を変えたい、って目標が当時の夢だったのかもしれません」
思い立ってからの行動は早く、19歳で上京した。
おなべバーでの挑戦
当時、おなべバーのブームが起こっていたため、上京したら自分と同じような人と働くのもありかもしれない、という気持ちもあった。
「たまたまテレビに首都圏にあるおなべバーの代表が出演していて、興味が湧いたんです」
寮も完備されていることがわかり、そこで働きたいと思った。
「そのお店が1番有名だったので、上京するならまずはそこに行こう、って決めてました」
「どうせやるんだったら、有名店の1番になりたい、って気持ちも強かったですね」
<<<後編 2025/04/02/Wed>>>
INDEX
06 家族それぞれの受け止め方
07 セクシュアリティも仕事も違う面白さ
08 戸籍変更と心のリセット
09 地元でLGBTQの理解を深めたい
10 僕が“あなた”に伝えたいこと