02 自分を支え続けてくれたサッカー
03 「女の子」と付き合っても、「レズビアン」ではない
04 海外生活で多様な価値観を知り、大学ではセクシュアリティをオープンに
05 将来への不安と、男性の体を取り戻す決意
==================(後編)========================
06 FTMであることをカミングアウトしたけれど、母に告げぬまま性別適合手術へ
07 愛するパートナーと出会い、結婚。そして母との決別
08 理想の父親像との剥離
09 息子と義両親、義弟夫婦への「カミングアウト週間」
10 家族に背中を押され、「元女子パパ」として活動を開始
06 FTMであることをカミングアウトしたけれど、母に告げぬまま性別適合手術へ
FTMであることを母へカミングアウト
サッカー引退後、いよいよ母へFTMであることをカミングアウトする。
「一人暮らしだったので、電話で『女の子が好きで、男としてこれから先生活していきたい』って話をしたんですけど・・・・・・」
「男性であるっていうのは勘違いだ、もう少し考えた方がいいんじゃないのって言われてしまったんです」
「そのあと、お母さんが心療内科を紹介してくれて、そこに行ったらどう?って言ってくれたんです。もしかしたら変わるかもしれないよって」
母は医師から「FTMではない」と言われることを期待していたようだったが、GIDの診断が下りる。
そして自分史を書くうちに、改めて男性として生きたいと望んでいることをより強く自覚するようになった。
母に告げぬまま30歳で性別適合手術を受ける
実家に帰るたびに何度か話し合いを重ねるも、母は理解を示してくれなかった。
「手術を受けて体を変えるのだけはほんとにやめてくれって、何回も言われて」
「でも30歳までに絶対に変えたいって思ってたんで、お母さんには言えないままホルモン注射開始して、タイでSRS(性別適合手術)を受けました」
理解してもらえないままだったが、一方で母自身の葛藤も感じられた。
07愛するパートナーと出会い、結婚。そして母との決別
内定取消、パートナーとの出会い
30歳でSRS(性別適合手術)を済ませたのち、戸籍も男性へ変更した。
性別にまつわるさまざまな煩わしさから解放されたが、その直後に理不尽な出来事に遭遇する。
「手術する前に幼稚園のサッカークラブに就職がほぼ決まってたんですけど、『保護者にどう説明したらいいか分からない』って言われて、内定取消に・・・・・・」
内定取消を心配してくれた知人の紹介で、カフェ併設のドックランに勤めることになった。
そこで現在のパートナーと出会う。
「知人と奥さんが一緒に来て、お店で初めてお会いしたんです」
「趣味が畑という共通点があって、畑に遊びに行ったりする中で仲良くなりました」
自分がFTMであることを知っていたらしいが、パートナーの態度は自然だった。
「凜としてて、自分自身を持ってるというか、それがすごい印象的だったんです。強さというか、素敵な方だなって感じましたね」
交際し、まもなく結婚。
パートナーに息子がいたため同時に父親になったが、不安はまったくなかった。
「結婚も子どもも絶対叶わないものだと思ってたので、すごく嬉しかったですね」
パートナーを母と兄に紹介する場で口論に発展、決別を選択
パートナーを母と兄に紹介し、結婚を報告する。
そこでSRSを受けて戸籍も変更したことも、同時に伝えた。
しかし互いの気持ちはすれ違い、大口論に発展してしまう。
「お母さんはもう落胆って感じでしたね。『どうして手術することも結婚することも、言ってくれなかったの?』って」
「兄は母の味方なので、『そんな自分勝手なことすんなよ』って言われたんで、こっちもカーッとなって言い返して、でもらちがあかなくて・・・・・・」
母や兄には「少し時間をくれ」と言われたが、パートナーや子どもの状況を考えると、ゆずることは難しい。
自分のしあわせは、自分で決めたいとも思った。
そのため折れることはできず、手紙で事実上の絶縁宣言をする。
「『自分の人生なので、自分の生きたい人生を生きます』って書いた手紙を送りました」
一度だけ母とは食事をしたが、そのときもまだ理解してくれている様子はなかった。
「とりあえず今は母親が受け入れられるまで距離を置いて、いつか理解してもらえたらいいなって思いますね」
08理想の父親像との剥離
理想の父親像に追いつけないもどかしさ
息子ができて嬉しかったが、いざ結婚してみると「親になることの難しさ」に直面することとなる。
「自分の理想としている父親像に自分自身を当てはめすぎてしまって、うまくいかなかったんですよね」
「奥さんと息子が楽しそうにしてると、疎外感を感じてしまったり・・・・・・」
父親としてこうしなければならない、こうあらねばならない。
そんな思いに囚われすぎて、自己嫌悪に陥ったこともある。
「ピシッとして、ついてこい! みたいな父親像を持ってたんですけど、自分にはそれがまったく合ってないんですよ(笑)」
当時息子は小学3年生で、ちょっと大人びたタイプの子だった。
パートナーが「ママ、あの人と結婚したいんだけどどう思う?」と聞いたところ、「ママの人生なんだから、ママの好きなようにしたらいいと思うよ」と返ってきたと聞く。
「ちょっと大人っぽくて、すごいいい子なんで、余計に自分の未熟さが際立って情けなくなって・・・・・・」
理想とする父親像と自分とのギャップに、モヤモヤは数年間続いた。
「でも、あるとき素直な気持ちを奥さんに話したら、『そのままでいいんだよ』って言ってもらったんです」
おそらく以前からパートナーは自分に伝え続けてきてくれていたはずだが、不安と葛藤の最中では耳に入ってこなかった。
しかしそのとき、ようやくスッと言葉が入ってきて、納得することができた。
息子の「父親」になるために
息子との関係は非常に良好で、仲良くなるためにたくさん一緒に遊んだ。
「空いてる時間はずっと家族と一緒に過ごしました」
「公園に行ったり、3人で遊ぶようにしてましたね。息子と2人で出かけたり、子どもとの時間をたくさん作りました」
新婚だったため、パートナーともう少し2人きりでいたい気持ちや、息子に対するやきもちのような感情を抱くこともあった。
「心の中のモヤモヤは息子に見せないようにはしてたんですけど、子どもってそういうの絶対にわかるじゃないですか」
「彼なりに感じ取ってたと思うんですけど、それもずっと受け入れてくれてたんですよね」
不甲斐なさもあったけれど、息子の強さやパートナーの優しさに支えられながら、少しずつ自分なりの「父親」になっていった。
09息子と義両親、義弟夫婦への「カミングアウト週間」
息子へのカミングアウトをきっかけに
息子へのカミングアウトの時期は、パートナーと話し合って決めていた。
「小学校6年生になったときに伝えようって決めてたんです」
しかしパートナーの両親には、FTMであることを伝えないまま結婚した。
「言えなかったのもあったし、言う必要もないかなって。もう戸籍も変えてたので、『別に言わなくてもいいよ』って奥さんにも言われてたんですけど・・・・・・」
「でも息子に言ったから、お義母さんお義父さんにも言おう! 言いたい! って気持ちになったんですよ」
息子へFTMであることをカミングアウトしたあと、義両親を訪ねる。
「お義母さんとお義父さんに話して、そのまた次の日に、奥さんの弟夫婦がたまたま遊びに来たので、義弟夫婦にも言おうってなって、カミングアウト週間みたいに全員に話しました(笑)」
カミングアウト後も変わらなかった
義弟夫婦は若いので、世代的に理解も早く、すんなりと受け止めてくれた。
そして気がかりだった義両親の反応も、想像していたものとまったく違い、温かかった。
「驚いてはいたんですけど、お義父さんには『そんなことで関係が崩れることはない』って言ってもらえたんです」
「たしかに顔が小さすぎるなとか、肌がツルツルだなと思ったとか、良いように言ってくれて(笑)」
「お義母さんは、『言わなくてもいいことを言ってくれてありがとう』って。『でも体だけが心配だから気をつけないとダメだよ』ってそれはすごいありがたかったですね」
黙っていたことを責められたり、咎められたりもしなかった。
ただ、以前から信頼関係を築く努力をし、いつ言ってもいいように準備はしてきた。
「奥さんと一緒にお義父さんの病院について行ったり、ご飯を食べに行ったり、喋って、コミュニケーションを取ってました」
「だからカミングアウトしても大丈夫だろうっていう、自信はあったんです」
10家族に背中を押され、FTMの「元女子パパ」として発信を開始
FTMの「元女子パパ」としてSNSで発信を始めたきっかけ
現在、FTMの「元女子パパ」としてInstagramやTikTokを中心に発信を行なっている。
活動を勧めてくれたのはパートナーだが、最初は乗り気にはなれなかった。
「自分のセクシュアリティを明かすことが怖かったし、別にしなくてもいいって思ってたんです」
「でも奥さんの方からずっと、『これはあなたにしかない個性だから伝えたほうがいいよ、同じようなことで困ってる子どももいるよ』って言ってもらってたんですよ」
すでに結婚もしているし、息子もいる。
なにより、自分のせいで息子が友だちにからかわれたり、変な目で見られたりしたら・・・・・・という心配もあった。
「僕はこのまま生きたいし他人にどうこう言われたくない、とも思ってたんですけど」
「それが1年前くらいかな、息子の周りの子どもたちに自分と同じように悩んでほしくないなって思い始めてきたんですよね」
活動名の「ダシ夫」は、息子が命名してくれた
SNSの発信を始める上での心配を払拭してくれたのは、他でもない息子本人だった。
「息子が『すとろべりーぷりんす』っていうグループが好きなんですけど、そのメンバーにFTMの子が1人いて」
FTMのメンバーがYouTubeでカミングアウトし、「次は君の番だよ!」と言っている。
自分よりも若い世代の勇気に、気持ちを後押しされた。
「自分は何やってるんだろう!? こんなに息子の近くにいるのに何もできてない、じゃあなんかやらなきゃ! ってやっと思い始めて」
活動開始前には、息子にも「こういう活動をやりたいと思ってるんだけど、やってもいい? 友だちに何か嫌なことを言われないか心配なんだけど・・・・・・」とあらかじめ訊いた。
すると、息子からは「自分が好きなことなら、やったほうがいいと思うよ」という達観した返事をもらった。
「小6だよな!? って驚きましたね(笑)」
活動名は息子がつけてくれたあだ名の「ダシ夫」に決めた。
「パパって呼ぶのが恥ずかしかったのかな? 僕が『出汁おいしいなあ〜』って飲んでたら『ダシ夫』って命名されました(笑)」
LGBTを社会に広めて、子どもたちが生きやすい社会に
仕事はスパイスカレー屋とLGBTQ+の講演や講習をメインに、充実した日々を過ごしている。
SNSでの発信を続けつつ、最近、化粧品メーカー「ちふれホールディングス株式会社」のLGBTQ+アドバイザーにも就任した。
「最終目標は、LGBTQの枠がなくても、一人ひとりの個性としてみんなが尊重し合えるようになること。より素敵な社会になると思ってます」
今の子どもたちが、ありのままの自分でいられる世の中になってほしい。
そのために少しでも自分が、貢献できたらいい。