02 タブー視される性
03 苦しい6年間
04 いつかは治るはず
05 憧れのアイドル
==================(後編)========================
06 恋愛
07 不穏な空気
08 雪解け
09 トランスジェンダーの就活
10 トンネルの先の光
06恋愛
恋する対象
初めて人を好きになったのは、幼稚園のとき。
同じクラスの男の子だった。
小学校6年のときに、初めてキスをした。
いじめに加担していなかった、同じクラスの男の子の部屋で、自然とそういう雰囲気になったのだ。
「相手の子も、嫌がってはいませんでした」
「それ一度きりで、友だち関係はその後も変わりませんでしたね」
「学生時代に好きになった人は、男の子ばかりでした」
20歳を越えてから、彼女を作らないと変な目で見られる、と焦りを感じ始める。
そこで、地元の若者が集まるサークルに入ることにした。
「皆でBBQをしたり、どこか遊びに行ったりする、出会いを目的としたサークルでした」
「『そういう相手いないの?』っていう、周りからのプレッシャーに耐えられなかったんですよね」
そのサークルで出会った女性と意気投合し、次第に2人きりで会う頻度が増えていった。
自分から告白をしたのは、23歳のとき。
初めて、彼女ができた。
心と体
「彼女ができて、一番うれしかったのは、行ってみたかった女性向けのアパレルショップに入れるようになったことです」
「男性は、女性の買いものに付き合わされると、『いつになったら帰るん?』って、不機嫌になるでしょ」
「でも私は、彼女と一緒にお店を回りながら、『これもいいやん!』ってキャピキャピしてて(笑)」
「彼女にとっては、めちゃくちゃ付き合いやすいパートナーだったと思います」
彼女とのデートは楽しかった。
その一方で、常にモヤモヤを感じていた。
自分の人生は、これで間違っていないのか。
そう感じることもあった。
「彼女と性的な行為をするときは、いつも抵抗がありました。相手が嫌いなわけじゃないのに」
「自分の体が、男性として反応をすることが、すごくつらかった」
「でも、相手に求められると、性欲は勝手に湧いてくる。心と体が、完全に分裂していたんです」
彼女と別れた後も、何人かの女性と付き合った。しかし、一線を越えると、やはりギクシャクしてしまう。
罪悪感ばかりが募っていった。
07不穏な空気
男として生きよう
31歳のとき、当時付き合っていた彼女と結婚することを決めた。
夫になり、子どもができて、父親になったら、今度こそ自分は男として生きていける。
そう考えた末の決断だった。
「そのときもまだ、『自分は治る』って信じてたんです」
しかし、一緒に暮らし始めてすぐに、家の中にはギクシャクとした空気が流れるようになる。
「結婚した相手は、子どもを欲しがっていました」
「でも、行為をするたびに、自分が男であることを突きつけられてしまうんです」
男として生きようと思っていたのに、それを認めたくない自分がどこかにいた。
「葛藤と嫌悪感と、相手への罪悪感とで、頭の中がぐちゃぐちゃになりました」
バブル崩壊とともに
その頃、仕事場にも不穏な空気が漂っていた。
高校を卒業してから13年、順調にキャリアを築いてきたが、バブルの崩壊とともに、現場の仕事はどんどんなくなっていった。
「職人の一部は、別の部署にまわされたんです」
「私も、経理関係の部署にまわされて、営業事務の仕事をすることになりました」
小さいときから、お金関係の計算が苦手だった。
やり甲斐を感じていた現場の仕事から、苦手な仕事へ。
それでも、しばらくは我慢して、仕事に慣れようと努力する。
「建設関係の見積りって、すごく細かいし、奥が深いんです」
「どう頑張ってもできなくて、自分には向いていないと感じました」
「最終的に、鬱になって、仕事ができなくなりました」
結婚生活の終焉と引きこもりの始まり
仕事も、結婚生活も上手くいかない。
自分が、子どもを作ることに乗り気でないことを、相手も感じ取っていた。
離婚を決めたのは、籍を入れてわずか3ヵ月後。
この先の人生に、何の希望も持てなかった。
「離婚して、一人暮らしを始めましたが、親から実家に戻ってきなさいと言われたんです」
「鬱状態にあることを知ってたから、1人にしておくのは危険だと思ったんでしょうね」
精神的にどん底まで落ち、親にはネガティブな言葉ばかり吐いた。
「どんな死に方がいいか」と、相談したこともある。
「親は、私を励まそうと、いろいろ手を尽くしてくれました」
「ドライブに連れて行ってくれたり、楽しそうなイベントを探してくれたり・・・・・・」
「インターネット回線を引いてくれたのも、私を元気づけるためでした」
08雪解け
チャットで出会った恩人
インターネットが一般家庭に普及し始めた2000年当時、チャットが流行っていた。
見知らぬ誰かと、テキストでやりとりをする。
匿名で書き込みできるチャットは、ムシャクシャした気持ちを吐き出すのにぴったりの空間だった。
「一種の荒らしですよね(苦笑)」
「人間なんてくだらないとか、死にたいとか、ネガティブな言葉を書き込みまくってたんです」
「そんな人、普通なら誰も相手にしたくありませんよね。でも、ある人が声をかけてくれたんです」
どうせ上っ面だろう。そう思い、最初は無視していた。
ところが、根気強く、何度もアプローチしてくれる。
「私も少しずつ心を開けるようになって、やりとりをするようになったんです」
「チャットで真剣に話を聞いてくださり、そのうち、電話でやりとりするようになりました」
仕事が上手くいかなかったこと。
離婚をしたこと。
夜中から明け方まで、真剣に話を聞いてくれた。
「ずいぶん年上の女性の方です」
「私が書き込んだ荒らしコメントから、SOSを感じ取ってくださったんでしょうね」
「その方がいなかったら、今の私はいない。命の恩人です」
心の内を素直に話しているうちに、ムシャクシャした気持ちは、次第に凪いでいった。
引きこもり生活を始めてから、丸2年が経っていた。
「自分は何者か、見つめ直してみよう」
ようやく、前向きな気持ちが芽生える。
本来の自分
精神的な落ち着きを取り戻した後、まずは1日数時間の仕事から始めることにした。
半日、1日、週2日、週3日・・・・・・。
少しずつ社会復帰し、35歳のときに実家を離れて1人暮らしに戻った。
「仕事がない日は、自分のこれまでの人生について、ずっと考えてました」
「できるだけ細かく、ノートに書き出していったんです」
そうして、人生をさかのぼる過程で、小学生の頃の気持ちが突如よみがえってきた。
「これが本来の自分や、って思いました」
「かわいい服を着たかったことや、女の子の持ち物に憧れていたこと・・・・・・」
「冬眠していた気持ちが、ポッと目覚めたんです」
その思いをどうしていいかわからなかったが、あるとき勇気を持って、チャットで出会った恩人に打ち明けた。
「いいやん、やってみたら。かわいい服を着たらいいやん」
その人は、ポンと背中を押してくれた。
「男性のサイズと女性のサイズを比較して、どのサイズを着ればいいか教えてもらいました」
「ドキドキしながら、ネットで、初めて女性の服を買ったんです」
「グレーのワンピースでした。ずっとワンピースを着たかったんですよ」
それをきっかけに、さまざまな服をネットで買うようになった。
外に出掛けることはしない。
鏡の前でファッションショー。
一人で楽しむだけ。
「かわいい服を着たら、やっぱり化粧をしたくなるんです。もっときれいになりたいって、欲が出てくるんですよね」
「女性としてどういうものを買えばいいか、その方に聞いて、化粧品も一式そろえました」
女装サロン
雑誌の記事を読み、見よう見まねで化粧をしても、なかなかうまくいかない。
鏡の中には、まぶたも頬も唇も濃い、ちんどん屋さんのようなメイクの自分が映っていた。
「ネットで、化粧を教えてもらえる場所を検索しました」
「そのとき初めて、女装サロンの存在を知ったんです」
きれいになりたい一心で、勇気を振り絞って、女装サロンに出掛ける。
メイクさんの手で化粧を施された顔は、自分でも驚くほどきれいだった。
「それから、女装サロンに頻繁に行くようになりました」
男性の服装で女装サロンに入り、店内で着替える。
客同士でおしゃべりするだけの時間が、心地よかった。
自分以外にも、女性の服を着たい男性がこんなにいるなんて。
もっと早く知っていれば、苦労はしなかったかもしれない。
「たくさんの人と関わりたいと思って、そのサロン以外のお店も、ネットで検索しました」
「さまざまなお店に行くようになって、最初は楽しかったんです」
「でも、知り合いが増えるにつれて、ここに集っている人たちと自分は、何かが違うと感じるようになりました」
09トランスジェンダーの就活
女装が好きなわけじゃない?
女装サロンを訪れる人の中には、単にファッションとして女装を楽しむ人もいる。
しかし、性的な欲求を満たすためのアイテムとして、女装をする人も少なくない。
「私の場合は、女装をすることで、気持ちが落ち着きました。でも、周りの人は、落ち着くどころか欲情すると言って・・・・・・」
ちょうどその頃、テレビドラマの影響もあり、性同一性障害という言葉が話題になり始めていた。
もしかしたら、自分は性同一性障害なのかもしれない。
「徹底的に調べてもらおうと思い、有名な大学病院を訪れました」
女性として生きていける
性同一性障害と診断されたのは、38歳のとき。
「女性らしい部分を治すために、男性の多い学校に通ったり、女性と付き合ったり、さまざまなアクションをしてきました」
「だから診断が出たときは、『治らなくて当然だよね』って、ホッとしたんです」
「目の前の霧が、パーッと晴れたような気がしました」
「私はこれから堂々と、女性として生きていけるんやなって」
診断が出た後、両親を病院に連れて行き、先生から性同一性障害について説明してもらった。
「私の育て方が悪かったんでしょうか」
「3歳になってもしゃべれなかったから、それも影響してるんかな」
母は、自分のせいと考え、先生にそう聞いたらしい。
性同一性障害とは何か、上手く呑み込めず、病院を出てからも上の空だった。
「その頃、私は派遣で仕事をしてました」
「仕事のときは、男性の服装。週末や夜になると、女性の服を着て、遊びに行ってたんです」
診断を受けたのは、2008年。リーマン・ショックが日本を襲った年だった。
多くの会社で派遣切りが行われ、自分もその1人だった。
「いい機会だし、女性として仕事に就きたいと思って、女性の服を着て面接を受け始めました」
「そこで、就職活動の壁に、どーんとぶつかったんですよ」
トランスジェンダーへの無理解
ホルモン治療は受け始めていたが、履歴書に、性別移行のことは書かなかった。
名前も男性名のまま。
「今からちょうど10年前くらいですね」
「その頃は、当事者が昼間の仕事をするなんて、考えたこともない人がほとんどだったんです」
「面接の担当者から、『何で夜の仕事につかないの?』って聞かれたこともありました」
企業の人たちからは、暇つぶしの遊びで就職活動をしていると思われたらしい。
面接を受けに行ったのに、「履歴書はお預かりしておきますね」と言われて、帰されたこともあった。
「就活を始めた頃は、受け入れてくれる企業がきっとあるだろう、と気楽に構えてました」
「でも、面接を受ければ受けるほど、理解のなさを実感するようになったんです」
「電車の中で、悔し涙を何度も流しましたね」
女性として働くことを、諦めたくはない。
しかし、このまま就活を続けていても、内定はもらえないだろう。
「遊びと思われる原因の一つは、名前だと考えました」
「男性の名前×女性の見た目。それが、戸惑いを与えるんじゃないかって」
「それなら、女性名で就活しようと思ったんです。現状を説明して、改名の意志を親に伝えました」
親がつけてくれた名前が好きだった。
だから、名前を変える選択をするのは、正直悔しかった。
改名した今でも、親や古くからの友人には、昔の名前で呼んでもらっている。
「門前払いを食らっても、諦めずに就活を続ける姿を見て、親は心を動かされたみたいです」
「あの期間を経て、親とは、前以上にいい関係を築けるようになりました」
10トンネルの先の光
「らしさ」という曖昧なもの
人生を振り返ると、自分は「男らしさ」「女らしさ」にとらわれてきたと感じる。
「私は、性同一性障害と診断されるまで、女らしさをできる限りなくそうと努力してきました」
「診断を受けた後は、男らしい部分を見せないようにしようって、気を張ってきたんです」
「でも、そうすることで、自分で自分の首を絞めてたんだなって、今はわかります」
男らしさと女らしさが混在していていい。
そう思えるようになったのは、SNSのライブ配信がきっかけだった。
「昔から、低くて男っぽい自分の声が、嫌で仕方なかったんです」
「でも、地声でライブ配信をしていたときに、視聴者の方から『すごく心地いい』『声が好き』ってコメントをいただいたんです」
周りからそういった言葉をかけてもらい、「らしさ」にこだわっていたのは自分だったと、ようやく気づく。
女性でも、男っぽい服が好きな人、男っぽい趣味を持っている人がいる。
それと同じ。
この声が、自分の男っぽい部分なんだと思えるようになった。
「以前、知り合いから、『ボイトレしないの?』って聞かれたことがあります」
「『なんでボイトレせなあかんの』『この声が大好きなのに』って、胸張って言いましたよ」
「自分らしい人生」をサポートする活動
現在、仕事の傍ら、「Life hospitality management service」の代表として活動している。
LGBTの当事者をはじめ、学生から社会人まで、悩みを抱える人すべてを対象とした、支援サービスだ。
「活動を始めるまで、自分がトランスジェンダーだと明かすことで、味方が誰もいなくなるんじゃないかって、おびえてました」
「でも、オープンにしたことで、応援してくださる方がたくさんいるとわかったんです」
「人の優しさに触れたから、その温かさをほかの誰かにシェアしたい。活動を通して、自分らしい人生を歩みたいと願う方のアシストを、続けていきたいと思っています」
ここ2〜3年で、LGBTの認知度は上がってきた。
しかし、当事者の一人として、社会の理解が追い付いていないと感じる場面は多々ある。
「理解を促すためにも、自分の生活圏で、さまざまな方や団体と、積極的に関わるようにしています」
「私たちは、セクシュアルマイノリティと呼ばれることもあるけど、決して珍しい存在ではありません」
「皆の生活圏の中に、私みたいな人が当たり前にいてますよ、っていうことを、知ってほしいんです」
あなたに頼ってほしい
49年間の人生で、今が一番楽しい。
「30代半ばまでは、1日1日がつらくて、死にたいって思ってたんです」
「それが今は、死んでたまるか、って思ってる。元気な姿で活動しとるのが、親はめちゃくちゃ嬉しいみたいです」
「頑張りすぎる性格だから、『もうやめときや』って、ブレーキかけられることもありますけど(笑)」
セクシュアリティに関する理解が広がっても、「死にたいほどつらい」という若い世代の声は、減らないかもしれない。
誰にも相談できず、自分はダメだという思いが渦巻き、一歩も動けなくなっている人もいるだろう。
「私は、チャットで出会った女性に救われました。彼女がいたから、暗いトンネルから抜け出すことができたんです」
身内や友だちじゃなくても、甘えていいし、頼ってもいい。
「今度は私が、頼られる側になりたいと思って、活動を続けています」
女性名である「あおい」は、恩人がかつてチャットで使っていたハンドルネームだ。
その名前を書くたびに、私も誰かの光になろうと、胸の中でそっと誓う。