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Writer/shu

「パートナーをつくる」ことを考えてみたークワロマンティックのわたしの場合

わたしはこれまで「誰かを異性として見る・見られるがわからない」「誰かと付き合う自分の姿が想像できない」というように、世の中にある恋愛の “ふつう” に対して、クワロマンティックとしての違和感や、ピンとこないことを綴ってきました。それでも最近、「もしパートナーをつくるとしたら、どんなおもいが出てくるかな」と考えるようになりました。依然として付き合うという想像は難しいし「好き」の正体もよくわかりませんが、今のわたしのまんまで、考えてみたいと思いました。

誰かと付き合う自分が想像できないまま、考え始めた理由

恋愛関係に限らず、人生を共に歩むという意味での「パートナーをつくる」としたら、自分はどんな気持ちになるのだろう。「人生を共に歩む」という表現もまた、いわゆる伴侶の意味合いもあれば、もっと広い意味で伴走し続けるような信頼関係もありそうですが・・・・・・。「他者に抱く好意的な感情が、恋愛感情か否かを区別できない(区別したくない)」という恋愛的指向・クワロマンティックのわたしが、自分の内側に向き合ってみた記録です。

違う世界にいる感覚がなくなってきた

わたしはこの1年ほどで、特に人間関係を築いていくときに、自分の心の声を聴いてあげる重要性や感情をもっと感じることの大切さを痛感しました。そのおかげで、だんだんと気持ちに変化が生まれてきました。

以前なら、付き合っているパートナーとの関係について話をする場にいると、共感できなくて申し訳ないという感情や、どう居たらいいかわからなくてムズムズするといった身体感覚、わたしとその人とでは生きる世界が違うのかも、といったおもいがありました。

しかし現在は、わからないならわからないって言えばいいか〜と思ったり、ムズムズさも減ってきたり、違う世界にいるという感覚もなくなってきました。

それに「こんな自分だけどこの場にいさせてね」「いてもいいよね」「いてもわたしは大丈夫だ」と思えるようにもなってきました。

そんなふうに、楽に生きられる時間が増えたなかで心に湧いてきたのが「クワロマンティックだからパートナーはつくれない、つくっちゃいけないわけじゃない」という考えです。

「もしパートナーをつくるとしたら」を考えても、おもいが出てこない

冒頭で話した「もしパートナーをつくるとしたらどんなおもいが出てくるかな」という話に戻ります。

おもい、おもい、おもい・・・・・・出てこない。
人生で初めて向き合うことなので、なかなか出てきません。

こうなると、もう思考優先になってきます。一度、得意な思考優先で浮かんできたことを並べてみたいと思います。

・そもそもパートナーってなんで必要なんだろう
・なんでみんなパートナーがほしいと思うんだろう
・そもそもわたしにとって、パートナーという言葉が曖昧すぎる
・クワロマンティックのままで、パートナーをつくるのは難しいんじゃないか
・今までパートナーがいなくても成立してきたよな
・でもこのまま一生いらないと言い切るのは違う気がする

こんなふうに、どうしても深く考えることが先行してしまうのが、わたしなんです。

クワロマンティックのわたしが、パートナーがほしいと思えなかった理由

クワロマンティックであるわたしは、パートナーに何を求めるのか。そして、パートナーとどんな関係を築きたいのか。それを考えるには、これまでわたしの心にうずたかく積もった、2つの恐れを打ち破る必要があるかもしれません。

不誠実なままでは、パートナーはつくれないと思ってきた

 

まず出てくるのは、相手に対する不誠実さへの恐れです。

パートナーをつくるとしたら、クワロマンティックであること「恋愛感情と友情を区別したくない」ということを説明しないといけないのではないか。
そんなわたしの好意的な感情は、理解されないかもしれない。

もしもそれが怖いとしたら、言わないという選択もあるのかもしれませんが、黙っているのは相手に対して悪いと思うんです。それがわたしのなかでは不誠実だと思っています。

もう一つ浮かぶのは、重い責任を背負う覚悟への恐れです。

パートナーは、お互いにとって人生に深く関わる存在なんじゃないかと思います。相手の人生により積極的につながることなのでしょう。そして、人生に深く関わるのであれば、常に先のことを考えていく責任があるだろうと思うわけです。

それって、めちゃくちゃ覚悟が必要じゃないですか?
それぞれ、家族へもパートナーの存在を言う必要もありそうだし・・・・・・

もしも覚悟がもてないんだとしたら、どこかで終わりがあるっていう前提になってしまう。それってよくないよね、という気持ちになります。

そしてその覚悟をまだわたしはもてない、と思いました。

自分の甘えを自覚したうえで、パートナーの条件を考えてみた

2つの大きな恐れを抱えているわたしですが、それでも「もしパートナーをつくるとしたら」という問いには向き合いたいと思っています。

パートナーをつくることを考えるにあたって、パートナーがいる人の話から読み取った気づきを出してみました。

・必ずしも人間としてできている必要はない
・不格好でも不完全でもいい
・むしろ不完全だから寄り添って生きていく

といったものです。

わたしは、自分の内面で100点に近い部分や合格点をあげられる部分については、他人に出して交流してきましたが、赤点の部分は他人に出せなかったですし、出してはいけないと思ってきました。

前者の部分も「こんな自分です」って自信があって表現するのではなく、どこかビビりながら表現していたんだなと思います。

最近わたしは「受け入れてほしい」という欲求の芽が自分にあることにも気づきました。

ダメな自分、弱い自分、失敗する自分、こだわりがあって主張が強い自分の姿も見せていきたいと思っているということ。そんな自分を受け入れてくれる人がいないだろうかと探す、甘えている自分がいました。

そして、自分のエゴ的な部分を含めてどんなパートナーがほしいのかを挙げてみると

・不完全同士だからこそ、対話ができる
・ブレない軸をもっている
・それぞれが自分に静かに向き合うための一人時間を大事にできる
・会う頻度は週1回でもいいから、関係性について振り返りができる

といったことが浮かんできました。

「感じる」を大事にできたら、パートナーをもつことへのおもいが変わるかもしれない

わたしの記事を読んでくださっているみなさんは感じているかもしれませんが、わたしってかなり「理性>感情」つまり、理性優位だと思っています。

「考える」よりも「感じる」を大切にしたい

感情を出すこと、特に強い感情は、相手に迷惑をかける可能性がある。
イライラや怒りはもちろん、たとえ楽しい感情だったとしても、それを受け取る相手のことを考えてしまいます。

相手を受け入れること、人に受け入れられやすそうなこと、人として正しそうなことを前提とする思考から、本音を思いっきり出せていない。無意識のうちに感情を出すことを抑え、さらには感情を感じることすら抑えてきてしまったんです。

今思えば、そのせいで、疲れることも多かったかもしれません。「理性>感情」で生きてきたことで、面倒くさい人間関係や軋轢から自分を守ってきた一方で、人と本気でぶつかることで得られるはずのわかりあいを、あまり経験してこなかったかもしれません。

わたしは何を感じていたいのか、に向き合いたい

そんな「理性>感情」になりやすいわたしは、最近、理性を否定するのではなく「感情」にもちゃんと目を向けるようにしているんです。

もっと感情に素直になって、もう少しわがままになってもいいんじゃないかって。感じてダメな感情なんかないから。だから、出てきた感情を評価せずに静かに見つめてみる。理性的なわたしにできることは、まずそこからかな、なんて思っています。

そうやって素直に感情に意識を向けられるようになったとき「もしパートナーをつくるとしたら」という問いに対しても「どんな感情を日々味わいながら生きていきたいか」という視点に立つことができるんじゃないか、と思っています。

ここまで、クワロマンティックなわたしにとって「人生を共に歩むパートナーをつくる」ということを考えてきました。

条件のようなものはいくつか出てきましたが、それ以上に、なぜこれまで考えられなかったのかを深めていく過程で、理性が強く働きすぎていたことや「感じること」を後回しにしてきた自分のあり方にまでたどり着きました。それらのことがすべて整っていなくても、パートナーをつくっていいのかもしれませんが、向き合わなくていいってことにはならない、とも思っています。

まだまだ、「人生を共に歩むパートナー」の想像は難しいですが、難しいままでも生きていこうと思います。

 

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