02 居心地がよかった家族の存在
03 仲間に歩み寄れない自分
04 徐々に意識していったゲイであること
05 初めての交際と初めての入院
==================(後編)========================
06 自分自身の性質を伝える意味
07 初めて打ち明けた男性への好意
08 決意のカミングアウト
09 人との交わりの中で抱いた目標
10 ようやく歩き始めた自分の道
01自分を変えてくれた今の環境
自分に合う仕事を模索した日々
「統合失調症」と診断されたのは、大学4年の時。
治療をしながら2008年に大学を卒業し、その後京都で就職した。
病気が原因かはわからないが、突然仕事に行きたくなくなる時があった。
アルバイトを含めて、7年で7つの仕事を転々とした。
「それではダメだから立て直そう、と思って、2015年に実家に戻ったんです」
三重に戻ってからは、就労移行支援事業所に入り、1年ほどの時が過ぎた。
「だんだん、働きたくて仕方なくなっちゃったんです」
「就労相談支援員の方に『働きたい』って話して、今の職場に勤めることになりました」
現在は、時給が発生する障がい者就労継続支援A型事業所に勤めている。
仕事内容は、粗品のタオルの梱包や地元の名産・佃煮を入れる化粧箱の組み立てなど。
「勤める前に見学と体験をさせてもらったんですけど、自分に合っていると思ったんです」
丁寧に仕事を進めることが好きだったため、業務を楽しめている。
事業所のスタッフも一緒に働く仲間も、好きな人ばかり。
無理なく働ける環境に、長く勤められそうだ、と感じている。
人とぶつかり合うボクシング
現在の職場では、定期的に「午後の活動」の時間が設けられている。
ある日、元プロボクサーだったスタッフとミット打ちを経験する機会があった。
「すごく楽しかったんですけど、午後の活動は1時間で終わってしまうんです」
「もっとボクシングがしたかったです」
数日後、プロボクサーの男性に「通っているジムを教えてもらえませんか」と相談し、紹介してもらうことができた。
2017年6月末、体験のため、紹介してもらったボクシングジムを訪ねた。
その日は、ジムの会長と一人の女性会員しかいなかった。
「会長には病気のことを話していて、『あの女性も大丈夫だから、話してみな』って言われたんです」
「病気のことは隠したかったけど、会長を信じて話してみました」
その女性はシングルマザーで、「産後うつで、私も薬を飲んでいる」と話してくれた。
「その出会いがあって、このジムに決めよう、ってより強く思ったんです」
ボクシングを始めてから、体が締まっただけでなく、気持ちの変化もあった。
「ボクシングで物理的に人とぶつかったことで、人とのつき合い方が変わった気がします」
小さい頃からずっと、友だちや先輩ともっと仲良くなりたかった。
しかし、病気やセクシュアリティを気にして、一歩踏み出せない自分がいた。
「いまさらかもしれないけど、やっと人との距離の取り方がわかってきたというか」
そんな今だからこそ、過去の自分を振り返ってみようと思った。
02居心地がよかった家族の存在
そっくりだった弟と自分
父と母、双子の弟の四人家族で育った。
自分と双子の弟は、予定日より2カ月早く、1300g程度で産まれた。
未熟児だったため、産後すぐ保育器に入っていたと、母から聞いた。
「幼い頃は食事に気を使ったって、聞いています」
自分と弟は、二卵性の双子。
しかし、小さい頃の写真を見ると、自分でも判別できないほど似ている。
「親は服の色で判別していたみたいです。黄色系が弟で、青系が僕」
「昔は、いつも2人で遊んでいましたね。中学まで学校も一緒で、幼なじみも一緒」
「別々の高校に進んでからは、違う道を歩んでいます」
行動的な母と無趣味の父
母は昔から働き者で、パートと並行して、大正琴の講師も務めていた。
趣味も多い人だった。
「公民会の講座に通って、陶芸、絵手紙、切り絵、手品とか、いろいろ挑戦していました」
「僕がいろんなものに興味を持つようになったのは、母親の影響かもしれないです」
60代後半に入った今も、女性専用の体操教室に通っている。
「とにかくアクティブな人です」
「逆に父親は、趣味らしい趣味がない人なんですよね」
昔から、父の好きなものもよくわからなかった。
しかし、尊敬している部分もある。
「一つの会社を、定年まで勤めあげたところはすごいなぁ、って思います」
「あと、物を大事にするところ。インクが残っているのに出なくなったボールペンを、どうにか出そうとするんですよ」
「僕に、父親の真似はできないですね」
習い事に追われた小学生時代
両親は「やりたい」と言ったことを、何でもやらせてくれた。
そのため、小学生の頃は、書道、そろばん、合唱、ピアノと4つの習い事に通っていた。
「すべて僕が『やりたい』って言ったことでした」
「だから、遊ぶ暇はなかったですね(苦笑)」
中学でバレーボール部に入ることを決め、すべて辞めてしまった。
しかし、幼い頃に習っていたからか、それぞれのベースはできた。
「そろばんで暗算ができるようになったし、書道で字も丁寧に書くことを学びました」
「今思えば、当時はそこまで楽しんでいたわけじゃなかったけど、書道は今になってまたやりたいと思うんです」
03仲間に歩み寄れない自分
仲間と打ち解けるための秘策
学校では、勉強はできるが、目立たない大人しい生徒だった。
仲のいい友だちはいたが、放課後に遊ぶということはなかった。
中学ではバレーボール部に入った。
「『部活命!』とか言ってたんですけど、そこまでうまくなくて、3年の時には引退試合に出られなかったです」
それでも毎日部活に出て、真面目に練習していた。
しかし、仲間と打ち解けられていないと感じていた。
「一緒に帰る友だちはいたけど、腹を割ってしゃべっていない感じがしたんです」
「弟は、仲間同士で釣りに行ったりしていたんですよ」
「そんな弟がすごく羨ましくて・・・・・・」
部活の仲間と、さらに仲良くなれる方法を考えた。
性に対して多感で、会話の中で下ネタが出てくることも多い年頃。
「一緒にアダルトビデオを見れば、きずなが深まるかもしれない、って思ったんです(笑)」
「でも、当時の僕は下ネタが出てくると、恥ずかしくて顔が真っ赤になるような子だったんです」
「だから、実行できるわけがなくて、断念しました(笑)」
精神疾患と診断された高校時代
自ら人に近寄れない自分を、変えたいと思っていた。
しかし、変える方法がわからなかった。
「みんなが盛り上がっている輪に入りたかったです」
「でも、僕には会話の引き出しがなかったから、入ったところで話に乗れないと思っていました」
「強がって『1人の方が気楽だから』とか言って、静かな隅っこに留まっているばかり」
「そういう自分が嫌で嫌で、変わりたいってずっと思っていました」
高校に進んでも、性格を変える術は見つからなかった。
その性格のせいかわからないが、高校2年の中盤に、精神的に不安定になってしまった。
「授業中にケラケラ笑い出したり、急に泣いたりするようになってしまったんです」
「周りの笑い声を聞くと、全部自分が笑われていると不安に感じるようにもなりました」
心療内科を受診すると、うつ病と診断された。
「修学旅行に行く直前だったんですけど、薬を出してもらって、なんとか行けました」
「でも、その薬が強くて、副作用でずっと眠くて、修学旅行のことはあんまり覚えていないんです」
04徐々に意識していったゲイであること
幼少期の恋の対象は女子
自分がゲイであることを認識したのは、大学に入ってからだったが、幼少期から気配はあった。
小学3年生の時、担任だった男性教師に憧れに近い感情を抱いていた。
「先生は体を鍛えていたんですけど、夏場の水泳の時に筋肉を見て、先生すごい、って思ったんです(笑)」
「それが男性を意識した、最初のエピソードとして脳内に刻まれています」
「でも当時は、自分も先生みたいになりたい、って憧れていた感じです」
担任教師に恋心を抱く、ということではなかった。
むしろ、当時は同じクラスに好きな女子がいた。
「その女の子が女友だちに『〇〇君が好き』って話しているのを、聞いてしまったんです」
「その子が好きな男の子は、スポーツマンタイプで背も高い子でした」
「その時は、男の子に対して嫉妬していましたね」
男性教師のようになりたかったが、男性が好意の対象になることはなかった。
“ゲイ” というカテゴリー
中学でバレーボール部に入ってから、男子の先輩を見て、「かっこいい」と思うことがあった。
「ドキドキしたんです。でも、その時は、先輩相手に緊張しているからだと思っていました」
「今考えると恋に近かった気もするけど、自分では気づいていなかったんですよね」
高校に進んでからも、好きな女子はいた。
同時に、同級生や先輩の男子に対して「あの子、かっこいいな」と思うことも多かった。
「高2で同じクラスだった男の子のことは、ちょっと好きでした」
うつ病を発症し、情緒不安定だった頃、その男子は「最初から全力でやったらもたないよ」と、やさしい言葉をかけてくれた。
「ゲイとかセクシュアルマイノリティって言葉は、まったく知らなかったです」
「でも、僕は女の子より男の子の方が好きなんだな、って感じ始めました」
しかし、その気持ちを相手の男子には伝えなかった。
島根大学への進学を決め、地元を離れる時、親がパソコンを買ってくれた。
1人暮らしの部屋で、「男同士 恋愛 セックス」と検索したのはこの頃だ。
「この時にゲイって言葉を知ったんです」
「僕はゲイなんだなって、認識しました」
05初めての交際と初めての入院
変化を願った女性との交際
ゲイであることを自認したものの、人には言えなかった。
「自分だけの秘密として、墓場まで持っていこうと思っていました」
大学では吹奏楽部に入り、4年の時、後輩の女性にかわいらしさを感じた。
「目立たない感じの子だったけど、パーカッションを担当していて、健気に頑張る姿にグッときたんです」
「本当に好きだと思ったし、彼女とつき合えたらストレートに変われるって思いました」
4年の卒業を祝って行われる追い出しコンパで、彼女に告白した。
「その時は、感情が高ぶっていて、躁気味だったんだと思います」
「吹奏楽部みんなの前で、花束を持って『実は好きです』って告白したんですよ」
彼女とつき合うことになった。
デートもした。
しかし、体の関係を持つことはできなかった。
「女の子のことをかわいいとは思っても、性的な興味はないことを実感しました」
「当時は就活やアルバイトで忙しかったこともあって、なかなか会う時間も取れなかったんです」
彼女に、別れを切り出された。
彼女には淋しい思いをさせてしまったと、今振り返る。
逃げたい気持ちとやり直したい気持ち
吹奏楽部の全員が知っている交際だった。
別れたと知られることが、恥ずかしかった。
「部活の仲間に会いたくなくて、家に引きこもりました」
「夏休みを挟んで、後期から学校に行き始めたんですけど、ストレスで躁状態になってしまったんですよ」
統合失調症と診断され、島根の病院に入院することが決まった。
その病院で処方される薬は強いものが多く、身体的に疲弊していった。
「入院から2カ月ほど経って、父が『退院させてやってください』って迎えに来てくれました」
住んでいたアパートを引き払い、父の運転する車で島根から三重まで帰った。
途中の岡山で、ラーメンを食べた。
「薬の影響でほとんど咀嚼ができなくて、ラーメンもすすれないんですよ」
「その時のことは、鮮明に覚えています」
三重に戻ってから、四日市市の病院に通い始めた。
その病院の医師は、薬を処方するだけでなく、しっかりと向き合ってくれた。
1年ちょっとの間、自宅療養の期間を設け、症状を抑えていった。
入院から1年半ほどが経った2007年4月、大学4年を再びスタートさせた。
「卒業するためには、あと卒論を仕上げるだけだったので、論文の研究に集中しました」
卒論を終え、無事に卒業。
IT企業への就職が決まり、京都での一人暮らしが始まる。
独り立ちを止めなかった両親
自宅療養中、両親は静かに見守ってくれていた。
「『いつまでも寝てるな』みたいなことは、一度も言われたことがありません」
「だから、家にいづらいってことはなかったです」
「普通に接してくれたことが、本当にありがたかったですね」
復学のため、再び島根で1人暮らしを始める時も、両親は止めなかった。
「その時も父が島根までついてきてくれて、一緒にアパートを探したんです」
「後で知ったんですけど、大学進学の時も両親は心配していたそうです」
うつ病を抱えた息子を1人にすることに、不安を感じないわけがなかっただろう。
しかし、「進学のために1人暮らししたい」という息子を、両親は止めなかった。
「もし僕が親だったら、近くに置いておくと思います」
「でも、そこで外に出してくれたことには、感謝しかないです」
両親が、1人になる勇気をくれたのだと知った。
<<<後編 2017/12/01/金>>>
INDEX
06 自分自身の性質を伝える意味
07 初めて打ち明けた男性への好意
08 決意のカミングアウト
09 人との交わりの中で抱いた目標
10 ようやく歩き始めた自分の道