02 小学3年生で、平仮名から
03 理由のわからないいじめ
04 ありのままでいられた特別支援学校
05 病弱でも強い母
==================(後編)========================
06 高校でのカミングアウトとアウティング
07 大学でのLGBT講義で「衝撃」
08 大好きな母との別れ
09 FTMまでの「回り道」
10 LGBTインカレサークル共同代表として
01日本と中国を行き来した幼少期
中国ルーツの一家
4人家族の妹として、京都で生まれた。中国と日本にルーツのある母、中国人の父、6歳上の姉がいる。
「おばあちゃんが、戦争で日本に帰って来られなかった『中国残留孤児』なんです。そのおばあちゃんと中国人のおじいちゃんの間に生まれたのがお母さん」
日本で生まれたあと、すぐに中国へ渡った。4、5歳の頃に日本に戻って保育園にも通ったが、小学校入学後すぐにまた中国へ戻ることに。
小学校3年生の頃に、再び日本に帰ってきた。それからは日本で暮らしている。
「日本は4月から新学期が始まりますけど、中国は9月始まりなんです。中国から日本に戻ってきたら、小学校2年生の後期がまるまるすっ飛ばされて3年生になりました」
日本と中国を行き来していた理由
日本と中国を往来していた頃が幼少期だったこともあり、その理由ははっきりとは知らない。でも、いくつか思い当たる節はある。
母が20代の頃、残留孤児だった祖母をはじめとした親戚一同が中国から日本にやって来て、国籍も日本に変えた。自分自身も日本国籍だ。
でも、実際はみんな、馴染み深い中国の方が好きだ。中国に住んでいれば言語の「壁」もない。
それでも、日本と中国を行き来して、最終的に日本に住むことになった大きな理由は、金銭面と、母の病気だろうと思う。
「私が物心ついた頃には、お母さんはもう病気だった、っていう記憶があります。糖尿病やガンを患ってました」
病気を抱えながら中国で生活することが難しいため、そして高度な医療を日本で受けるため、幼い私たちを連れて日本に住むことにしたのだろう。
02小学3年生で、平仮名から
「周りと違うからいじめられるんや・・・」
日本で小学校に進学した1年生のときは、周りからいじめられていた。
「そのときは日本語が話せなかったんです。それでからかわれたりとか、物を捨てられたりとかしました」
「『日本人、怖い』って、思ってました」
それでも、いじめられる理由は自分のせいだと考えていた。
「『自分が周りと違うからいじめられるんや』と思ってました」
周りとの違いをなくそう、なるべく日本社会に溶け込もうと思い、子どもなりに努力した。
「お母さんは中国語のほうができるのに、私は家の中でも日本語をしゃべるようにしてました。『お母さんが日本語覚えてよ!』って言ってました」
「当時は、親戚の人が中国語をしゃべってると、周りの人に見られたらどうしよう、自分が『あの子も中国人や』と思われてたらどうしようって、嫌だったのを覚えてますね」
平仮名から勉強
小学3年生で日本に再び戻って来たときには、住まいは以前と同じ場所だったが、小1で通っていた小学校とは違う学校を選んだ。
「小3から通ってた学校は、中国ルーツの児童や保護者に対して熱心な対応をしていて、親戚の子もいたので安心感があったんです。それで、ちょっと遠いかもしれないけどそっちに行こうかって」
「日本語で書かれたプリントを中国語に訳したものを配ってくれるような、親切な学校でしたね」
小3時点では日本語がほとんどわからない状態だったが、個別に平仮名から指導してもらったおかげで、日本語がみるみる上達。小学校4年生からは、みんなと同じ通常の授業を受けられるようになった。
いじめはなくても・・・
小3から通った小学校には、中国にルーツを持つ児童が珍しくない環境だったため、「周りと違うから」「中国人だから」という理由でいじめられることはなかった。
「私も含めて、中国ルーツを持つ人がクラスに6、7人くらい、いたと思います」
それでも、そのときもなお、自分が中国人だということに引け目を感じていた。
「クラスのほかの中国ルーツの子たちは、実際は生まれも育ちも日本なんですよね。だから私が小3で転入したときは、自分はそんな子たちとも違うんだってすごく感じてました」
「私だけ日本語を話せない、家庭の文化も全然違う、食べてるものも違う・・・・・・」
メディアでの中国の容赦ない取り扱い方も、自分が中国人であることが嫌な理由の一つだった。
「当時は、テレビでも中国のバッシングがすごかったんですよ。『偽物』のこととか、馬鹿にするような感じで報道されてて・・・・・・」
「中国ルーツってことにすごくコンプレックスがありました」
03理由のわからないいじめ
「理由」もわからず始まった、理不尽ないじめ
小3から通った小学校での生活で自信がついたので、中学は自分の住む学区の中学に通うことにする。
「友だちもきっとできるだろうって自信があって、地元の中学に決めたんですけど・・・・・・」
入学してからすぐ、中学1年生の5月からいじめが始まった。
「テレビを見てるときに、私がぼーっと口開けてたんです。それが『きっかけ』なのかもわかんないですけど、からかわれて笑いが起きて・・・・・・それからずっといじめられました」
中学のいじめは、中国ルーツであることが直接的な「原因」ではないと思っている。それだけに、いじめられた「理由」は思いあたらない。
「今でも、なんであのときいじめられたのか、訳わかんないなって思います」
何をしてもからかわれ、周りは助けてくれない
自分が何をしていても、していなくても、誰かから何かひどいことを言われ、嫌がらせをされるいじめが続いた。
「頭に破いた紙を乗せられたことが一番きつかったです」
「先生も『もう、やめ、やめ~』って、その子たちに軽く注意するだけだったんですよ。先生、そんな感じなんやって、結構ショックでした」
先生だけでなく、誰も自分のことを助けてくれないと感じていた。
「私がからかわれてるときに、ほかのクラスメイトも気づいてるのに、誰も何も注意しない。友だちも含めて傍観してるだけでした」
学校に通いたくない自分を受け止めてくれた母
学校に通うのはつらかったが、母に心配をかけたくない一心で、最初のうちはいじめのことを打ち明けなかった。
所属していた吹奏楽部は、つらい学生生活の息抜きになっていたが、それもやがて居心地悪い場所に変わっていった。
「先輩の一部からも、なぜか途中から目を付けられて・・・・・・それも限界だなと思ってました」
仲のよい友人の支えもあった。
いじめられているクラスの中ではつらかったが、ほかのクラスの子は普通に接してくれた。それらを支えに何とか学校に通い続けた。
それでも、中1の1月頃、とうとう限界が来た。
「その頃、仲のよかった友だちともケンカしてしまって。それで、もう無理や、通えへんってなって」
学校に行きたくない気持ちを抑えられなくなり、母にいじめのことを打ち明ける。
「お母さんは、『つらいなら、通わんくていいよ』って言ってくれて」
それから、中学校に行かなくなった。
04ありのままでいられた特別支援学校
うつ・引きこもり状態からの立ち直り
中1で不登校になってから、半年ほど家に引きこもった。
「四六時中パソコンと向かい合って、ドラマやアニメを観てました。あのときは、うつ状態だったと思います・・・・・・」
「そのときは、人がすごく怖かったです。誰にも見られてないってわかってても、外に出たら、誰かに見られてるかもしれへんって思ってしまって」
ただ、勉強もせずにずっと家に引きこもり続けているわけにもいかないと、自分も母も思っていた。
そこで、姉も通っていた特別支援学校に通うことにする。
地域の特別支援学校には、「肢体不自由」「知的障がい」「病弱」と大きく3つの種類があり、そのなかで不登校や拒食症などの子どもも通う学校に決まった。
「特別支援学校に通い始めたのが、中学2年生の後期くらいですね」
バイセクシュアルの友人との出会い
特別支援学校では、少人数教育で先生に手厚く指導してもらい、遅れていた勉強も取り戻すことができた。
何より、気持ちの変化が大きかった。
「みんなが、ありのままの自分を受け入れてくれたんです。『中国語話せるんや、すごいね』って初めて言われました」
バイセクシュアルを自認する友人とも出会った。
「その子から『私は、男性も女性も好きになる』って聞いて、男性も女性も好きになっていいんや、っていうことを初めて知ったんです」
バイセクシュアルの友人がきっかけで、当時自分が別の女の子に抱いていた気持ちが、恋愛感情だということに気付いた。
そのままの自分を知ってほしい、恋愛感情として好きだということを相手に伝えたくなり、その女の子に告白した。
「『好きやねん、付き合おう』って直接言いました。でも『友だちでいよう』って、やんわり断られましたね(笑)」
「でも、告白後も仲の良い友だちとしてずっと接してくれてたので、有難かったです」
先生にもカミングアウト
女の子に告白したあと、特別支援学校の先生にも、女の子が好きだとカミングアウトしてみた。
「同性を好きだということは、誰にも言ってはいけないって思ってました」
「『女の子が好きだって先生に言ったら、先生はどう思うんやろ』って、先生の反応をたしかかめるつもりで言ったんだと思います」
特別支援学校の先生から、女の子への恋心を否定されることはなかった。
「『そうなんやね』って自然に受け入れてくれました」
05病弱でも強い母
病気でも、お金がなくても、弱みを見せない母
5歳のとき、両親が離婚し、母、姉、自分の3人家族になった。
母は病気で働けないため、生活保護を受けながら生活することに。
「お母さんは、家事はすごく頑張ってくれたんですけど、外に出ることや歩くのがしんどかったみたいです」
「その分、お買い物は6歳年上のお姉ちゃんがしてくれました。保護者参観とかのイベントもお姉ちゃんが来てくれてました」
母は、まだ小さかった自分には病気のことについて詳しく話さなかった。
「姉には病気について話してたみたいなんですけど、まだ私が小さかったので気を遣ってたみたいです」
生活保護を受けていると思われるのも嫌
お金で困ったという記憶はあまりない。
「子どもたちにあまり嫌な思いはさせんようにって、お母さんが日々節約してくれてたんだと思います。私が知らないだけで、実はお母さん自身はすごく苦しんでたかもしれないですけど」
母は長らく病気で、自分たちのことだけで精いっぱいなはず。それなのに、お金に困っている親戚がいたら金銭面的に支援するほど、周りを気遣う優しい人だった。
「子どもながらに、親戚の人にお金渡して、ウチら大丈夫なん? とは思ってましたけど」
一方、周りから「違う人」だという目で見られて恐怖を覚えることは続いていた。
「生活保護を受けてるから、病院に行ってもお金は払わなくてよかったんですけど、それも嫌だったんですよ。みんなはお金払うのに、自分だけ払わんで帰ってええんや、って・・・・・・」
よくわからなくても、愛している
母に、自分のセクシュアリティをカミングアウトしたのは、高校生のときだった。
女の子が好きなXジェンダーだと自認していた頃だ。
「お母さんのことを信頼してたので、自分のことを全部知っててほしいって思ってました。自分を隠したくなかったんです」
母は、当時テレビに頻繁に出演していた、いわゆる「オネエ」タレントを見ては、否定的なことを口にしていた。
だから、最初は否定されることがあっても、最終的には受け入れてくれるだろうと、母を信じていた。
カミングアウトを決意したあと、母と散歩しているタイミングで打ち明けた。
母は、必ずしもセクシュアリティを理解しているわけではなかったが、自分を受け入れてくれた。
「お母さんは、『よくわからへんけれども、否定したい気持ちはないよ。自分の好きなように生きたらいいんだよ』って言ってくれて」
大学生のときには、当時好きだった子について母と一緒に話せた。
それは、母との楽しい記憶のひとつだ。
<<<後編 2022/07/02/Sat>>>
INDEX
06 高校でのカミングアウトとアウティング
07 大学でのLGBT講義で「衝撃」
08 大好きな母との別れ
09 FTMまでの「回り道」
10 LGBTインカレサークル共同代表として