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「MTX」はしっくりこない。ゆらぎながら生きていく【後編】

「MTX」はしっくりこない。ゆらぎながら生きていく【前編】はこちら

2020/08/20/Thu
Photo : Rina Kawabata Text : Sui Toya
河原 ゆお / Yuo Kawahara

1983年、神奈川県生まれ。子どもの頃から性別違和があり、高1のとき、女性性を主張できる要素がほしくて、爪を伸ばした。それをきっかけに「女性になりたい」という思いが強くなる。19歳のときにホルモン治療、29歳で、性同一性障害の診断を受けた。女性として介護事務の仕事に就いたものの、1日中女性として振る舞うのは予想に反して苦痛だった。自分のセクシュアリティについて、今も自問し続けている。

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INDEX
01 結婚と呼称
02 薄いつながり
03 ひらがな二文字
04 初めて「いいね」と言ってもらえた
05 男性の体に抗う
==================(後編)========================
06 心機一転
07 MTFとは言えない?
08 変化する体
09 どのセクシュアリティで働くか
10 境目をゆらゆら漂う

06心機一転

セクシュアリティについて調べる

高校に行かなくなったことを機に、今までより強く「女になりたい」と思い始める。

「その頃はまだインターネットが一般的ではなかったので、書店の心理学の棚を漁って、セクシュアリティについて書かれた本を片っ端から読んでみました」

「自分について知ることが、これからを考える唯一の手がかりだと思ったんです」

両親から、学校に行くことを強く勧められることはなかった。

「あまり自分に関与してこなかったんですけど、『期間が空かないうちに行ったほうがいいよ』とは言われました」

「大検のことも口にしていたので、最低でも高卒資格は取っておけ、っていう感じだったんだと思います」

高1の2学期まで、学校を1日も休まなかったため、3学期丸々行かなくても単位を取得できた。

高1の課程は修了したことにしてもらい、推薦で入学した高校を退学。

その年の春から、通信制高校に編入した。

変わらぬ関係

通信制高校では、学年の初めに、1年分の課題が全て配られる。

平日は家で課題をこなし、日曜日だけ学校に通う生活が始まった。

「当時、地元の児童館で、子どもたちに交ざって剣道を習ってたんです」

「中学のときに少しだけ部活に入ってて、筋力がなくても技術さえあれば勝てるところが好きだったんですよね」

「車椅子の友だちも変わらず仲良くしてくれてたし、毎日高校に通わなくても、引きこもりになることはありませんでした」

車椅子の友だちに「男でいたくない」「爪を伸ばしたい」といった悩みを、軽く相談したこともある。

何かアドバイスが欲しかったわけではなく、雑談の延長だった。

「彼の反応は『そうなんだー』っていう感じ。ゲームや漫画の話をしているときと同じテンションでした」

「セクシュアリティが男でも女でも、彼にとって私は仲の良い友だちのままだし、関係なかったんだと思います」

コミュニケーションの練習

通信制高校に編入するまでの期間、セクシュアリティについて調べるのと同時に、これまでの人との接し方を振り返った。

「人とコミュニケーションを取るのが苦手だっていう自覚がありました」

「前の学校で失敗したのは、それも原因の一つだったかもしれないと思ったんですよね」

「通信制高校に行ったら、積極的に人に声を掛けてみようと決めました」

初めてのスクーリングの日、緊張しながらも「どこに住んでるの?」などと同級生に声を掛けてみた。

驚くほどスムーズに友だちを作ることができた。

ここから、対人コミュニケーションの認識が大きく変わる。

「自分はこれまで、他人に興味を持って接してこなかったんだ、と気づきました」

「コミュニケーションが一方通行だったんです。興味のある分野の話は聞くけど、それ以外の話は聞き流してました」

「自分が話をしているときに、相手の反応が薄れてきたなと感じることもあったけど、そういうときにどう話を切り替えればいいかわからなかった」

「だから、変な空気のまま話を終えてしまうことが多かったんです」

新しい人間関係の中で、コミュニケ—ション能力を磨くことが、自分の密かな課題になった。

結果として、高校では友だちがたくさんできた。
生徒会の役員も経験した。

07 MTFとは言えない?

進学か、就職か

高3になっても、卒業後のビジョンは真っ白なままだった。

「就職するという選択は全くピンときませんでした。かといって、大学進学のための勉強はしたくなかったんです」

大学に行くという体(てい)で勉強するフリをすれば、一応「学生(仮)」という身分を手に入れられる。

それが、今をやり過ごす一番いい選択だと思い、親には「進学する」と伝えた。

「でも、その頃には勉強がすっかり嫌いになってたし、大学に入るつもりもなかったので、実際には全く勉強しませんでした」

「当然ながら、受けた大学は全部落ちたんです」

親に「どうするの?」と聞かれ、なし崩し的に1年浪人することになる。

しかし、予備校に通いながらも、相変わらず大学に行く気にはなれなかった。

「親からは、レベルの高い大学を目指しなさいと言われていました」

「合格できそうなところをピックアップしても、『そんな大学?』って渋い顔をされるんです」

「それほど勉強をせず、大学生になる方法を探していたときに、通信制大学のパンフレットを見つけました」

パンフレットには、早稲田大学の通信教育課程が新しく設立されると書いてあった。

入学に際して学力試験はなく、小論文と面接だけ。

「これだ! と思い、すぐに願書を出しました」

MTFの先輩とホルモン注射

通信制大学の講義は、オンラインがメインだった。

講義を受けるために、パソコンとネット環境を手に入れたことで、人とのつながりが一気に広がる。

「当時、ドラムマニアっていうゲームにハマってたんです」

「そのうちに、ゲームだけじゃ物足りなくなって、本物のドラムを叩きたいと思うようになりました」

ネットでメンバー募集中のバンドを探し、ライブ活動を開始。

同時期に、念願だったホルモン治療を始めた。

「通信制高校の先輩に、MTFの人がいたんです」

「その先輩と同じ部活の人がクラスにいたので、会わせてほしいって頼んで、話す機会を作ってもらいました」

先輩は、もうホルモン治療を始めていると言っていた。

それを聞いて、自分もホルモン注射を打てば、何かが変わるかもしれないと思った。

「とにかく、男性性を否定できる要素がほしかったんです」

MTFの人が書いたブログや本には、「初めてホルモン注射を打って病院から出たとき、世界の色が変わった」といった体験が書かれていた。

自分も、そういう変化を感じられるかもしれないと期待する。

しかし、初めてホルモン注射を打った感想は「ああ、具合悪い・・・・・・」というものだった。

「ホルモン治療のことは両親には言いませんでしたし、全くバレませんでした」

「バレなかったのは、ホルモン治療をしても、体に変化が現れなかったからです」

「男性性を否定できる要素は欲しかったけど、じゃあ自分は女なのかと問われたら、イエスと断言できる自信はありませんでした」

「それが、ホルモン治療をしても、変化が現れなかった要因じゃないかと思ってます」

それでも、ホルモン注射を打つことで、心の安定を得ることはできた。
その後、15年以上、定期的にホルモン注射を打ち続けることになる。

属するカテゴリがない不安

大学生の頃は、ネットの掲示板などでFTMの人やバイセクシュアルの人とコンタクトを取り、実際に会うこともあった。

「LGBT当事者に会うたびに、なんで私はこの人たちみたいに本気じゃないんだろう、って思いました」

本を読んでも、ネットを見ても、「自分のセクシュアリティを取り戻したい」「女(男)の体を手に入れたい」と努力している人ばかり。

「そういう人たちをMTF(FTM)って呼ぶのであれば、私はMTFじゃないのかもしれない、と思って心もとなくなったんです」

「性的指向が女性だし、リスクを負ってまで性別適合手術をしたいとは思いませんでした」

自分がどこにカテゴライズされる存在なのか、ずっとわからず、30歳を過ぎるまで悩み続けた。

「だいぶ後になってから、MTF/ビアンっていう言葉を初めて知りました」

「『MTFかも? 自分でも、女の人が好きでもいいんだ!』って、安心したことを覚えてますね」

08変化する体

声のトレーニング

28歳頃から、声を変える練習を始めた。

「当時、ネットで『両声類』っていう言葉が流行り始めたんです」

「男性が女性の声を出す発声法の俗称で、やり方を解説した動画が、ニコニコ動画などに上がっていました」

これなら自分にもできるかもしれないと思い、自主トレーニングを始める。

「コンベアの騒音が響き渡る倉庫で働いていたので、仕事中も、高い声で歌ったり発生練習をしたりしました」

「家に帰ってからも、お風呂で高い声を出す練習をしたり、小さい裏声を出す練習をしたり・・・・・・」

「もし、高い声を出せるようになったら、それは努力で手に入れることができる魔法だと思ったんです」

そうやってトレーニングを重ね続けた結果、あるとき急に、ナチュラルな女性の声が出せるようになる。

その声で人に話しかけると、男っぽい服装をしていても、女性として扱ってもらうことができた。

「声さえ変えられれば、女性として振る舞うことが可能だって、実感した瞬間でした」

容姿への自信

声のトレーニングを始めた頃、mixiで知り合った女性がいる。

「チャットをしていたときに、『女になりたいんだ』って言ったら、写真を撮らせてほしいと言われたんです」

相手の用意した服を着て、小綺麗なホテルの部屋で、撮影に応じる。

オフィスカジュアルや学生服、チャイナドレスなど、さまざまな服に着替えてポーズを取った。

「私はそのときまで、自分のことを、醜くて気持ち悪いと思っていたんです」

「でも、その人が撮った写真を見せてもらったら、とてもきれいな姿が写っていました」

「自分の容姿はそれほど悪くないんじゃないかって、その人のお陰で思えるようになったんですよね」

数回のやりとりを最後に、彼女とは疎遠になってしまった。

「撮影の目的はよくわからなかったんですけど、私にとっては、大きな自信を与えてくれた人でした」

声のトレーニングを始め、容姿に自信が持てるようになった頃から、不思議と体にも変化が現れ始める。

「勤めていた会社の健康診断で、問診のときに『お胸がちょっと・・・・・・』って言われたんです」

「他人から見てもわかるくらい、胸がふっくらし始めたことが、うれしかったですね」

10年近くホルモン注射を打ち続けても、何も変化が現れず、気持ちがくすぶっていたからだ。

肉づきが良くなったり、体型がくびれてきたりするなど、急に変化が始まった。

「体は、自己認識によって変わっていくものなんだろうな、って思いました」

そこから加速度的に動き出し、脱毛をしたり、性同一性障害の診断をもらうために病院にかかったりし始めた。

実家を出て一人暮らしをすることになり、好きな服装で過ごせる日も増えた。

「女性の服装で働くことが、そのときの第一の目標でした。その頃も、
性別適合手術をしようとは考えていなかったですね」

受け入れも拒絶もされない

セクシュアリティについて、家族に初めて話したのは、20代になったばかりの頃だった。

母から父に話してもらおうと思ったが、「父に話したら、ショックを受けてへこんでしまったから、ホルモン治療をやめてくれ」と言われた。

「嫌だ」と返すと、「本当にやめなくてもいいから、やめたって言ってくれ」と懇願され、ますます腹が立った。

「感情のぶつけどころがなくて、実家の壁に穴を空けたんです」

性同一性障害の診断を受けるために、病院に通っていたとき「診断が下りたら、名前を変えるからね」とも伝えた。

そのときは、もう何も言われなかった。

診断が下りる直前、病院の先生から「ご両親に説明しようか?」と申し出があった。

しかし、「先生が説明してくれるから、この日に一緒に病院に行かない?」と母を誘うと、迷うそぶりもなく「行かない」とピシャリとはねられた。

「『別に、もう知ってるからいい』って、言われたんです」

「私のことを知りたければ、一緒に行ってくれると思っていたので、ショックを受けましたね」

09どのセクシュアリティで働くか

素の自分はどこに?

倉庫での仕事を辞めた後、介護施設の事務職に就いた。

「戸籍は男性のままだけど、事情を話して、女性の服装で働かせてもらったんです」

介護士や看護師の先輩方は、「ゆおちゃん、ゆおちゃん」と呼んでかわいがってくれた。

「気づいていない方もいたでしょうし、事情を知った上でかわいがってくれる方もいました」

「MTFと伝えていたので『男が好きなんだよね?』って聞かれることは多かったですね」

「『結婚しました』って報告したときは、『え?』ってポカンとされることもありました(笑)」

職場には年配の女性が多く、セクシュアリティのことでバッシングを受けることはなかった。

しかし、中には「戸籍が男性なら男性」と、認識を頑なに変えない男性職員もいた。

「そういう人は、私のことを『河原くん』って呼ぶんです」

女性の服装で働くことができれば、今までよりずっと楽になると思っていた。

ところが、予想に反して、女性として振る舞い続けることは苦しかった。

「女性の場合、言葉遣いが荒かったり、がさつだったりしても『がさつな女性だな』で済むんですよ」

「でも、私が同じことをすると『やっぱり男なんだ』って思われてしまいます」

「だから、高い声を維持したり、言葉遣いに気をつけたり、女性らしい座り方や仕草を常に意識したり・・・・・・」

「そういうのは疲れるな、って思ったんです」

男として振る舞っても、女として振る舞っても、どちらも素の自分ではないように感じる。

両方経験してみた結果、どちらもしっくりこないというのが、今のところの結論だ。

スーツのダメージ

「今はIT関係の会社で働いていますが、服装の規定が決まってるんです」

「男性として雇われているので、規定に沿って、スーツで出勤しているんですけど・・・・・・」

「面接を受けたときは平気だろうと思っていましたが、甘かったです」

男であることをことさら主張する「男性タイプのスーツ」が、これほど自分を苦しめる服だとは、考えてもみなかった。

Yシャツやジャケット、革靴など、男らしく装って、男の声で仕事をする。

女性の服装で働いていたときとは比べ物にならないくらい、心が疲弊すると、初めの数日で痛感した。

「内定したときに、髪は切らなくていいっていう条件を呑んでもらったんです。だから会社では、ギリギリの抵抗として、シュシュをつけています」

「まずは、入社後に自分をみて頂く期間だと思いますし、もちろん規定には従います」

「でも、仕事で存在価値を示すことができて、もう少し楽な服装で勤務できるようになったらいいなと、密かに思っています」

「とにかく働きながら、今は、LGBTフレンドリーな会社にできたらいいなって、地盤固めをしているところです」

10境目をゆらゆら漂う

ホルモン治療をやめる決断

34歳のとき、15年間続けてきたホルモン治療をやめた。

「通っていた病院が、閉鎖してしまったことがきっかけでした」

「またイチから病院を探すのは大変だし、お金もかかるし、そろそろ体調のことを考えてやめたほうがいいかなって思ったんです」

ホルモン治療の影響は、体質など人によって大きく異なるが、自分の実感としては、ホルモン注射をやめると、体に相当な負担がかかると感じる。

「私の場合は、ごはんが食べられなくなって、1ヵ月で6kgくらい痩せました」

「痩せたことによって、女性っぽい丸みが失われてしまったので、そこは悔しいなって思いますね」

若い頃は、将来どうなってもいいと思っていた。

自分のなりたい姿になれれば、早死にをしてもいいとさえ。

しかし、30代半ばを過ぎた今、ホルモン注射を始めた頃に比べて体力は驚くほど落ち、「死」は想像していたよりずっと身近だと感じる。

何より、妻を遺して先に逝けないという思いもある。

「若い頃にいくら想像しても、想像通りの30代を迎えることは、絶対にありません」

「将来を考えてやめろとは言いませんが、つらい思いを覚悟して行動するといいよっていうのは、セクシュアリティに悩む若い世代に伝えたいですね」

自分が実践してきたように、声が高くなるだけで、周りの認識は変わる。

「努力の積み重ねで変えられる部分もあります」

「一概にホルモン治療をしなくてもいいんじゃないの? っていうのが、私の意見です」

性別越境者

36歳になった今も、セクシュアリティは曖昧だ。

「MTFとかMTXっていう言葉がいまいちしっくりこないので、人に説明するときは『性別越境者』って言ってるんです」

「相手との関係や、TPOに合わせて、境目を行ったり来たりしてます」

「最近は男性スタイルのスーツばかり着ていて、久しぶりに女性の服装で外出したんですけど、脚を閉じて座れるっていいなと思いましたね」

「これは、性別越境者にしかわからない感覚なんじゃないかと思います」

一度、男としての自分を知っている友だちに、女性の見た目で会いに行ったことがある。

友だちはいつも通り接してくれたけれど、自分の中でしっくりこない感覚があった。

「男として私を認識している友だちの前では、男でいたほうが楽みたいです」

「自分がどうありたいかよりも、相手にどう認識されているかを優先するほうが、私にとっては生きやすいんだろうなと思いました」

関係性を見極め、相手の形に合わせてセクシュアリティを自在に変化させる。

それが、自分なりの処世術なのかもしれない。

境目をゆらゆら漂いながら、これからも、したたかに生きてやろうと思っている。

あとがき
「爪を伸ばしたかった」。あの頃のゆおさんが語る。表情は戸惑いと夢見るような感じ。そんなことで? と思う人がいるだろうか。 そう、そんなことすら深い境目があるのだ■[人になんと言われようと・・・]は、自分を支持しながら生きる方法だ。でも、それ以外もやっぱりあるなと思ったゆおさんの取材。自分が社会的ないきものだと感じて、どこかホッとした■誰かを通して見える私も、ほんと。今日も明日も、私を生きる、人と生きるってことだから。(編集部)

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